第十二章 月の女王と鉄十字の陰謀編
太陽の不在と、王座の重圧――新たなる嵐の予兆
昭和16年(1941年)冬。
大日本帝國を力と恐怖で牽引してきた絶対的な独裁者・近衛文麿(若林幸隆)が、度重なる過労と吐血によって昏睡状態に陥ったという事実は、極秘裏に伏せられながらも、政府高官たちの間に重苦しい波紋を広げていた。
帝都・東京、首相官邸。
主のいない広大な総理執務室で、日野輝夜は、幸隆がいつも座っていた革張りの椅子を静かに見つめていた。
「……閣下。お時間です」
背後から声をかけたのは、幸隆の右腕として暗躍してきた側近であった。その声には、かつてないほどの緊張と疲労が滲んでいる。
「各省庁の大臣や、陸軍の将官たちが、会議室で苛立ちを隠せずにいます。……本来なら近衛総理が自ら抑え込むはずだった者たちです。臨時とはいえ、特命全権大使であるあなたに『首相代行』が務まるのかと、露骨に侮る声も……」
「構いません。行きましょう」
輝夜は、真っ白なドレスコートの襟を正し、振り返った。
その凛とした佇まいに、側近は思わず息を呑んだ。かつて幸隆の背中に隠れるようにして政治の闇を覗き込んでいた「か弱き令嬢」の姿は、そこにはもう無い。
コン、コン。
重厚な扉が開かれ、輝夜が閣議室へと足を踏み入れた瞬間。
部屋に集まっていた白髪の政治家や、勲章をぶら下げた陸軍の将官たちは、一斉に値踏みするような、そして見下すような視線を彼女に向けた。
「……大使殿。総理の容態はいかがなのかな。まさか、いつまでも小娘のスカートの陰に国政を任せておくわけにはいかんだろう」
陸軍の急進派の将官が、鼻で笑いながら吐き捨てるように言った。
「そうさ。欧米列強を黙らせたとはいえ、満州には数十万もの難民(お荷物)を抱え込んでしまった。今、国のかじ取りを間違えれば、帝國は沈むぞ」
「いっそ、総理がご不在の今こそ、我々軍部が再び主導権を握るべきでは――」
「――お静かに」
凛とした、しかし氷のように冷たい一言が、閣議室の空気を一瞬にして凍らせた。
輝夜は、上座に静かに立ち、猛禽類のように鋭い視線で、騒ぎ立てていた男たちを一人残らず射抜いた。
「私がここに立っているのは、近衛総理の意志であり、帝國の決定です。……総理が命懸けで築き上げたこの平和な盤面を、己の保身や野心のために引っ掻き回そうとする者がいるのなら、私が決して許しません」
「な……ッ!?」
軍部の男たちが、その圧倒的な覇王のオーラ(王道)に気圧され、絶句した。
まるで、あのドス黒い修羅(幸隆)の魂が、この白亜の聖女に乗り移ったかのようであった。
だが、輝夜が国内の不満分子を完全に沈黙させた、その時。
会議室の電話が、けたたましく鳴り響いた。
外務省からの緊急連絡を受けた側近が、顔面を蒼白にして輝夜のもとへ駆け寄る。
「だ、代行! ……特使です! ヨーロッパから、同盟国である『ナチス・ドイツ』の特別親善大使が、軍艦で帝都の港に到着したとのことです!!」
「……ナチス・ドイツ」
輝夜の瞳が、僅かに細められた。
数時間後。
帝都の迎賓館に案内されたのは、黒いSS(親衛隊)の制服に身を包み、傲慢な笑みを浮かべたナチスの特使・ハインリヒであった。
彼は、出迎えた輝夜を一瞥するなり、フンと鼻を鳴らした。
「……極東の同盟国は、男が死に絶えたのか? 我が偉大なる第三帝国の特使を、女が出迎えるとはな」
ハインリヒは、ソファにふんぞり返りながら、輝夜の前に一枚の分厚い『要求書』を叩きつけた。
「我が総統からの親書だ。……現在、日本は満州において、ヨーロッパから逃げ出した数十万の『ユダヤ人難民』を保護しているそうだな」
「ええ。それが何か?」
輝夜は、表情ひとつ変えずに紅茶のカップを置いた。
「今すぐ、その劣等民族どもをすべて列車に乗せ、シベリア経由で我が国へ『引き渡せ』。これは要請ではない、命令だ。……我が国は現在、ヨーロッパ全土を支配する最強の国家だ。もし我々の不興を買えば、大日本帝國など、我が国の最新兵器で火の海になるぞ」
武力による、純度百パーセントの理不尽な恫喝。
それは、米英が降伏したという事実すら意に介さない、絶対悪(狂人)による最悪の最後通牒であった。
控えていた日本の外務省の役人たちが「ひぃッ」と震え上がる中。
輝夜は、要求書には一切触れず、ただ優雅に、そして氷点下の微笑みをハインリヒに向けた。
「……お話は、それだけですか?」
「なに?」
ハインリヒが、眉をひそめる。
「総理は今、少しばかり休息を取られています。彼が目を覚ました時、せっかく綺麗に掃除した世界に、まだこんな『騒がしいゴミ』が残っていたと知れば、機嫌を損ねてしまいますから」
輝夜は、ゆっくりと立ち上がり、ハインリヒを見下ろした。
「引き渡しには応じません。……同盟国だろうと何だろうと、私たちの黄金の大地(満州)に土足で踏み込もうとする者は、この日野輝夜が、一片の容赦もなく排除いたします」
太陽(幸隆)が眠る間、月(輝夜)は自ら絶対的な盾となる。
史上最凶の独裁国家・ナチスドイツとの、血を流さない残酷な戦争(王道)が、今まさに火蓋を切ろうとしていた。
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