EP 7
ベルリンの絶望と、目覚める太陽――王の帰還
昭和16年(1941年)冬。
ヨーロッパ全土を震え上がらせるナチス・ドイツの中枢、ベルリンの総統官邸。
その豪華な執務室で、アドルフ・ヒトラー総統は上機嫌にワーグナーのレコードに聴き入っていた。
彼の前には、ヨーロッパ大陸を真っ赤に染め上げた巨大な軍事地図が広げられている。
「……極東の島国から、そろそろ吉報が届く頃だ。あの不気味な近衛文麿が倒れた今、無能な日本の軍部がクーデターを起こせば、日本は完全に我々ドイツの傀儡(あやつり人形)となる」
ヒトラーは、満足げに口角を上げた。
「満州の難民どもも、すべて我々の手に入る。……世界は我々、偉大なるアーリア人のものだ」
だが、その時。
執務室の重厚な扉が、ノックもなしに乱暴に開け放たれた。
「そ、総統閣下……ッ!!」
転がり込むように入ってきたのは、強制送還され、這々の体で本国へと逃げ帰ってきた特使・ハインリヒであった。
彼の顔は死人のように青白く、軍服は冷や汗でぐっしょりと濡れている。
「ハインリヒか。ずいぶんと早い帰国だな。……それで、日本の軍部は上手くやったのだろうな? あの生意気な小娘の首は持ってきたか?」
「そ、それが……ッ! クーデターは、一滴の血も流されずに完全に鎮圧されました! 全ては……全ては、日野輝夜という一人の女に、初めから見透かされていたのです!!」
「……何だと?」
ヒトラーの顔から、笑みがスッと消え去った。
「そ、それだけではありません! 日本は我々の要求を完全拒否したばかりか、米英の金融ネットワークと国際決済銀行(BIS)を動かし、我が国の政府高官が保有する【すべての海外隠し資産の即時凍結】を実行しました!」
「な……ッ!?」
「さらに、国際的な海運カルテルと石油資本が、日本政府の圧力により我が国への資源輸出を全面ストップ! ……このままでは、あと三日で我が帝国のすべての戦車、航空機、軍需工場が、燃料切れで完全に沈黙します!!」
パキッ!
ヒトラーが握りしめていた赤鉛筆が、無惨に真っ二つに折れた。
「ば、馬鹿な……。資産凍結だと? 石油の禁輸だと!? たかが極東の猿どもに、なぜ世界中の経済を動かす力がある!!」
「あ、あの女は言いました! 『黄金の大地(満州)に手を出せば、帝国は三日で飢え死にする』と……ッ!!」
「黙れェェェェェェェッ!!!!」
ヒトラーの凄まじい絶叫が、執務室に響き渡った。
彼は激高のあまり、机の上の書類やインク瓶を両腕でめちゃくちゃに払い落とし、ヨーロッパ全土を塗りつぶした誇り高き軍事地図を、ビリビリと狂ったように破り捨てた。
「あの小娘一人のせいで……我が無敵の第三帝国の経済が崩壊するだと!? 認めん! そんなことがあってたまるか! すぐに爆撃機を飛ばせ! 日本を焦土にしろォォォッ!!」
「そ、総統閣下! 駄目です、燃料が……飛行機を飛ばすための油が、もう一滴も入ってこないのです!!」
「チクショォォォォォォォォォォォッ!!!!」
武力で世界を屈服させてきた絶対的な独裁者は、一発の銃弾も、一機の爆撃機も使わない『経済と情報の暴力』の前に、完全に手足を毟り取られた。
彼らはもう、他国を侵略することはおろか、自国の軍隊を維持することすらできない、ただの『巨大な鉄のドンガラ』へと成り下がったのだ。
遠く離れた極東の、たった一人の「月の女王」の采配によって。
◆
時を同じくして。
帝都・東京、陸軍中央病院。
静寂に包まれた特別病室に、輝夜はそっと足を踏み入れた。
外はすでに、新しい朝の光で満ちている。
輝夜は、ベッドで静かに眠り続ける近衛文麿(若林幸隆)の傍らに腰を下ろし、その大きな右手を、両手でそっと包み込んだ。
「……終わりましたよ、幸隆さん」
輝夜は、愛おしそうに微笑みながら、ぽつりぽつりと語りかけた。
「あなたの残してくれた罠のおかげで、国内の不満分子はすべて綺麗に片付きました。……ナチス・ドイツの息の根も、あなたの作った金融ネットワークで完全に止めました」
返事はない。ただ、静かな寝息だけが聞こえる。
それでも、輝夜は誇らしげに胸を張った。
「約束通り、私があなたの『盾』になりました。……これでもう、あなたの国を脅かす者は、どこにも――」
「――本当にそう思っとるのか、ワシの甘ちゃん女王は」
「え……?」
輝夜の心臓が、大きく跳ねた。
包み込んでいた彼女の小さな両手が、内側から、力強く、ギュッと握り返されたのだ。
輝夜がハッと顔を上げると。
そこには、今までずっと昏睡していたはずの幸隆が、ドス黒くもどこか優しげな『三白眼』をうっすらと開け、不敵に笑っている姿があった。
「ゆ、幸隆、さん……ッ!!」
「……ゴホッ。うるさいのう、泣くぐらいなら最初から一人で背負い込むな、馬鹿娘が」
幸隆は、ベッドからゆっくりと上体を起こし、信じられないものを見るように瞳を潤ませている輝夜の頭に、大きな手をポンと乗せた。
「……じゃが、上出来じゃ。まさかワシが寝とる間に、あのチョビ髭の国を経済で干上がらせるとはな」
「幸隆さん……! 幸隆さん……っ!!」
輝夜は、たまらず幸隆の広い胸に顔を埋め、これまで張り詰めていた緊張の糸が切れたように、子供のように声を上げて泣き崩れた。
幸隆は、そんな彼女の背中を、不器用ながらも優しく撫で続けた。
数百万の命を救い、世界を変えた最強のバディが、ここに完全なる復活を遂げた。
だが、歴史の歯車はまだ止まらない。
ナチスを封じ込め、喜びの涙を流す彼らの『神の目(理研のレーダー)』は、まだ捉えていなかった。
はるか北のユーラシア大陸。極寒のシベリアから、満州の国境線に向けて、何万という『赤い星』を掲げたソビエト連邦の戦車師団が、地響きを立てて大移動を開始していたことを。
見えざる経済戦を制した大日本帝國に、いよいよ「最大の物理的脅威(赤き熊)」が牙を剥く。
ここからさらに予測不能の激動へと突入していく――。
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