EP 4
盤上の猛獣と、氷の女王――通信断絶の夜
首相官邸、総理執務室。
蹴破られた重厚な扉の向こうから、土足で踏み込んできた反乱軍の将校たちが、一斉に輝夜へと銃口を向けた。
金属の擦れる冷たい音が、静まり返った室内に不気味に響く。
「……授業だと? 戯れ言を抜かすな、女狐め」
黒田大佐は、忌々しげに輝夜を睨みつけた。
しかし、彼の内心は酷く焦燥していた。何故この女は、死を目前にしてこうも平然としていられるのか。
「お前たちの命綱である『理研の通信塔』は、すでに我が部隊が物理的に電源を落とした。電信局も、ラジオ局も、帝都の主要なインフラはすべて我々の制圧下にある。近衛の得意とする『魔法』は、もう使えないのだ」
黒田は、勝利を確信したように薄暗く笑った。
「誰も助けには来ない。海軍の腑抜けどもが気づいた頃には、お前も近衛も死体になっている」
「……なるほど。物理的な遮断ですか。確かに、それなら私たちの『目と耳』は塞がれますね」
輝夜は、カップをソーサーに静かに戻した。
「ですが黒田大佐。あなたがたは、一つ決定的な勘違いをしています」
「何?」
「あなたがたが手にしたその真新しい機関銃。そして、官邸の庭を荒らしているその戦車……ドイツから供与されたものですね?」
輝夜の言葉に、黒田の部下たちが僅かに動揺を見せた。
極秘裏に行われたナチスからの軍事支援を、なぜこの女が知っているのか。
「ナチスの特使に『お前たちこそが真の武人だ』とでも唆されましたか? ……滑稽ですね。彼らにとって、あなたがたは『たった数台の戦車と端金で、大日本帝國を内部から破壊してくれる便利な捨て駒』に過ぎないというのに」
「貴様ァッ!!」
激昂した若い将校が、輝夜に向かって銃剣を突き出し、怒鳴り声を上げた。
刃先が、輝夜の白く細い首筋にピタリと触れ、一筋の赤い血が滲む。
しかし、輝夜の瞳は、瞬き一つしなかった。
ただ、絶対零度の冷たさで見下すのみ。
「撃ちなさい」
「……ッ!」
「私を殺せば、陸軍は完全に国民と天皇陛下の敵となります。世界を敵に回すどころか、祖国からも見放された孤立無援の逆賊として、歴史の汚点として永遠に名を刻むことでしょう」
突きつけられた銃剣が、ガタガタと震え始めた。
死を全く恐れない、否、死すらも自らの盤面の「駒」として利用しようとする、その底知れぬ狂気。それはまさしく、彼らが最も恐れていた男・近衛文麿の姿そのものであった。
「……銃を下ろせ」
黒田大佐が、忌々しげに舌打ちをして制止した。
「貴様の安い挑発には乗らん。我々の真の目的は、元凶である近衛文麿の首だ。貴様には、その首が飛ぶ瞬間を特等席で見せてやる」
黒田は顎で合図をし、二人の兵士が輝夜の両腕を乱暴に拘束した。
「連行しろ。陸軍中央病院へ向かう。……近衛の息の根を止め、我らの『昭和維新』を完遂するのだ!!」
◆
数十分後。
帝都の夜の闇を切り裂き、轟音を立てて進む反乱軍の車列は、幸隆が眠る陸軍中央病院を完全に包囲した。
病院の周囲を固めていたはずの憲兵たちは、すでに反乱軍に寝返るか、武装解除されて地面に伏せさせられていた。
巨大な戦車の砲身が、冷酷に病室の窓へと向けられている。
もはや、逃げ場はない。
「出ろ」
車から引きずり出された輝夜は、冷たい夜風に髪を揺らしながら、病院の正面玄関を見上げた。
最上階の、一番奥の部屋。あそこに、愛する人が無防備な状態で眠っている。
(……幸隆さん)
「さあ、案内してもらおうか。近衛の病室へな」
黒田大佐が、軍刀を抜き放ち、残忍な笑みを浮かべて輝夜の背中を押した。
しかし、輝夜はその場に立ち止まり、微動だにしなかった。
そして、ゆっくりと振り返り、数千の銃口と戦車を背にしたまま、病院の入り口を塞ぐようにして、たった一人で立ちはだかったのだ。
「……何をしている。さっさと歩け」
「お断りします」
輝夜は、首筋から流れる一筋の血を拭うこともせず、真っ直ぐに黒田を見据えた。
「ここから先は、一歩も通しません」
「……気でも狂ったか? お前は丸腰で、我々は数千の軍勢だ。お前一人で止められるとでも思っているのか」
「ええ。止めます」
輝夜は、かつて幸隆に守られていた時に見せていた「優しい微笑み」を浮かべた。
だが、その微笑みは、目の前の猛獣たちを絶望の淵へと突き落とすための、残酷な宣告であった。
「……あなたたちは、幸隆さんという男の『底知れぬ悪意』を、まるで理解していない。私がここで時間を稼いだ理由……彼が目を覚ます前に、あなたたちという『ゴミ』を掃除する準備が、ようやく整いました」
輝夜が指を鳴らした、その瞬間。
完全に電源を落とされていたはずの、病院周辺の街灯が一斉に、暴力的なまでの白光を放って点灯した。
「な、なんだッ!?」
反乱軍の兵士たちが、突然の眩しさに目を覆う。
闇夜に浮かび上がったのは、包囲された病院ではなく。
逆に彼ら反乱軍を、さらに外側から完全に包囲し、無数の銃口を向けている『漆黒の軍団』の姿であった。
お読みいただきありがとうございます!
評価・ブックマークで応援いただけると励みになります。




