EP 6
敵視点の絶望 ―― 忠義という名の滑稽な寝言
元禄14年3月下旬。播磨国、赤穂藩。
筆頭家老・大石 内蔵助は、藩邸の書院で、血の気を失った顔のまま膝の上で拳を強く握りしめていた。
「……殿が、切腹。お家は、取り潰し……じゃと?」
江戸からの第一報(早籠)がもたらした凶報は、赤穂藩を根底から揺るがすものだった。
主君・浅野内匠頭が、江戸城・松の廊下で吉良上野介に刃傷に及び、即日切腹させられたというのだ。
「おおお……殿! なんという痛ましい……!」
「吉良のジジイめ、きっと殿を散々侮辱したに違いねえ! 許せねえ、今すぐ江戸に上って吉良の首を討ち取ってやる!」
周囲を取り囲む血気盛んな藩士たちが、涙を流しながら床を叩き、口々に「仇討ち」を叫んでいる。
だが、大石内蔵助の頭脳は極めて冷静だった。
(馬鹿を言え。今、我らが暴発すれば、それこそ御家再興の道は完全に閉ざされる。ここは涙を呑んで城を明け渡し、まずは残った藩の資金を……)
大石は、藩の塩田開発で蓄えた「七百両(約七千万円)」の隠し金の存在を思い浮かべていた。大坂の豪商・天王寺屋などに預けてあるその金があれば、浪人となる家臣たちの生活をしばらくは支えられる。そしてほとぼりが冷めた頃、その金を軍資金として、吉良を討つ。
(吉良上野介……相手は武芸の心得もないただの老いぼれ。公儀の怒りさえ買わぬよう立ち回れば、討ち取るのは容易い)
そう大石が内心で「悲劇の忠臣による、美しき復讐劇」のシナリオを組み上げようとしていた、まさにその時だった。
「ご家老!! 大変でございます!!」
書院の襖が乱暴に開き、江戸に潜伏させていた間者が、転がるようにして飛び込んできた。その顔は、主君の死を聞いた時以上の、異様な「恐怖と焦燥」に歪んでいた。
「どうした、騒々しい! 江戸で何か動きがあったか!」
「え、江戸の町が……江戸の町が、恐ろしいことになっております! これを……これをご覧ください!」
間者が震える手で差し出したのは、江戸中で飛ぶように売れているという数枚の「瓦版」だった。
大石はそれをひったくり、視線を落とす。そして――自身の目を疑った。
『赤穂の暴君、乱心! 刃傷沙汰の顛末』
『奇行目立つ浅野内匠頭、幻覚を見て凶行か?』
『慈悲深き吉良様、狂刃を前に無抵抗の鑑!』
「な、なんだこれは……!?」
大石の声が裏返った。
瓦版には、浅野内匠頭が数日前からおかしな汗をかき、虚空に向かって独り言を言っていたこと。赤穂の領民が重税に苦しんでいたという捏造された噂。そして、吉良上野介が「病んだ浅野を不憫に思い、必死に庇い続けていた人格者」として、涙を誘う美談仕立てで描かれていたのだ。
「江戸の民草は、皆これを信じておるのか!?」
「は、はい! 江戸の町人だけでなく、諸大名の家中ですら『浅野は狂人であったのだから、即日切腹も当然』『吉良様はお労しい』と同情論一色に染まっております……! 我ら赤穂の者は『狂人の家来』として、江戸中から白い目で見られる始末で……!」
「馬鹿な……っ!」
大石は、自分の足元がガラガラと崩れ落ちていくような錯覚に陥った。
武士の仇討ちにおいて、最も重要なのは「大義名分」である。世間が「浅野様は無念だっただろう、忠臣たちよ立派に仇を討て」と同情してくれなければ、討ち入りはただの「狂った逆恨みテロ」に成り下がってしまう。
大石の描いていた美しき復讐劇のシナリオは、開幕する前から、江戸の「世論」という見えない怪物によって泥水に沈められていた。
「誰だ……誰が、公儀の目を盗んでこんな大規模な噂を仕掛けた……? まさか、吉良上野介が……? いや、あの老いぼれに、瓦版屋どもを金で操るような知恵と胆力があるはずが……!」
大石の思考が混乱の極みに達した時、さらなる絶望が、彼をどん底へと叩き落とした。
「内蔵助殿!! 大坂から、早馬が参りました!!」
血相を変えて飛び込んできたのは、赤穂藩の勘定方を務める家臣だった。
手には、大坂の豪商・天王寺屋からの書状が握られている。
「大坂の天王寺屋がどうかしたか! 預けてある七百両の引き出しは……!」
「そ、それが……! 凍結されました!!」
「凍結……だと?」
大石は、全く意味が分からず聞き返した。
「天王寺屋からの書状によれば、幕府の勘定奉行・荻原重秀様より、大坂の全商屋に対して『赤穂藩の残金はすべて公金とみなし、大石ら元赤穂藩士への引き渡しを一切禁ずる』という厳命が下ったとのこと!」
「なっ……! 公金だと!? あれは我らが血の滲む思いで貯めた……!」
「さらに……! 『赤穂の者に金を渡した商屋は、公儀への反逆とみなし即刻取り潰す。逆に公儀に従えば、吉良家の良質な塩の専売権を融通する』との裏通達まで回っているそうです。天王寺屋は『もう二度と関わらないでくれ』と……っ!」
しん、と。
書院の中が、水を打ったように静まり返った。
先ほどまで「吉良の首を!」と息巻いていた藩士たちの顔から、完全に表情が抜け落ちていた。
金がない。
一銭も、ないのだ。
明日からの飯はどうする? 江戸へ行く旅費は? 武器を買う金は? 家族を養う金は?
「忠義」という精神論だけでは、刀一本買うことはできない。大石が後生大事に抱え込もうとしていた討ち入りのための命綱(軍資金)は、幕府の法権力と、吉良の領地の特産品という「圧倒的な利益(算盤)」によって、見事に断ち切られてしまったのである。
「…………ああ」
大石内蔵助の口から、乾いた、ひゅっとした音が漏れた。
彼はようやく、理解したのだ。
自分たちが相手にしようとしているのは、茶室でふんぞり返っているだけの、意地悪な老人などではない。
人の心の卑しさを熟知し、大衆を扇動し、カネの力で喉笛を締め上げる。息を吸うように権力を操り、一滴の血も流さずに敵を社会的に抹殺する、途方もない『政治の怪物』だ。
大石の脳裏に、会ったこともない「怪物」が、遠く離れた江戸の空の下で、こちらの惨めな姿を見下ろして鼻で笑っている幻影が浮かんだ。
『忠義じゃと? 嗤わせるな。テメェらの忠義は、いくらになるんじゃ?』
そんな声が聞こえた気がした。
「ご家老……大石様……我々は、どうすれば……。金も、名誉もなく……このままでは、ただ野垂れ死ぬしか……!」
家臣の一人が、泣きそうな声で大石にすがりついた。
「わからん……」
大石は、虚ろな目で宙を見つめた。
「私にも……わからん。我々は、いったい『何』と戦っているのだ……?」
吉良上野介(若林幸隆)が仕掛けた「情報戦(孫子)」と「経済制裁(論語と算盤)」は、刃を交えることすらなく、赤穂浪士たちの心を根底から粉砕し始めていた。
忠臣蔵という名の茶番劇は、いまや、手足をもがれた赤穂浪士が、絶対防衛要塞へと仕上がっていく吉良邸という名の「屠殺場」へと向かって、泥を這い進むだけの地獄のデスゲームへと変貌していた。
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