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EP 5

『韓非子』第四手 ―― 金曜の南蛮汁と「信賞必罰」の要塞

元禄14年、春。

吉良邸の厨房から、江戸の町には似つかわしくない、強烈でスパイシーな香りが漂っていた。

「……ふぅ、ふぅ。少し山椒が強すぎるが、まあ悪くない。ウコンと生姜の効き目は十分じゃ」

吉良邸の奥座敷。若林幸隆(吉良上野介)は、額に玉の汗を浮かべながら、漆塗りの椀に盛られた黄色い「汁」をすすっていた。

南蛮渡来の香辛料をふんだんに使い、鶏肉と根菜をドロドロになるまで煮込んだ薬膳汁――現代における「カレーライス」の原型である。

江戸時代に七曜の概念は定着していないが、若林は自らの体内時計と暦を照らし合わせ、「金曜日」にあたる日を割り出していた。

現代日本において、防衛副大臣、そして防衛大臣を務め上げた若林にとって、「金曜日のカレー」は特別な意味を持つ。海上自衛隊が長期の航海で曜日感覚を失わないために金曜日にカレーを食べる習慣を、彼もまた自身のルーティンとして厳守していたのだ。

スパイスの刺激が老いた肉体の血流を爆発的に加速させ、脳のシナプスを「平時の政治家」から「有事の防衛相」へと切り替えていく。

(……情報戦スピンと経済制裁(口座凍結)は仕込んだ。大石のタヌキは今頃、身動きが取れず歯ぎしりしとるじゃろう。じゃが、窮鼠は猫を噛む。追い詰められたテロリストが、自暴自棄になって突っ込んでくる可能性は常にある)

椀を空にした若林は、手ぬぐいで汗を拭い、傍らに控える小林平八郎に視線を向けた。

「平八郎。家臣どもは庭に集めてあるな?」

「はっ。非番の者も含め、吉良家家臣および出入りの者、およそ百名。全員揃っております」

「よし。……ワシらの『軍隊』を再教育するぞ」

若林は立ち上がり、ゆっくりと庭へ向かった。

***

吉良邸の広い中庭には、百名近い家臣たちが整列していた。

彼らの顔には一様に、隠しきれない不安と動揺が浮かんでいる。無理もない。主君である吉良上野介が江戸城で斬りつけられ、相手の浅野内匠頭は切腹。赤穂藩の浪人たちがいつ報復テロにやってくるか分からないのだ。

「明日は我が身か」「いっそいとまをもらって逃げ出そうか」――そんな後ろ向きな空気が、庭全体を重く覆っていた。

縁側に姿を現した若林は、そんな家臣たちの怯えた顔を冷徹に見回した。

(泰平の世に慣れきった、ただのサラリーマン侍どもめ。……こいつらに「忠義」だの「主君を守れ」だの説教したところで、いざとなれば逃げ出すのがオチじゃ)

若林の政治哲学の一つ、『韓非子』。

人間は根本的に利己的な生き物であり、道徳や情に頼った組織運営は必ず崩壊する。組織を動かす唯一の絶対法則は「ルール」と「術(評価システム)」、すなわち徹底した『信賞必罰』である。

若林は懐から純銀の煙管を取り出し、縁側の手すりに打ち付けた。

――カンッ!!

鋭い金属音が空気を切り裂き、百名の家臣たちの肩がビクッと跳ねた。

若林は、先ほどの「被害者の老人」の仮面を完全に脱ぎ捨て、百戦錬磨の将軍のような圧倒的な覇気を放って口を開いた。

「皆の者、よく聞け。……隠さずに言う。赤穂の浪人どもは、必ずこの吉良邸を襲撃してくる。ワシの首を狙ってな」

その言葉に、家臣たちの間に「ひっ」と悲鳴に似たどよめきが走った。

「静まれ!!」

平八郎が一喝し、庭が再び静寂に包まれる。若林は薄く笑った。

「怯えることはない。奴らは主君の仇討ちなどと寝言をほざくじゃろうが、その実態は、カネも大義名分も失ったただの狂犬の群れじゃ。……そこで、お前たちに新たな『法』を申し渡す」

若林は、背後の平八郎に合図を送った。

平八郎が縁側にどさりと置いたのは、見覚えのある大きな皮袋――中には、瓦版屋に見せたものとは比べ物にならないほどの、大量の黄金(小判)が詰まっている。

「ええか、よう耳の穴かっぽじって聞け。

赤穂浪人どもが襲撃してきた際、奴らの首を一つでも討ち取った者には、その場で**『金百両(約一千万円)』**を褒美として取らす!」

「ひゃ、百両……!?」

家臣たちの顔色が一瞬にして変わった。百両といえば、下級武士なら一生遊んで暮らせるほどの莫大な大金である。

「首を一つ取れば百両。二つ取れば二百両じゃ。さらに、門や塀を死守し、一歩も引かなかった者には特別手当として五十両。負傷した者には、その傷の深さに応じて治療費と見舞金を生涯保証する!」

若林の声が、腹の底から響き渡る。

人間の本性を知る『韓非子』の教え通り、恐怖を金銭的欲望で上書きしていくのだ。

「ただし! 敵を恐れて逃げ出した者、持ち場を離れた者、戦わずに隠れていた者は……問答無用で切腹、あるいは家名断絶とする。言い逃れは一切許さん」

圧倒的な恩賞と、冷酷無比な罰則。

完璧なまでに整備された「信賞必罰」のシステムを前に、家臣たちの顔から「恐怖」が消え去っていくのを、若林ははっきりと見て取った。

彼らの瞳に宿り始めたのは、怯えではない。赤穂浪士を「自分を億万長者にしてくれる歩く金塊」として見る、獰猛な傭兵の光だった。

「テロリストどもに、武士の情けなど無用。ワシの首を狙う泥棒猫どもを、一匹残らず叩き潰せ。……良いな!!」

「「「は、ははぁっ!!!」」」

百名の怒号のような返事が、吉良邸に轟いた。

もはやここに、主君の巻き添えを恐れるサラリーマン侍は一人もいない。最強の防衛部隊が誕生した瞬間だった。

***

家臣たちを解散させた後、若林は平八郎を自室に呼び、広げた吉良邸の図面を指し示した。

「……さて、兵の士気モチベーションは完璧に仕上がった。次は『ハードウェア』の改修じゃ」

「器……屋敷の造りを変えるのでございますか?」

平八郎が図面を覗き込むと、そこにはあちこちに奇妙な書き込みがされていた。

「その通りじゃ。今のままでは、どこからでも侵入できるザル警備じゃからな。……平八郎、お前なら敵が攻めてきた時、どう守る?」

「それは……当然、門を固く閉ざし、塀を乗り越えようとする者を槍で突き落とします」

「三流の考えじゃな」

若林は鼻で笑い、煙管の雁首で図面の「表門」と「裏門」をトントンと叩いた。

「防衛の基本は『拒否』ではない。『誘導と殲滅』じゃ。ええか、門はあえて突破されやすいように見せかけろ。そして、門を突破して屋敷の中庭に入り込んだ瞬間……そこを奴らの墓場キルゾーンにする」

若林が書き込んでいたのは、現代の市街地戦闘や基地防衛で用いられる「フェイタル・ファネル(致命的な漏斗)」と呼ばれる戦術の応用だった。

「庭に通じる通路には、目隠しの塀やバリケードを迷路のように配置する。敵は門を突破したと油断して突っ込んでくるが、視界を遮られ、部隊が分断される。そこへ……」

若林は、図面の中庭の四方に「×」印を書き込んだ。

「四方を囲む建物の二階、窓の隙間、屋根の上から、弓やつぶて、熱湯を使って、袋のネズミになった奴らを高所から一方的にすり潰す。……剣豪だろうが何だろうが、前後左右、そして頭上からの一斉攻撃クロスファイアを受ければ、ただの肉の塊じゃ」

「こ、これは……」

平八郎は戦慄した。これは武士の戦いではない。純然たる「殺戮のシステム」だ。

敵と名乗ることも、刃を交えることも許さず、虫けらのように駆除する。いっそ清々しいほどの冷酷さだった。

「史実……いや、ワシの勘では、奴らは雪の降る深夜を狙って来る。そのための照明(松明)の配置、滑り止めの灰の備蓄も忘れずにな」

若林は懐中時計の文字盤を指の腹で撫でながら、極上の愉悦に顔を歪ませた。

「大石よ……。江戸の世論から見放され、カネも尽き、飢えと寒さに耐えながら、ようやく辿り着いた討ち入りの舞台。……その扉を開けた瞬間、テメェらを待っとるのは、情け容赦のない近代防衛兵器システムによる蹂躙じゃ」

圧倒的な知略と、冷徹な法治主義。

若林幸隆の頭脳によって、吉良邸は江戸時代において最も攻略不可能な「絶対防衛要塞」へと変貌を遂げようとしていた。

読んでいただきありがとうございます。

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