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第九章 再びの黒き背を追う、雨の道

 初春の雨は、凍てついた冬の名残を孕み、どこか硬い。粒のひとつひとつが氷に返る直前の鋭さをもって、手の甲を刺した。


 高梨はすっかり更けてしまった夜の道を、やや急ぎ足で歩いていた。暗い夜道は闇が支配し、明かりひとつもありはしない。

 仕方なしとばかりに鞄から懐中電灯を取り出すと、夜の道を照らし出した。


 雨がばちばちと傘に当たる。まだ少し硬い雨粒が、薄い蝙蝠傘の表面を打ち付けた。

 穴が開いたりすることはないだろうか、と不安になるくらいの勢いだ。


 このまま帰ろうか、それとも荻窪の家の様子を見に行こうか。立ち止まってから少し考える。

 ふと、雨の音に紛れてかき消されるように、小さな声を拾った気がして耳を澄ませた。

 ちびのような、まだ小さい猫の声が聞こえた気がする。


 少し前なら、雨の音が強すぎて、きっと声には気がついていなかっただろう。

 でも、いまは拾えてしまう。ちびのおかげでその声色が、耳によく馴染んでしまったからだ。


 思わず辺りを見渡すとともに、懐中電灯を向けてみる。


 地面に一瞬強く光るなにかを見つけて、高梨は思わずそこに歩み寄った。

 しゃがみ込めば、痩せこけた黒猫がうずくまっている。いつぞやの荻窪の黒猫の怪談と重なって、どうしても見捨てることができなかった。冷たい雨に刺されて、毛がしとどに濡れている。猫の毛は水を弾かない、そう荻窪から聞いていたが、その黒猫の毛はすでにびしょびしょだった。


「きみを、抱き上げるよ。」


 そう声を掛けてから、そっと抱き上げる。骨が手のひらに当たり、高梨はそのまま胸元に抱き寄せた。がたがた震えている身体と冷えきった感触が手のひらを通して、伝わってくる。

 きっと、このままにしておいたら、この子はここで命を落とすだろう。

 腕の中の生命は、あまりにも軽い。


 泥に汚れるのも厭わず、震える黒猫を胸の奥へ押し込めるように抱きしめて、高梨は荻窪の家に向かって走り出した。

 あの角を曲がって、黒塗りの木板の塀が見えればいつもの狸の置物がある、荻窪の家だ。


 息を整えながら、高梨は胸に抱き込んだ黒猫を、心配そうに見下ろした。


 ──大丈夫かな。


 走ったから、揺れてしまった。この子は大丈夫だろうか。そっと覗き込めば、微かに動くのが見えた。


 そっと玄関の扉に手を掛ければ鍵はまだ開いている。高梨は安堵のため息を吐き出してから、その扉を開けた。靴を脱ぐのもうまくいかず、いつもならきちんと揃えるはずの靴さえ脱ぎ捨てて。

 高梨は慌てたように、台所から居間へ早足で抜けて、縁側を小走りで書斎へと向かった。


 灯りが付いた書斎の雪見障子を勢い良く開けると、高梨は文机に向かっていた声を掛ける。


「先生、お手数をおかけします……、実はこの子を雨の中保護してしまいまして……。」


 荻窪は視界に飛び込んできた高梨の姿と、その手元に抱えられた小さくて黒い塊を交互に見た。

 ほんの一瞬、何事だ、とでも言いたげな荻窪の視線が高梨を見つめる。

 それから、荻窪は自身の額に無骨な手を当てた。

 驚きに見開かれた切れ長の瞳が、すぐになんとも言えない色に変わる。

 やれやれ厄介なことを持ち込んだものだ、とでも言っているかのようだ。高梨はそんな荻窪を見つめながら、徐々にしおれていってしまう。迷惑を掛けている、それがよく伝わってくるからだ。

 それから立ち上がると、私室へと向かいいつかのときのように手ぬぐいを数枚を手に、高梨へと歩み寄る。


「とりあえず、着替えておいで。その子は私が一旦引き受けよう。」


 荻窪に黒い猫を預けると、高梨は指し示された私室へと向かった。前回初めて入った私室に、今回は二度目入ることになる。

 前よりは落ち着いて辺りを見回すと、やはりこの部屋にも白檀の香りが漂っていた。

 衣擦れの音を立てて、高梨は背広を脱いで衣紋掛けに掛ける。背広はどろどろで洗濯屋に持っていかなくてはならないな、と思った。


 渡された手ぬぐいで身体を拭きながら、ふと、この手ぬぐいは誰が洗うのだろうと思い至る。


 ──いや、まさか違うよな。


 荻窪の家からは、荻窪以外の、生きた人間の匂いがしない。

 つまり、荻窪は自分のことは自分でやるような、「変わり者」だということだ。

 高梨は、ぐ、と手ぬぐいを握りしめる。まさかこの手ぬぐいは、荻窪自身が洗うのではないだろうか。


 身体を拭く手がぴたりと止まる。


 胸の高鳴りだけで、身体が大きく揺れるのが分かった。どうしよう、そんなことをしてもらってもいいのか、いや、させてしまってもいいのか。はっきりときける勇気もない。


 源氏襖の向こうから石油ランプの灯りが漏れて、高梨は思わず喉を鳴らした。


 それでもいつまでもこのままでいるわけにもいかず、荻窪が渡してくれた着物に袖を通す。そうして、この前も高梨の身体には少し大きいだけの着物に、違和感を覚えた。

 差し出された着物に袖を通せば、わずかに大きいが高梨の身体に合わなくはない。否が応にもこれは荻窪のものではないということが、分かってしまう。荻窪の着物だとしたなら、もっと大きいはずだから。


 この着物は、誰かのために置いてあったものだと、そう言外に告げられているようなものだ。


「すみません、僕の家は動物がだめでして。先生のところしか思いつかず……。」


 すぅ、と襖を開けて顔を出せば、興味津々のちびと荻窪に手ぬぐいで拭かれている黒猫がいた。

 ようやく水気が抜けてきたのか、ぽさぽさした毛並みと少し痩せた身体が目立つ。目元を拭われた子猫がこちらを見たとき、金色の瞳が鮮やかに光って見えた。


 高梨は泥まみれになった背広のポケットから抜き出した、絹の端でできた赤い結び紐を手に、音もなく荻窪の傍に座り込んだ。


 荻窪の視線に気が付いた高梨は、その手を広げて赤い結び紐を見せる。


「ああ、これはちびに贈り物です。」


 ちびを膝の上に乗せてから、そっとその首に赤い結び紐を結わえた。

 白銀の毛並みに青い瞳、きっと赤が映えるだろうと思った見立ては、間違えてはいなかった。ちびにとてもよく似合っている。

 そして、ちびを膝の上から降ろすと、荻窪の手の中にいる黒猫の様子を見やった。


「どうしたんだい?」


 荻窪は黒猫の毛並みを整えながら、高梨の視線に気がついて声だけを向けてくる。そんな二人に不満を抱いたのか、ちびが高梨の膝にむいむいと乗ってきた。

 荻窪の手の中にいる黒猫に向かって、青い瞳を向けたちびがふんす、と鼻を鳴らす。

 まるで「あたちの場所よ」とでも言っているかのようだ。


 ちびは高梨からの贈り物である首輪を気に入ったようで、そのまま膝の上で毛づくろいを始めた。


「そういえば、先生、金魚も新しくお飼いになるんですか?」


 高梨が火鉢に手をかざしながら、陶器でできた金魚鉢に気が付いた。


「その金魚は友人のものだよ。預かっているだけだ。」


 ちらりと金魚の方へ目を向けた荻窪は、ようやく黒猫の毛並みの水気が取れたのか、ひょいと抱き上げた。

 ちびよりは身体が長く伸びるから、年上なのだろう。


「高梨くん、夕飯にちびが食べ残したのがまだあるはずだから、持ってきてくれないか?」


 荻窪の声に、高梨は「ちび、ごめんね」とそっと畳の上に降ろしてから立ち上がった。やや急ぎ足で居間から台所に抜ければ、そこにはちびが食べ残した、というよりは、多めに作ったものの残り、という量が鍋にある。


 戸棚を見て、ちびと同じような器を取り出してから、それをそっと注ぎ入れた。水も、と言っていたな、ともうひとつ器を手に取って、水を入れる。


 両手にひとつずつ、零さないようにそろりそろりと木板の床を進んでいく。ちびはそんな高梨の足元を先導するように、ゆらゆらと尻尾を立てながら歩いていった。


「先生、ごはんとお水を持ってきましたよ。」


 声をかけたときにはすでに、文机に向かっている荻窪の膝に黒猫が丸まっていた。

 かりかりと万年筆が走る音が聞こえてくる。

 ぐぷぐぷ、と黒猫の寝息が聞こえてくる。


 高梨は少し考え込んでから、気がついたときにすぐ食べられるように、黒猫の傍にそっと器を置いておいた。


 高梨はそうして、ちびを抱えて火鉢の横に移動すると、静かに座る。ちびも高梨の膝の上に、いかにも当然というような顔をしてむいむいと乗ってくる。

 そして、やはり、「あたちの場所よ」という顔をして、丸くなった。


 高梨はそんなちびの背中を、そっと撫でる。

 まだケセランパサランのように絹糸のような毛並みをしているのに、当たり前のように主張する姿が愛おしい。

 背中を撫で、喉を撫で、青い瞳が疑うことなく高梨へと注がれる。


 自分はなにを怖がっていたのだろう、こんなに表情豊かな猫のこと。あの、夜に聞こえてくる声を聞いて膨らませていた恐怖心は、いつの間にか消え去っていた。

 自分自身を可愛がる人を分かっているのだろう、ちびは、遠慮をしない。当然のようにそれを享受し、伸び伸びとしていた。


 可愛いな、と思う気持ちは当然のことだろう。

 犬猫なんぞうちにはいらん、と吐き捨てるような家で育った高梨は、ちびのおかげで猫という存在の可愛らしさを知ることができた。


 ちびが喉を鳴らして高梨の膝を両手で揉みこむ。

 その行動は、甘えているときに出る行動だと、荻窪から聞いていた。


「そこは脚だから、出ないんだけどね。」


 思わずそうつぶやいて笑って、ちびを見下ろす。くす、と笑い声を漏らすと、小さな音が文机から聞こえて、思わず顔を上げた。

 ちょうど万年筆を置いた荻窪が、振り返っていたところだ。


「あ、先生!」


 荻窪が、黙って振り返っていたことに気が付かなかったことよりも、さっきの言葉を聞かれていないかどうかのほうが気になってしまう。


「……脚じゃない場所なら出るかのように言うのだね。」


 喉の奥でくつくつと笑った。


「さて、みけ。きみはとりあえず、貰い手が見つかるまではうちに居てもらおうか。」


「みけ?」


 思わず聞き返してしまった高梨は、なんのことなのか分からない。


「ああ、だってこの子は金色の瞳に黒い毛だろう、それに見てごらん。」


 荻窪が黒猫を抱き上げて、ぶらりと高梨の顔の前にお腹を見せた。


「お腹に白い模様が入っているんだ。みけだろう?」


 畳の上にそっと降ろされたみけは、高梨が持ってきたごはんを見つけて、はくはくと小気味の良い音をたてて食べ始める。


「ゆっくりとお食べ。だれも取らないから。」


 荻窪はそう声をかけて、みけを見つめた。穏やかな表情でみけを見下ろす荻窪の顔は、あまりにも優しい。


「前から思ってたんですけど……、先生は名付けの親にはなれませんね。」


 それでも高梨は、そんな荻窪の名付けの癖を嫌いにはなれなかった。むしろ、愛らしいまである。


「僕には、どうしてその黒猫が三毛に見えるのか、分かりませんよ。」


 高梨はくすくす笑いながらそう付け足した。


「金色の瞳、黒い毛、一部白い毛があるだろう? どう見たって、三毛じゃないか。」


 どうしてだ、と言いたげな荻窪の、不思議そうな表情がまた高梨の笑いを誘う。


「このみけは、香世さんに打診してみようか。」


 香世とは、荻窪の家の近くで定食屋を営んでいる、昔馴染みだそうだ。

 彼女ならみけを育ててくれるかもしれないと、荻窪が言っていた。


「香世さんですか。」


 一度、前に荻窪が弁当を頼んでいたときに、顔を見たことがある、あの女性のことだろう。

 ぽてりとした唇と少し垂れ目の、色気を感じさせる女性だが、話し出すと気風の良さに漢気を感じてしまう人だ。


 荻窪の友人は、少ないながらもいるようで、香世然り金魚の友人然り、旧高等学校の知り合いだったり昔馴染みだったりするようだ。


 ただ独りきりで生きているような荻窪にも、そう呼べる人たちがいることを、少し羨ましく思う。

 高梨はどこにいても、馴染んでいるようで馴染んではいないからだ。

 知り合いは多くても、友人と呼べる人はいない。


 ──自分とは随分違うな。


 荻窪のすべてを知っているわけではないが、それでもきっと一割くらいしか知らないのかもしれない。

 もっと知りたい、そう思うのは欲張りすぎるのだろうか。


 手を伸ばしても届かない荻窪の背中に、少しでもいいから触れてみたい。

 もっと多面的な姿を見たい、そんな欲が湧いてくる。

 高梨は考えながら、ちびの寝息に引きずられるように、そしていつものように、畳の上にゆたりと横に倒れて眠る。




 ***




 物音がして瞳を開けると、また眠っていたことに気がついた。いつもこの静けさに寝落ちてしまう。

 高梨は慌てて起き上がり、勢いではだけた袷をかき寄せた。

 すぅ、と静かな音をたてて、源氏襖が開くといつものように荻窪が掛け布団を手に戻ってくる。


「あ、先生すみません、またご迷惑をかけてしまって。」


 慌てて立ち上がろうとして、荻窪に引き止められた。


「いいから、泊まっていきなさい。」


 低い声はやや強く響き、高梨は動きを止めて荻窪を見上げる。怒っているのか? と思って顔を覗き込めば、心配そうな色を浮かべていた。


「掛け布団はこれを使ってくれ。書斎でかまわないだろう?」


 むしろ縁側でもどこでも寝られます──そう言いたくなるほど、高梨は悪環境に慣れすぎていた。


「みけはきみに任せるよ。」


 荻窪がそう言って、掛け布団を書斎の隅にそっと置く。みけはそれを文机の前からただ、じ、と見つめていた。

 荻窪が陶器製の金魚鉢を手に立ち上がろうとし、高梨は慌てて金魚鉢に手を添える。


 ──あんな重そうなものを、一人で抱えるには無理がある。


「先生、僕も手伝わせてください。」


 そう言って二人で荻窪の私室へと運んで行った。

 薄闇の中、荻窪は迷うことなく部屋の隅へと歩みを進める。そして、ここへ、という声とともにゆっくりと金魚鉢を降ろした。


「それじゃ、おやすみなさい、先生。」


 そう言って高梨は、にこりと笑う。荻窪の切れ長の瞳が僅かに見開かれた気がして、足を止めた。

 どうかしたのかと問う前に、荻窪の無骨な手が高梨へと伸ばされる。頬に触れた大きな手のひらが、かすかに震えていた。

 まるでなにかを確認するかのように、親指の腹で何度か頬を撫で、安堵したように息を吐き出す。

 頬に触れた荻窪から、いつもの白檀の香りがした。それがいまは胸の奥に沈みこむ。


「ああ……、高梨くんだな。」


 その声色に高梨は、自分と誰か──荻窪が想いを寄せている人──に重なったのだろうかと思った。目の前にいるのは自分だとでも言うように、高梨は荻窪の手に己の手を重ねる。


「はい、僕ですよ。高梨です、高梨駆流かけるです。」


 ゆっくりと荻窪の手の甲を確認しながら、撫でていった。間違えてないで、そう言いたくなる。だが、それは言ってはいけない言葉だと分かっていた。

 荻窪の心の中にはきっと、誰かが住んでいる。そうとしか思えない。

 高梨はなにも言えないまま、すべての言葉を飲み込むしかなかった。少しでも態度に出せば、荻窪はすぐに気がついてしまう。

 何事もなかったかのように振る舞わないと、バレてしまう。


 高梨は荻窪の手を撫でていた手を、す、と外して「おやすみなさい」と、静かに源氏襖を閉めていった。


 高梨は石油ランプを消してから、静かに息を吐き出した。

 隣に聞こえないように、静かに細く、吐き出してから両手で顔を覆う。知れば知るほど、自分が入ることが出来る隙間なんてないと、突きつけられている気分だ。写真のない写真立て、衣桁に掛けられた濃紺色の古びた着物、誰も袖を通していなさそうな、だけど、衣桁に掛けられた着物と同じ大きさの、この着物──。


 そして、先ほどの荻窪の態度。


 すべてが繋がっていく気がして、高梨は眉根を寄せた。最初から叶わないと分かっていても、こうしてさまざまに残る影を見るのは、なによりも心が痛い。

 いっそのこと、好きだと告げて、避けられたほうがまだましなのかましれない。

 そうしたら、諦めがつくのかも。

 高梨は荻窪が用意してくれた掛け布団をかぶると、そっとみけをその布団の中に呼び込んだ。


 寒くないように、一緒に寝よう。

 そっと抱き寄せたみけは痩せていたけれど、生きようとする気力が満ちていた。


 ──きみを見つけることができてよかった。


 高梨はそう思いながら、みけの背を撫でていく。

 ちびとはまた違う喉鳴りの音が響き出し、まもなく高梨はその音に引き込まれるように眠りに落ちた。


 高梨には、心にいくつもの傷がある。

 もう、傷なんてつかないのではないかというほど、溢れていた。苦しいことは飲み込んで、辛いことも飲み込んで。

 それがすべて、心の中に沈殿し、内側から裂けていきそうだった。

 飲み込んでいれば、上手く回る、なんて、ただ自分が壊れていくさまを見ているようなものだ。

 心の奥で、小さな自分が膝を抱えてうずくまる姿を、どうにもすることができないまま、高梨は目蓋を閉じた。




 ──再びの黒き背を追う、雨の道。

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