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EP 2

『君主論』第一手 ―― 完璧なる被害者と官僚の操縦法

「――上野介殿。お加減の優れぬところ大儀であるが、公儀の命により、此度の刃傷沙汰について仔細を伺いたい」

元禄14年3月14日、夕刻。

吉良邸の奥座敷に、幕府から派遣された目付めつけたち数名が足を踏み入れた。彼らは警察と監察を兼ねる、幕府の冷徹な官僚機構の歯車である。

凄惨な刃傷事件の被害者である吉良上野介から、正式な供述(調書)を取るためにやってきたのだ。

部屋には重苦しい緊張感が漂っていた。少し離れた場所には、吉良家家臣の小林平八郎が、主君を守るように固い表情で控えている。

「おお……目付殿。お役目、ご苦労様にござる……」

布団に横たわる若林(吉良)は、かすれた、しかし絞り出すような声で応えた。

その頭には痛々しい白布が巻かれ、わざと少しだけ血の滲みを強調するように結び目が調整されている。顔色は青白く、いかにも「死の淵から生還した哀れな老貴族」そのものであった。

(さて、官僚の手懐け方など、永田町でも霞が関でも、江戸城でも同じことよ)

若林の脳裏には、数々のスキャンダルや国会答弁をすり抜けてきた現代の記憶がフラッシュバックしていた。

官僚という生き物は、真実よりも「上が納得する辻褄の合ったストーリー」を欲しがる。ましてや、短気で極端な法令(生類憐みの令)を好む第5代将軍・徳川綱吉が「浅野は即日切腹」と即断した直後だ。

ここで吉良が「浅野が憎い」「あいつが悪い」と騒ぎ立てれば、どっちもどっちの「喧嘩両成敗」の空気が再燃しかねない。

正解は一つ。「100対0で、相手の完全な過失(狂気)である」と証明することだ。

「上野介殿。内匠頭殿は『この間の遺恨、覚えたるか』と叫んで斬りかかったと複数の証言がある。何か、恨まれるような心当たりはござらぬか?」

目付の鋭い問いかけに、若林はゆっくりと首を振り、そして――ふっと、悲しげな笑みを浮かべた。

「心当たりなど……あるはずがござらぬ。わしはただ、勅使接待の作法を、手取り足取り、丁寧にお教えしていただけにござる。しかし……」

若林は一度言葉を切り、大きく咳き込んで見せた。目付たちが思わず身を乗り出す。

「しかし、浅野殿は数日前からおかしかった。急に虚空を睨みつけたり、大汗をかいて意味不明なうわ言を漏らされたり……。今思えば、お労しいことに、何か心の病を患っておられたのやもしれぬ。狂気の発作が、わしに向かったのだと……そうとしか思えぬのです」

「心の病……狂気の発作、とな」

目付の筆が走る。

若林は、自分の非を否定するだけでなく、浅野内匠頭を「狂人」と定義した。これにより、浅野の行動から「武士の意地」や「忠義」といった大義名分を完全に剥奪したのである。

「恨むなど、滅相もない……。公儀の神聖なる江戸城を血で汚してしまったこと、上様に対して申し訳なさで胸が張り裂けそうじゃ。浅野殿が即日切腹と聞き、わしは……わしは……」

若林は両手で顔を覆い、しゃくり上げた。

完璧な涙。かつて国会の党首討論で、被災地の視察を語った際に全国民の同情を誘った「あの涙」である。

「わしの指導が至らなかったばかりに、若い命を散らさせてしまった……! 浅野殿が哀れで、哀れでならぬ……っ!」

この瞬間、目付たちの顔つきが明確に変わった。

疑念の目は消え去り、そこにあるのは「被害者でありながら加害者を悼む、なんと慈悲深き老翁か」という深い敬意と同情だった。

将軍・綱吉は「慈悲」を重んじる。この吉良の態度は、将軍の耳に入れば間違いなく絶賛されるだろう。

「……上野介殿のお心、しかと承りました。上様にも、ありのままをご報告申し上げます。どうか、ご安心を」

目付が深く頭を下げた。これで、幕府(国家権力)による「吉良は完全な被害者」という公式な保証書(お墨付き)を手に入れたことになる。

だが、若林の要求はこれだけでは終わらない。

「目付殿……一つだけ、公儀にお縋りしたい儀がございます」

「何なりと」

「わしの命など、とうに惜しくはござらぬ。ただ……浅野殿の遺臣たちが、乱心した主君の仇と勘違いし、この泰平の江戸で暴発せぬかが心配でならぬのです。江戸の民草が巻き込まれ、上様の御治世に泥を塗るようなことになれば、わしは腹を切っても詫びきれませぬ……」

自分の身の安全ではなく、「上様の治世」と「江戸の治安」を案じる体裁をとる。

これを聞いた幕府は、「治安維持」を名目として、吉良邸周辺の警護パトロールを無償で強化せざるを得なくなる。

「……承知いたしました。警護の儀、必ずや手配いたしましょう」

目付たちは感服した様子で吉良邸を後にした。

***

足音が完全に遠ざかり、部屋に静寂が戻った。

控えていた小林平八郎が、感極まった様子で口を開く。

「殿……! 某、殿の御慈悲深きお心に、涙が止まりませぬ。あの狂人・浅野のために涙を流されるとは……!」

しかし。

平八郎の言葉を遮るように、鋭い金属音が部屋に響き渡った。

――カンッ!

「……殿?」

布団の上に半身を起こした若林は、いつの間にか取り出した純銀の煙管きせるの雁首を、灰吹に打ち付けていた。

先ほどまでの弱々しい老人の面影は、綺麗さっぱり消え失せている。

その顔に張り付いているのは、相手の底まで見透かすような、冷酷で底意地の悪い「政治家のかお」だった。

「……平八郎。おどりゃあ、まだそんな三流の芝居に騙されとるんか」

「へ……?」

ドス黒い広島弁に、平八郎は間抜けな声を漏らした。

「ええか。マキャベリっちゅう南蛮の学者が書いた『君主論』にこういう教えがある。――為政者は、慈悲深く、信義に厚く、誠実であると『見せかける』ことが最も重要である、とな」

若林は紫煙を細く吐き出し、口角を吊り上げた。

「ワシが浅野のガキを哀れんどるじゃと? 冗談は休み休みにせえ。あんな感情をコントロールできん無能は、政治の世界じゃ三日で消される。ワシが流した涙はな、幕府という巨大な『盾』をタダで利用するための入場料じゃ」

平八郎は、己の主君から発せられる異様な覇気と、常軌を逸した合理主義に戦慄した。しかし、同時に奇妙な胸の高鳴りを感じていた。

今の吉良上野介は、絶対に負ける気がしない、圧倒的な強者のオーラを纏っている。

「平八郎、次の一手を打つぞ」

若林は懐中時計を取り出し、時刻を確認するような仕草をした(まだ江戸の時刻の読み方には慣れていないが、雰囲気作りには十分だ)。

「幕府の上層部は騙した。次は『江戸の世論』じゃ。カネを惜しむな。江戸中の瓦版屋かわらばんやの元締めを、秘密裏にここへ連れてこい。一人残らずじゃ」

「瓦版屋……? はっ、大衆の噂話などを書く卑しき者たちを、何に用いるのでございますか?」

若林の目が、暗い歓喜に細められた。

情報戦の真髄――『孫子』の兵法が幕を開けようとしていた。

「世論(空気)をワシらが作るんじゃ。赤穂の田舎侍どもが『忠義のテロリスト』になる前に、あいつらの主君を、江戸中から鼻で笑われる『ただの狂人』に書き換えちゃる。……大義名分のねえ戦がどれほど惨めなもんか、骨の髄まで教えちゃるわい」

忠臣蔵という歴史的悲劇は、若林幸隆という一人の怪物の手によって、今まさに、一方的な蹂躙劇へと書き換えられようとしていた。

読んでいただきありがとうございます。

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