EP 6
鉄十字への最後通牒――発動する『経済の核爆弾』
クーデターの夜が明け、帝都に静かな朝日が差し込んでいた。
迎賓館の特別室。
ナチス・ドイツの特使ハインリヒは、優雅にコーヒーを啜りながら、窓の外の景色を眺めていた。
(そろそろ頃合いだな。今頃、あの生意気な小娘も、昏睡している近衛文麿も、黒田率いる反乱軍によって蜂の巣にされていることだろう)
彼はほくそ笑んだ。大日本帝國が陸軍急進派に乗っ取られれば、彼らは嬉々としてドイツと同盟を結び、ヨーロッパでの大戦に参戦してくる。極東の難民どもも、すべて手に入る。
勝利を確信したハインリヒが、用意させていた葉巻に火をつけようとした、その時だ。
バンッ!
重厚な扉が開き、数名の屈強な日本の憲兵たちがなだれ込んできた。
「な、なんだ貴様ら! 我が偉大なる第三帝国の特使に向かって、無礼であろう!! 黒田大佐を呼べ!!」
ハインリヒが激怒して立ち上がった直後。
憲兵たちが道を開け、その後ろから、真っ白なドレスコートに身を包んだ一人の少女が、静かな足音を立てて姿を現した。
「――黒田大佐なら、現在地下の特別牢で、涙ながらに自身の愚行を懺悔していますよ。彼に渡した『工作資金の明細書』と共にね」
「な……ッ!?」
ハインリヒの顔から、一瞬にして血の気が引いた。
無傷。
髪の毛一本乱れていない、日野輝夜の姿がそこにあった。
「ば、馬鹿な……。数千の兵が動いていたはずだ。女一人で、あれだけの軍勢をどうやって……ッ」
「あなた方には理解できないでしょうね。武力と恐怖でしか人を従わせられない、野蛮な国には」
輝夜は、氷のような冷ややかな視線をハインリヒに向けたまま、彼の前に一枚の書類を叩きつけた。
「難民の引き渡し要求は、改めて『完全拒否』いたします。……そして、我が国の内政に干渉し、軍部を唆して総理の命を狙った罪。決して万死に値しますが、私はあなたのように野蛮ではありません。命までは取りませんよ」
輝夜の言葉に、ハインリヒは安堵の息を吐きかけた。結局、この小娘はドイツを恐れているのだ、と。
だが、その安堵は、輝夜の次の一言で完全に打ち砕かれた。
「――ただ、あなた方の『国』には、相応の罰を受けていただきます」
輝夜が指を鳴らすと、側近が次々と新たな書類をテーブルに並べていく。
「本日午前八時。大日本帝國は、米英の金融ネットワークを通じて掌握している『国際決済銀行(BIS)』およびスイスの主要銀行に対し、ナチス・ドイツの政府高官および親衛隊が保有する【すべての海外隠し資産の即時凍結】を実行させました」
「な……んだと……?」
「さらに、我が国の傘下に入った巨大石油資本と海運カルテルを動かし、ドイツに対する【すべての石油および希少資源の輸出入ルートを完全封鎖】しました。……あなた方の軍需工場は、三日後にはエネルギーの供給を絶たれ、すべての機能が停止します」
ハインリヒの葉巻が、手から滑り落ちた。
それは、一発の銃弾も使わずに一国を死に追いやる、まさに『経済の核爆弾』であった。
「き、貴様……自分が何をしているか分かっているのか!? 総統閣下が黙っていないぞ! ヨーロッパ全土を支配する我が軍が、極東の島国を焦土に――」
「できるものなら、やってみなさい」
輝夜の声が、絶対零度の覇気を纏って迎賓館の空気を支配した。
ハインリヒは、その圧倒的な存在感に気圧され、喉が干からびたように声が出なくなった。
「燃料の無い戦車が、どうやってユーラシア大陸を横断するのですか? 資金の無い国家が、どうやって数百万の兵士を食わせるのですか? ……あなた方は今、私という一人の女の采配によって、物理的に『戦争すらできない状態』に叩き落とされたのですよ」
絶望。
圧倒的なまでの、絶望。
暴力で他国を蹂躙してきたナチスのエリートが、極東の少女の言葉に恐怖し、膝の震えを止めることができずにいた。
「ハインリヒ特使。あなたは直ちに本国へ強制送還します。……ヒトラー総統に、こう伝えなさい」
輝夜は、床にへたり込んだハインリヒを見下ろし、冷酷に告げた。
「『黄金の大地(満州)に手を出せば、帝国は三日で飢え死にする』と」
大日本帝國・臨時首相代行、日野輝夜。
月の女王が放った容赦なき経済制裁は、遠く離れたベルリンの総統地下壕へと、最悪の絶望を運ぼうとしていた。
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