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第十章 水底の生、陸の窒息

 菜種梅雨がどっしりと腰を下ろしている季節は、いっそう雪解けが進む。電停にひっそりと立ち尽くし路面電車を待つ高梨は、ようやく身体もふっくらしてきたみけを、香世に譲る日が決まって安堵していた。

 それと同時に、淋しさも付き纏う。

 ちびとみけ、二人が揃うことはもうないのだろうと思うからだ。


 お転婆な白い被毛のちびと、穏やかで呑気なみけが揃うことはこの先、ないのだなと思うとやはり淋しい。


 気風の良い香世は、最初、荻窪に話を振られたとき、そのぽってりとした唇を突き出して文句を言った。それはもう、すごい勢いでまくし立てるように。

 しかし、最終的には「仕方ないねぇ、元気になったら連れてきな」と、頷いてくれた。

 荻窪と香世は、昔馴染みなのだそうな。

 なんでも、二人が学生時代からの顔見知りであると、のたまったのは荻窪だ。

 香世は香世で、「知り合い? まぁ、そんなもんかねぇ、昔馴染みだよ」となにかを隠すような素振りを見せる。若いときの話だからなのか、二人ともあまりそこには触れようとはしない。二人で顔を見合わせて、やや困ったように笑られると、さすがにそれ以上聞くことはできなかった。高梨はそんな二人の昔馴染みの空気感に、言葉を噤む。


 高梨はみけを荻窪の家に連れて行った次の日の朝のことを、思い出していた。




 ***



 

 荻窪よりも早く目覚めたその日、まだ朝陽が昇りきらないくらいの明るさの中、みけの様子を窺うためにそっと手を伸ばしてみた。

 高梨に寄り添うように丸まって眠るみけの、体温と呼吸を確認して、安堵する。

 よかった、生きている。高梨は安堵に心を撫で下ろした。


 そぅっと起こさぬように布団から抜け出すと、みけに直接布団がかからないように、そっと形を作ってから離れる。ちらりと背後を見てみけの様子を確認してから、縁側へと足を伸ばした。


 真っ直ぐに降り注ぐ雨が残りの雪を解かしていく。

 少しずつ地面が現れ、泥濘を作る。

 地面が緩み始め、その下では植物たちが芽吹く支度を始めていた。


 雨戸を開けに、縁側に出る。

 荻窪のように、丁寧に一枚一枚戸袋にしまうその行程は、丁寧にすればするほど、根気のいるものだった。しかし、荻窪が丁寧にしまっているそれを無視するように乱雑にできるはずもなく、荻窪の見様見真似でしまっていく。

 荻窪がしているように、雨戸に一枚ずつ触れては戸袋にしまうその手順は、まるで毎日なにかを祈るための時間のようにも思えた。

 いまなら、その理由の中の僅かな部分が分かりそうな気がして、高梨は雨戸に触れたままほんの少し手を止める。

 高梨は、自分が着ている薄紺色の着物にそっと目をやった。おそらくはひとつめ、この着物の本当の持ち主。ふたつめ、使われていない部屋の主。みっつめ、写真が入っていない写真立て。


 すべての雨戸を開け放つ頃には、ゆっくりと昇り出していた太陽も、既に朝陽として顔を出していた。

 書斎に戻ると、書き終えたのだろう原稿が丁寧にまとめられ、文机の上に置いてある。その上には起きたら持っていくように、との指示が書いてある紙が乗っていた。


 高梨はその原稿を手に取ると、畳の上に座り込む。いつものように、最低限の汚れしかないきれいな原稿を手に、高梨はそれから漂うインクの匂いにそっと鼻を寄せた。ふと文机の上を見れば、いつもの万年筆が無造作に置かれている。無造作に置かれている割に、その万年筆は静かに、朝日を浴びて光っていた。

 この万年筆は一体どれくらい使っているのだろう。高梨はしばらく万年筆を見つめたあと、そっと音を立てないように畳に座る。

 

 みけの様子を横目で覗いつつ、原稿へと意識を向けた。

 今回は金魚の怪談だ。


 恨みの感情でも妬みの感情でもない、純粋な悪意とでもいうのだろうか。でも荻窪はそんなふうに分かりやすく文面に「もの」を見える位置には置かないはずだ。

 高梨はさらに読み込んだ。

 更紗の金魚が川を泳ぐその姿に、口惜しいと口走るその姿に、どこか通ずるものを感じる。

 

 なぜ橋の先に行くことができないのか。

 なぜ若者を連れて行こうとしていたのか。


 これらは高梨の感情にも、揺らぎを与えてくるものがあった。

 これは、独占欲ではないだろうか。

 しかも、恋情が発端の、独占欲。


 恋しいと思うのはあまり、金魚は若者を自分の棲家へ連れ出そうとする。それが彼を死なせてしまうかもしれないとは、知らないままに。

 言外に語られるこの恋情は──。


 がたりと、源氏襖が開く音がする。


「おはようございます、先生。」


 高梨がいつものように、昨日のことなどなかったかのように声をかけた。


「あ、ああ、おはよう、高梨くん。」


 荻窪が立つその隙間からちびが出てきて、高梨の膝にむいむいと乗ってくる。

 甘えるように小さな鳴き声をあげてから、高梨の手に頭を擦り寄せた。


「ちびもおはよう。」


 ちびの頭を撫でてやれば、満足そうに喉を鳴らして二本の手を高梨の胸元に添えて、見上げてくる。

 青い瞳が真っ直ぐに、高梨を見つめた。


「朝ご飯を作ろうか。」


 いつもの暗茶の着物を纏った荻窪がそう言って、台所へと向かおうとしたその後ろ姿に、高梨は思わず言葉を投げていた。


「先生、誰かを愛する気持ちは……お持ちじゃないですか? 少なくとも僕は、そう感じますよ。」


 口をついで出た言葉に、高梨自身も深くため息がこぼれてしまう。

 高梨はそれ以上言葉を出すことができないまま、うつむいた。

 こんなことを言ってしまっては、荻窪を困らせてしまうだけだ。高梨は膝にいたちびの頭を撫でてから畳の上にそっと降ろし、みけの頭を撫でて、もう一度彼を見た。


 高梨の唐突な言葉に荻窪は足を止め、言葉を選ぶかのように黒い瞳を揺らしたものの、口を噤んだ。


「今日は、一度家に帰って着替えてから行くので、ここで失礼しますね、先生。」


 高梨は立ち上がって、頭を下げる。


「原稿をいただいていきます。それから、先生の私室に僕の背広があるので、入らせてください。」


 言葉を紡いでいるうちに少しは落ち着いてきたのか、高梨はようやく表情を取り戻すことができた。

 編集者としての仮面を、逃さず被る。

 にこり、いつもの笑顔を荻窪に向けて、もう一度頭を下げた。

 背広の上着は泥汚れがついているから手に持って、残りは大丈夫そうだからと着替えてしまう。


 白いシャツに洋袴ズボンを穿いてズボン吊りを着けた。付け心地を確認するために、ぱちんと指で弾いて確かめる。眉間にしわがより、歪んでいるだろう自分の顔を想像して、高梨はそっと息を吐き出した。中見え(ベスト)を羽織った高梨は、一度きつく瞳を閉じる。昨日の夜の荻窪の手の甲の感触、頬に触れた手のひらの温度を思い出していた。心の奥底にしまい込んで、思い蓋で閉じてしまう。

 

 源氏襖から出て来た高梨の姿に、荻窪は僅かに切れ長の瞳を見開いた。おそらく、完璧に仮面をかぶれていなかったのだろう。


「先生、みけのことお手数をおかけしてしまってすみません。僕もできるだけ顔を出すので、よろしくお願いします。──あ、それからこれ、みけの病院代を……、」


 高梨がそう、まくし立てるように言い連ねていた言葉を、荻窪が遮った。財布を出そうとしたその手を、止められる。


「それは気にしなくていい。高梨くん、きみ、少し無理をしていないかい?」


 なにを、とは聞けなかった。

 無理をしているとするなら、いまここで平静を装っていること以外ないのだから。


「いえ、みけのことは僕が連れてきたので、そこは責任を持ちます。」


 あえて、外した。

 荻窪が言いたいことは分かっていたけれど、いまはそこに触れることができない。

 むしろ触れないことで保っていられるこの仮面を、どうかお願いだから引き剥がさないで──。


 高梨は震えそうになる手を、強く握りしめた。

 これ以上荻窪の前にいたら、仮面を剥がされてしまう。


「それじゃ、またお伺いしますね。」


 外側に向ける専用の笑みを浮かべた高梨に、荻窪がこれ以上なにかを言うことはなかった。

 荻窪はただ、なにかを言いたげにお腹の前で拳を固く握る。足元でちびとみけが、何事か、とでも言うようにうろうろしだし、高梨はますます早くここから逃げないと──、と背を向ける。


「高梨くん、みけに会いにこまめに来てくれないか?」


 そんな高梨の背中に告げた荻窪の声は、どこか懇願しているような音にも聞こえた。


「はい、もちろん、そうさせていただきますね。それでは、また。」


 振り返って、ぺこりと丁寧に一礼すると、高梨は足早に荻窪家から飛び出してきてしまった。

 彼に八つ当たりしても仕方がないというのに、何をしているのだろう。編集者としての仕事相手である作家に対して、なにをしているのだろう。


 高梨は家路を急いだ。


 家で着替えてから、急いで仕事に向かわなければ。

 この時間はきっと、家には誰もいないはずだ。父親も仕事に出ているし、母も近所の掃除に出かけているだろうから。


 このときばかりは両親の、自分への無関心さに安堵していた。




 ***




 背広は洗濯屋に出すことにして、風呂敷に包んで持ってきた。背広を何着か持っていてよかった、高梨は胸を撫で下ろしていた。

 もし背広がなかったら、着物で出社しなければならないところだ。

 あの若竹のところに、着物で行くことを考えたら、とそれだけで鳥肌が立つ。

 それこそ、今度は直に触られかねない。


 高梨は幾重にも重ねてきた仮面を、荻窪の家のあちらこちらに落としてきてしまった気分になった。

 こんなに薄かったのだろうか、自分の仮面は。


 高梨は、いつもより少し早い時間に電停に立っていた。鞄ともう片方の手には風呂敷包みを持って。


 拾い集めないと。


 あの静かな空気に染まりすぎた、高梨はそんな自分を責めるしかない。悪いことはいつも、自分が招いていると、常日頃から父がよく「お前のそういうところが」と指摘していたから。


 高梨は奥歯を噛み締めて、泣きたくなる気持ちを、喉の奥に押し込んだ。目の前の空間を睨みつけるように、自分自身を叱咤する。

 だけど蓋をしても、もはや気持ちは溢れて止まりそうもない。


 喉が震えて涙がせり上がりそうになるが、高梨はそれでも食いしばって涙を飲み込んだ。

 泣いたらきっと、二度と自分のままで在り続けることができなくなりそうで。

 



 ***



 

 路面電車がゆっくりと電停に停まる。

 高梨はいつものように乗り込んだ。


 そして、今日もやはり、近場の景色をただ瞳に映すのみ。

 ただ、高梨は苦しかった。

 背水の陣というわけではないが、四角四面に行く道を塞がれているような、閉塞感を覚える。


 湖面を漂う魚で良かったはずなのに、いつの間にかそれ以上を望んでしまった。

 陸に上がって呼吸ができなくなった魚のように、息ができないと、思った。


 出社してからの高梨はまず、荻窪の原稿を手書きで写した。万が一を考えてのことだ。

 それからいつもどおりの流れで、仕事に打ち込んでいく。このときばかりは忙しさのあまり、時間も忘れて没頭できる良い時間だ。


 高梨が一日の仕事を終えたのは、深夜を回ってからだ。いつもならみけの様子を、とか言いながら荻窪の様子を見に行くのかもしれない。だが、今日は流石にそんな気分にはなれるわけもなかった。


 路面電車もとうに終電が過ぎ、帰る手段はなくなっている。円タクに頼るには、みけのことが気にかかる。

 高梨は帰宅を諦めて、出版社の仮眠室で一夜を明かすことにした。身体の汚れは朝早くに銭湯に行けば、いいだろう。

 編集部の奥にある一角に畳が敷いてあり、高梨は仕方なくそこに寝転んだ。寒さはその辺にある毛布を引きずって、適当に掛けて凌ぐ。そのままうとうとしているうちに、深い眠りに落ちていった。


 薄暗い編集部の一角で丸まって眠る高梨は、まるで迷子の猫のようだ。見つけてもらえない淋しさに身体を丸め、鳴くことにも疲れてしまったような。


 荻窪にぶつけてしまった言葉を、今更ながら悔いていた。

 あんなことを言わなければよかった。そうしたら、荻窪はあんな表情をしなかっただろうに。

 八の字にした眉で高梨を見つめ、何か言おうと言葉を探したが見つからなかったときの、あの表情を思い出す。

 困らせてしまったのは分かっていた。

 だけど、言わずにはいられなかった。


『恋愛には疎くてね』と言って純愛小説を読んでいた荻窪を、いまなら違った形で見ることができる。

 あれは疎くて読んでいたのではないのだろう。

 なにかを確認するためではなかったのではないか。


 高梨の好意が、荻窪に伝わってしまっていたのだろうか。隠そうとしても、彼はとても鋭い人だから、言葉の端々で気がついてしまうことは、きっと容易いことだと思えた。


 もういっそのこと、伝えた上で拒絶されたほうがまだ諦めがつくのではないだろうか。


 想いはもう、蓋をこじ開けてあふれ出してしまいそうだ。


 それでも、高梨は荻窪に会わなければ良かったと思ったことは、まだない。

 荻窪からしてみれば、随分と年下であろう自分を、弟のように可愛がっている感覚でしかなかったはずだ。高梨はそこに、必要以上に踏み込んでしまった。


 窒息してしまいそうだ。


 夢の中で高梨は、陸に上がった魚のように水を求めて「はくはく」と口を動かしていた。

 助けて、とでもいうように伸ばされた手は、誰にも届かない。




 ***




 高梨は、射し込む朝陽が眩しくて薄らと目を開けた。傍らに置いた懐中時計を確認してみれば、まだ日が昇り始めたその時間だ。

 こんな早くに誰が──、と部署内を見回してみれば、編集長がそこにいた。


「お、おはようさん。なんだ、ひっでぇ顔だなぁ。銭湯に行ってちったぁ洗い流して来い。」


 ぼろ切れのように働いた高梨の姿を見て、一笑に付した。


「おはようございます、昨日は荻窪先生の原稿が上がったので。」


 高梨がぼそりと答えると、掛けていた毛布をたたみ出す。


「おお、荻窪先生か。──あの人、悪い人じゃなかったろ。お前さんとならうまくやれる気がするんだ、俺。」


 ははは、と軽く笑い飛ばした編集長は、なにかを思い出したように、一瞬だけ遠くを見つめた。


「昔からの知り合いなんですか?」


 気になっていたことが、思わず口をついで出てしまう。


「ああ、荻窪先生をここに引き込んだのはな、俺なんだ。先生とは昔からの知り合いでなぁ……俺がお世話になったのは、荻窪さん、彼のお祖母様だよ。恩返しみたいなもんだな、ま、できてるかどうかは分からないけどなぁ。」


 編集長が、怪談作家である荻窪の原点──。


 高梨はそんな編集長の言葉に驚いて目を見開いた。

 そんな昔からの知り合いだったのか、という驚きと、この世界に引き込んだのが編集長という、その理由はなんだったのだろう。


「荻窪先生のお祖母様ですか?」


 高梨は毛布を畳みながらそう、編集長に問いかけた。

 荻窪はほとんど自分のことを話さないから、編集長との繋がりさえ知らなかった。

 高梨はてっきりこの世界には自分から飛び込んだとばかり思っていたが、違ったのか。


「ああ、俺の両親がな、昔、荻窪のお祖母様と御縁があって、少しな。」


 編集長はそこで言葉を切った。それ以上は荻窪本人から聞いてくれ、ということか。


「そうだったんですね。」


 返事をしながらも真実はぼかされ、高梨はたたみ終えた毛布を片隅に寄せて、背広の上着を着込んだ。


 かちりと、何かが符合していく音がする。


「銭湯に行ってきます。」


 高梨は編集長にそう告げると、編集部から出て行った。


 ──僕はやっぱり、荻窪先生のことを手放せない。





 ──水底の生、陸の窒息。

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