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EP 3

『孫子』第二手 ―― 瓦版と小判、大義名分を焼き尽くす情報戦

深夜の吉良邸。

厳重な警戒が敷かれた屋敷の裏口から、小林平八郎に連れられて一人の男がコソコソと足を踏み入れた。

男の名は、弥助やすけ。江戸の町で読売よみうり――いわゆる瓦版を広く元締めする、情報屋の顔役である。

弥助は冷や汗をかきながら、案内されるままに奥座敷へと通された。

(くそっ、なんで俺がこんな所に……!)

江戸中が今、この吉良邸で起きた刃傷沙汰の噂で持ちきりだ。

庶民の感情としては、「あの短気な浅野がキレたということは、よほど吉良のジジイがイジメたに違いない」「浅野は無念だっただろう」という同情論に傾きつつあった。弥助たち瓦版屋も、その空気に乗じて「吉良の悪逆非道ぶり」を面白おかしく書き立て、ひと儲けしようと企んでいた矢先だったのだ。

そこへ、当の吉良家から極秘の呼び出しである。口封じに斬り捨てられるのではないかと、弥助の生きた心地はしなかった。

「……弥助とやら。面を上げい」

薄暗い部屋の奥、上座に敷かれた布団の上に、頭に白布を巻いた吉良上野介が座っていた。

「は、ははぁっ! お、お呼びにより罷り越しました!」

弥助は平伏したまま、震える声で答えた。

「そう怯えるな。わしは何もお主を取って食おうというのではない。今日は、江戸の空気をよく知るお主に、少し頼みがあって呼んだのじゃ」

声は弱々しく、いかにも手傷を負った老人といった風情だ。弥助は少しだけ顔を上げ、盗み見るように吉良の顔を窺った。

(なんだ、ただの気弱そうな爺さんじゃねえか。これなら適当に調子を合わせて逃げ出せそうだぜ……)

そう弥助が安堵しかけた、その瞬間。

――カンッ!

静寂を切り裂くように、鋭い金属音が部屋に響き渡った。

吉良が手にした純銀製の煙管きせるの雁首を、灰吹の縁に打ち付けた音だった。

「ひっ!」

弥助が顔を上げた時、そこに「気弱な老人」は存在しなかった。

薄暗がりの中、猛禽類のように鋭く冷酷な眼光が、弥助の腹の底まで見透かすように見下ろしている。

「……ええか弥助。ワシの時間は高いんじゃ。三文芝居はここまでにしようや」

「へ……?」

突然の、ドス黒く響く聞き慣れない言葉(広島弁)。弥助の脳が処理に追いつかない。

吉良――若林幸隆は、煙管を咥え、ゆっくりと紫煙を吐き出した。

「おどりゃあ、今頃、江戸の連中が面白がるような作り話をでっち上げて、ワシを悪者に仕立て上げようと算段しとったじゃろうが。違うか?」

「と、ととと、トンデモゴザイマセン! わっしらはそんな恐れ多いこと……!」

「嘘をつけ。ワシがマスコミ……瓦版屋の性根を知らんと思うとるんか」

若林は鼻で笑うと、懐からずしりと重い皮袋を取り出し、弥助の目の前に無造作に放り投げた。

チャリン、と鈍い音がして、袋の口から黄金色の輝きがこぼれ落ちる。

「こ、小判……! しかも、山吹色の……!」

弥助の目が釘付けになった。ざっと見積もっても百両(現在の価値で約千万円)は下らない。

「それは手付金じゃ。江戸中の瓦版、噂話、辻講釈……あらゆる情報網を使って、ワシが用意した『真実』を江戸中にばら撒け。仕事の成果次第で、その十倍は払ってやる」

「じゅう……十倍!?」

弥助は息を呑んだ。それほどの金があれば、一生遊んで暮らせる。恐怖よりも、抗いがたい強烈な欲望が弥助の胸を支配し始めた。

「ワ、ワシらに……何を書けと仰るんで?」

若林はニヤリと、極悪非道な笑みを浮かべた。

「簡単なことじゃ。今回の刃傷沙汰、浅野が『忠義の武士』などという綺麗なもんじゃなかったと、江戸の連中に教えてやるんじゃ」

若林は、現代の政治家として幾度となく世論を誘導してきた『スピンコントロール(情報操作)』の手法を、江戸の瓦版屋に叩き込み始めた。

「ええか、ポイントは三つじゃ。

一つ、浅野内匠頭は以前より心を病んでおり、たびたび狂気の発作を起こしていたこと。

二つ、浅野の領地である赤穂の民草は、主君の奇行と重税に苦しめられていたこと。

三つ、ワシ、吉良上野介は、そんな浅野を不憫に思い、必死に庇い、刃傷沙汰の際も無抵抗で耐え忍んだ人格者であること」

「な、なるほど……! しかし、そんな都合のいい話、江戸の連中が信じますかい?」

弥助がプロの視点で疑問を呈す。

「信じるさ。人間っちゅうのはな、自分の信じたいものを信じる生き物じゃ。最初から『浅野は狂人だ』と断言するな。まずは『あの日、浅野はおかしな汗をかいていた』といった小さな噂から流せ。次に『赤穂の浪人から聞いた話』として、暴君ぶりをでっち上げろ。小さな嘘をいくつも重ねて、ひとつの『空気』を作るんじゃ」

若林は煙管で弥助を指し示した。

「『悲劇の被害者』であるワシと、『狂気に狂った暴君』浅野。この対立構図を徹底的に擦り込め。……ワシの言っとる意味、わかるか?」

弥助はゴクリと唾を飲み込み、深く平伏した。

「……へえ。合点がいきやした。大衆の目を、吉良様への同情と、浅野様への軽蔑に向けさせる。任せてくだせえ、わっしら瓦版屋の腕の見せ所でさあ」

「よう言った。頼んだぞ、弥助」

黄金の袋を抱え、逃げるように吉良邸を去っていく弥助の後ろ姿を見送りながら、若林は満足げに紫煙をくゆらせた。

傍らに控えていた平八郎が、戦慄を隠せない声で尋ねる。

「殿……あのような卑しき者共に大金を渡し、嘘の噂を流させるなど……武士のすることでは……」

――カンッ!

若林は再び煙管を鳴らし、平八郎を鋭く一瞥した。

「平八郎。武士の面子で国が守れるんか? 古の兵法書『孫子』にはこうある。『百戦百勝は善の善なる者に非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり』とな」

若林は、オランダ渡りの懐中時計を取り出し、カチカチと動く針を見つめた。

「赤穂の浪士どもがワシを殺しに来る理由は何じゃ? 『主君の無念を晴らす忠義』……つまり『大義名分』じゃ。奴らは、自分が正義じゃと信じとるからこそ、命を懸けられる」

そこまで言うと、若林の目が嗜虐的な喜悦に歪んだ。

「じゃが、江戸の世論が『浅野はただの狂人』と見なしたらどうなる? 奴らのやろうとしとる討ち入りは、主君の仇討ちなどという美談ではなく、ただの『イカれた元主君の妄想を引き継いだ、タチの悪いテロ』に成り下がる」

平八郎はハッとした。

大義名分を失った武士ほど、惨めなものはない。世間から称賛されるどころか、石を投げられ、狂人扱いされるのだ。

そうなれば、四十七人集まるはずの同志たちは、次々と疑心暗鬼に陥り、脱落していくだろう。

「ワシらは一滴の血も流さず、奴らのメンタルを根っこからへし折る。……さあ、大石内蔵助。テメェが後生大事に抱えとる『忠義』とやらが、江戸中の笑いもんになる気分はどんなもんじゃろうのう」

若林幸隆――吉良上野介の放つ漆黒の知略は、赤穂浪士たちを待ち受ける地獄の、まだほんの序章に過ぎなかった。

読んでいただきありがとうございます。

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