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第十四章 最悪の覚醒と、反撃の狼煙

眉間の激痛と極上の愉悦 ―― 「忠臣蔵」という名の三流茶番劇

じくり、じくりと……。

眉間から後頭部へと抜けるような、焼け付く痛みが意識を覚醒させた。

鼻を突くのは、真新しい畳の匂いと、鉄錆のような血の臭い。そして、上質な沈香の香りだ。

重い瞼をゆっくりと持ち上げると、ぼやけた視界の中に、見慣れぬ豪奢な格天井ごうてんじょうが映り込んだ。体を動かそうとすると、額の傷口が脈打つように痛み、思わず低い呻き声が漏れる。

「おお……! 殿! お気がつかれましたか!」

枕元で弾かれたように身を乗り出してきたのは、月代さかやきを剃り上げた武士だった。その顔には深い疲労と、尋常ではない焦燥が張り付いている。

(殿、だと……?)

若林わかばやし 幸隆ゆきたかは、痛む頭の奥で冷静に情報を処理し始めた。

自分は60歳。現代日本において、総理大臣すら裏で操る与党幹事長であるはずだ。かつて戦前の総理・近衛文麿の身体に人格ごとタイムスリップし、己の政治哲学のすべてを注ぎ込んで軍部を完膚なきまでに叩き潰し、太平洋戦争という国家の破滅を回避した経験を持つ。

だが、今はどうだ。この老いた身体、絹の寝巻き、そして周囲に控えるまげを結った男たち。

直後、脳髄に稲妻のような衝撃が走り、他人の記憶が濁流となって若林の意識に流れ込んできた。

江戸城、松の廊下。

『この間の遺恨、覚えたるか!』という甲高い怒声。

背後から突然襲いかかってきた若い男の狂気に満ちた顔。振り下ろされた凶刃。周囲のパニック。「殿中でござる!」という叫び声。

「……なるほど。そういうことか」

若林は、自分の置かれた状況を完全に理解した。

ここは江戸時代、元禄14年3月14日。

己が入り込んだこの肉体の主は、高家肝煎・吉良 上野介 義央(きら こうずけのすけ よしひさ)。

そして今しがた、赤穂藩主・浅野内匠頭に理不尽な刃傷沙汰を起こされ、屋敷に運び込まれた直後なのだ。

日本の歴史上、最も有名で、最もヘイトを集める「悪役」。

約2年後、雪の降る夜に47人のテロリストたちに屋敷を襲撃され、首を刎ねられる運命にある男。

「…………ふ、ふふっ」

常人であれば、自分が「絶対に殺される運命」にあると知れば絶望し、恐怖に震えるだろう。

だが、若林幸隆という怪物は違った。

彼の脳内では今、かつて近衛文麿として強大な軍部を出し抜いた時と同じ、いや、それ以上の強烈な「勝利のドーパミン」がとめどなく分泌されていた。

(四十七士じゃと? 「忠臣蔵」という美談に酔った田舎侍のテロ計画じゃと? ……嗤わせるな。国家存亡を賭けた世界大戦の盤面に比べれば、児戯にも等しいわ)

若林の魂の底にある最もドロドロとした欲望――「絶望的な状況をひっくり返し、勝つことそのものへの快感」が、老いた肉体に業火のような活力を与えていく。

「殿! いかがなされました、痛むのですか!? 誰か、医師を!」

狼狽する側近を、若林はゆっくりと片手で制した。

「……案ずるな。少し、夢を見ておっただけだ。それより、表が騒がしいが、何事か」

若林の静かな、しかし有無を言わさぬ威圧感に、側近の男はハッと息を呑み、そして絶望的な顔で口を開いた。

「も、申し上げるのもおぞましき事にございますが……先ほど、公儀より使者が参られまして。浅野内匠頭殿は、即日切腹。そして赤穂藩は改易、つまりお家取り潰しとの裁定が下されました」

「ほう」

若林は内心で舌を巻いた。第5代将軍・徳川綱吉の決断スピードだ。事情聴取もせず、即日切腹。これは「法」と「権力」による絶対的な恐怖政治マネジメントの極致である。若林が行動原理とする『韓非子』の冷徹な信賞必罰に照らし合わせても、為政者としては見事な一手だ。

「しかし、殿! これで浅野の家臣どもが黙っているはずがございませぬ! 主君を殺され、お家を奪われた恨み、必ずやこの吉良邸に向かってきましょう! 奴ら、何をしでかすか……!」

側近の言葉に、部屋に控えていた他の家臣たちも青ざめ、震え上がっている。

若林はここで、自らの「外面」の哲学である『君主論』のスイッチを入れた。政治家にとって最も重要なのは、いかに大衆と権力者の「同情」を買うかである。

「おお……なんという痛ましいことか……」

若林は突然、顔を両手で覆い、老体をごくりと震わせた。その目からは、見事なまでに本物の涙がこぼれ落ちている。

「わしは……わしは何もしておらんというのに。浅野殿は、日頃よりひどくお疲れの様子であった。何かの病で心を病んでおられたのやもしれぬ。それなのに、切腹とは……ああ、浅野殿が哀れでならぬ……っ!」

「と、殿……!」

「公儀の使者殿に伝えてくれ。わしは浅野殿を少しも恨んではおらぬ、ただただ、ご乱心されたことが悲しいと。そして、逆恨みによる凶行が恐ろしく、夜も眠れぬとな……」

完璧な「哀れで気弱な被害者の老人」の演技だった。

これを聞いた幕府の使者は必ず将軍・綱吉にこう報告するだろう。「吉良殿は被害者であるにも関わらず、浅野を思いやって涙を流す人格者であった」と。これにより、吉良家への同情は確固たるものとなり、幕府による手厚い警護(公的な盾)を引き出すことができる。情報戦(『孫子』)の第一手は、これで完了だ。

やがて使者や医師が下がり、部屋には先ほどから一番傍で世話を焼いていた武闘派の側近だけが残った。

男の名は、小林平八郎。史実において、最後まで吉良を守って戦死した忠臣中の忠臣である。

若林は、周囲に誰もいないことを確認すると、布団からゆっくりと上体を起こした。

先ほどまでの弱々しい老人のオーラは、欠片も残っていない。その眼光は、獲物を狙う猛禽類のように鋭く、冷酷な光を放っていた。

「へ、平八郎とやら」

「は、はい! ここに!」

「煙草盆を持て。……極上の刻み煙草じゃ」

平八郎が慌てて用意した純銀製の煙管きせるを受け取ると、若林はそれに火をつけ、深く、ゆっくりと煙を吸い込んだ。紫煙を吐き出しながら、思考のピントを現代の政治戦レベルへと合わせていく。

現代で愛用していたS.T.デュポンのライターはない。だが、代わりになるものはある。

若林は、煙管の雁首がんくびを、手元の灰吹はいふきの縁に打ち付けた。

――カンッ!

甲高く、澄んだ金属音が静まり返った部屋に響き渡る。

それは、彼が場を完全に支配し、交渉相手に致命的なプレッシャーを与える際の「合図」だった。

「ひっ……!」

平八郎は、主君から放たれる尋常ではない覇気に圧倒され、思わず身をすくませた。目の前にいるのは、昨日までの温和で少し口うるさい老人ではない。底知れぬ深淵を覗き込んでいるような、絶対的な強者の気配だった。

若林は、煙管を弄びながら、かつての腹心・坂上と話す時だけに見せていた「地」の言葉――広島弁を解き放った。

「ええか平八郎。よお聞け。赤穂の狂犬どもは、必ずワシの首を狙って動く」

「と、殿……そのお言葉遣いは……!?」

「黙って聞け。奴らは『主君の無念を晴らす』などと寝言をほざきながら、正義面して向かってきよるじゃろう。じゃがな……」

若林は、唇の端を歪めて、極悪非道な、しかし最高に楽しげな笑みを浮かべた。

「おどりゃあ、そがな甘い大義名分で世の中が動くと思うとるんか。ワシらが刀を抜く必要など欠片もない。奴らが動く前に、江戸の世論も、カネも、幕府の法も、すべてワシらが裏で握り潰しちゃる」

『論語と算盤』――戦を起こすには莫大な金が要る。ならば、赤穂藩の資金源を合法的にすべて凍結し、兵糧攻めにすればいい。

『孫子』――同情という名の弾薬を奪うため、瓦版屋を買収し、浅野を「狂人」に仕立て上げるフェイクニュースを江戸中にばら撒けばいい。

「四十七士の討ち入りじゃと? 嗤わせるな」

若林は再び、煙管をカンッと鳴らした。

「一匹残らず地べたに這いつくばらせて、法と銭の力で窒息させちゃる。ワシの喧嘩のやり方、特と見せてやるわい」

元禄14年、春。

歴史上最も有名で、最も無能なテロリスト集団「赤穂浪士」にとっての、真の地獄が産声を上げた瞬間であった。

読んでいただきありがとうございます。

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