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第十一章 冬の泥濘、春待ちの家

 まだ冬と春の中間にある季節で停滞している天気の中で、雨が降ったり、霙が降ったり、時として雪に変わる。

 この中間の季節はおよそ二ヶ月にもおよび、ますます春の陽射しが恋しくなるというものだ。


 高梨が、ようやく洗濯屋から仕上がった背広を受け取ることができたのは、怒涛の仕事を終えてからしばらく後のことだった。

 忙しいということは、いろいろなことを考えなくて済むから、楽だ。しかし、身体の疲労は蓄積していく。それは心地よい疲労感なんてものではなく、重たい泥を身体に塗りたくられたような、そんな動きの取りにくい重たさだ。

 高梨は洗濯屋から背広が返ってくるまでの間、荻窪家への訪問は控えていた。それもそろそろ限界か。

 

 自分自身の中の心の整理の時間が欲しかったせいもあったが、気まずさが会いたいという気持ちを上回ってしまっていたから。

 泥濘ぬかるみに浸かるように、忙しさの中に自ら飛び込んでいた。そうしてようやく、気持ちが落ち着いてきたと言える状況になった、とはいえ。


 気まずいのは変わらない。


 そんな曇天の中、高梨はぼんやりとした足取りで街中を歩いていた。担当作家のところからの帰路の途中、いつも端切れを買っていた店を思い出して、ふらりと立ち寄ったことがきっかけだ。

 絹の端切れを差し出され、今日は色が豊富だよ、と声を掛けられる。

 ちびのために、としょっちゅう顔を出していた高梨を覚えていたらしい呉服屋の店主が、高梨を見つけて声をかけてきた。


 そういえば、みけにはまだなにも買ってあげていなかった──、と思い至り、足を止めて端切れを見せてもらう。いつものように赤い端切れと緑の端切れを購入し、背広のポケットに突っ込んだ。少しひやりとした手触りが、端切れから伝わってくる。

 ちびの青い瞳とみけの金色の瞳を思い出して、懐かしく感じられた。


 高梨は無意識に路面電車の電停まで、歩き出す。そうして、しばらく待つ間、ちびのこと、みけのこと、そして荻窪のことを考えていた。


 ちびは淋しがっているだろうか、みけは自分のことを覚えているだろうか。

 自分は──荻窪に呆れられてはいないだろうか。


 正直に言ってしまえば、会うのが怖い。ちびに冷たくされたら淋しいという気持ち、みけに忘れられていたら悲しいという思い、荻窪に冷たくされてしまったらどうしようと思う気持ち。

 それらすべてが凝縮されたように、高梨の背広のポケットに詰まっているかのような感覚だった。

 指先に伝わるひんやりと滑るような絹の手触りが、やけに主張しているようだ。

 忘れたふりをしていたのは、高梨の方だとでもいうかのように。


 路面電車が軋んだ音を立てて、電停へ停まる。高梨は覚悟を決めて、電車に乗り込んだ。


 遠く移り変わる景色に視線を向ける。遠くに見える海原を久しぶりに眺めてから、この景色を見るのは久しぶりだと感じた。

 そういえば、遠くの景色を見ることなど最近していなかった、と思い至る。

 大海原が横たわる広い景色を、見る余裕もなかった。


 心の整理をするために、ひたすら内側へ意識を向け続けていたから。ようやく少しは、余裕が出てきたということなのだろうか。

 高梨はいつもの電停で降りると、ゆっくりと歩き出した。足元を確かめるように、ぬかるんだ道に足を取られないように。


 勾配のある道を通り、角を曲がるとそこに現れるのは木板でできた黒塗りの塀、そして玄関の入り口には、いつも鎮座している狸の置物が見えた。

 変わらない荻窪の家そのものが、時間を止めているかのように、高梨を迎えている。


 家そのものから、「よく来たね」とささやかれているような気がして、導かれるように玄関の戸口に手を掛けた。

 いつものように軽い音を立てて、からからと抵抗なく開いていく。


「こんにちは、高梨です。」


 そう声を掛けた瞬間、書斎からであろう、ものすごい音が轟いてきた。

 木板に爪を立てて駆け抜けてくる。まるで馬のように走りくるような音が響いたと思ったら、角を曲がる時にさらに爪をたてて方向転換する凄まじい気配と共に、白い塊が高梨へと飛びかかってきた。

 じゃきじゃき、と木板にめり込むような爪音を立てて走ってきた白い塊は、ちびだった。


「にゃあああああっ!」


 背広の脚に爪を立てて飛びあがる。皮膚に爪が刺さり、とても痛いのにちびを無下にはできなかった。

 そっと抱き上げれば、大きく見開かれた青い瞳が、さらに透明度が増しているようだ。

 まるで青い硝子のように見えるその目が、淋しかったんだからと訴えている。その剥き出しの感情に、高梨は嬉しく思いながらもどこかで安堵した。


「ちび、ごめん。来なくてごめんね。淋しかったね、ちび。」


 抱きついて離れないように、抱えられたその胸元にちびが爪を立てて掴まっている。

 それからしばらくして、みけを片手に抱いた荻窪がゆっくりと姿を現した。


「高梨くん、よく来てくれたね。見ての通りだ、私じゃあきみの代わりにはなれないらしくてね。ちびがひどく……淋しがっていたんだよ。」


 その間は、おそらく幾重にも包み込んで緩和した表現だったのだろう、荻窪の頬にも爪跡がしっかりと何本か残っているのが見て取れる。


「みけを預けっぱなしにしていて、すみませんでした。」


 覚えてくれているだろうか、最後に見た時よりもずっとふっくらとしたみけに手を伸ばす。みけはその指をすんすん匂いを嗅いでから、高梨のその指に頬を摺り寄せた。


「みけも覚えているよ、大丈夫だ。」


 それにしても、ちびの暴れっぷりを目の当たりにした高梨は、改めて気まずさもなにもかもを吹っ飛ばすほどのちびの威力に、恐れをなす。


「先生、頬の傷にはきちんと軟膏を塗って手当てしましたか?」


 片手にちびを抱きかかえ、荻窪の頬へと手を伸ばした。ちびの爪は鋭くて、人間の皮膚を裂こうと思えば簡単に裂けることができるからだ。


「ん? ああ……、治るものだから。」


 何もしていないということか。高梨の擦り傷にはすぐに軟膏を塗って、きちんと消毒しなさいと告げていたくせに、自分のことになると途端にこうだ。


 高梨は器用に靴を脱ぐと、荻窪の手を掴んで居間へと歩いていく。確か軟膏が入っていた戸棚の引き出しはここだったはず、とそこを開けて取り出した。


「先生、傷を見せてください。これ、いつ付けられたんです?」


 見るからに最近の傷だということは分かる。


「んにっ! にゃっ!」


 ちびがなにか訴えているが、とりあえずは先に荻窪の傷を消毒しなくちゃ、と高梨は一度ちびをそっと畳の上に下ろすと台所へ向かった。


 冷たい水で手を洗い、手ぬぐいで手を拭いてから居間に戻ると、ちびは荻窪に背を向けている。その姿にまるで喧嘩でもしているような雰囲気が感じ取れて、高梨は一体なにがあったのかと首を傾げた。まるで、恋人同士の喧嘩のようにも見えて、高梨は笑いそうになる。


「喧嘩でもしたんですか? 先生、横を向いてください。」


 軟膏を指に掬い、そっと荻窪の頬に触れる。温かい体温が冷えた指先にしみ込んできた。

 結構深いな、と思いながら軟膏を塗りこんでいく。


「いつもの男前がこの傷で少し上がりましたね。」


 高梨は冗談を口にした。

 しかし、荻窪はいつもの切れ長の瞳を丸くして驚いたように、高梨を見つめる。なにかを言いかけたように口を薄っすらと開けた瞬間、高梨はちびに爪を立てられてしまった。


「いたたたっ!」


 荻窪が高梨へ言葉を返す前に、ちびによって腕に爪をたてられて止められた。

「あたちを見なさいよ! あのおっさんにはあたちが天罰をくだしてやったのよ」とでも言いたそうな、勝ち誇った表情を見せる。

 どう考えてもあの傷はちびの仕業だろうとは思っていたけれど、自己申告か、と笑いがこみあげてきた。


「犯人はちびでしたか。」


 思わず笑ってしまう。ちびはずいぶんとお転婆な猫だなぁ、と高梨はいつもの空気に流されていく。ふんす、と荻窪からそっぽを向くちびは、青く玻璃のような瞳を細めて耳を倒し怒りをみせていた。白くて長い尻尾がびたん、びたんと畳を打ち付けている。


「ああ、ちびが、高梨くんが来ないのは私のせいだと怒っていてね。八つ当たりされたんだ。」


 穏やかな荻窪の声に、自分がいなかった間、この家では自分の居場所を開けて待ってくれる相手がいた。ただそれだけで心が温かくなる。


 ──先生は、待っていてくれましたか?


 一番聞きたくても聞けないその問いは、そっと飲み込んでしまうしかなかった。

 みけはちびとは正反対に、ずいぶん大人しかったようだ。獣医院に連れて行ったとき、少し猫風邪を引いているが、適切な治療をしたら問題ないと診察してもらったそうだ。その後は素直に薬も飲んで、完治していた。

 みけは逆に手のかからない静かな子だよ、と荻窪はいつものように、喉の奥でくつくつと低く笑った。

 逆に、という引き合いはちびしかいないだろう。


「あ、そういえば、ちびとみけにお土産があるんでした。」


 そう言って、背広のポケットから取り出したのは、呉服屋で買った絹の端切れだ。

 ちびには赤、みけには緑、きっと二人に似合うはずだ、とそれを見せる。


「またきみは──。」


 荻窪が二本の端切れを取り出した高梨の手を掴んだ。いつものように無骨で大きな手だ、と高梨は懐かしく、そして切なく思う。その感触に触れることがどれほど心を揺さぶるのか、荻窪は知っているのだろうか。


「どうしてそんなに気にかけてくれるんだ?」


 す、と見上げた荻窪の、もの言いたげな視線とぶつかった。眉間にしわを寄せて、だが、表情は怒っているふうではなくて。それは荻窪に言えるばずもない。どうして、なんて決まっているのだから。荻窪が大切にしている猫のちびが、自分も大切だと思っているからに決まっていた。


「ご迷惑、ですか?」


 努めて声が震えないようにしたつもりだ。

 高梨は自身の眉が八の字になっていることにも気が付かないまま、荻窪に笑いかけた。


「それくらい、させてください。僕もちびとみけが大事なんですから。」


 もちろん、荻窪のことがなによりも大事だけれど。

 それはあえて触れないでおく。


「きみの負担になっていないのならいいんだが……。」


 荻窪は困ったように、高梨から視線を外した。それと同時に高梨の手首を掴んでいた荻窪の手も、ゆっくりと離れていく。掴まれていた手首からすぅ、と荻窪の残した体温が引いていくのが分かった。


 それが少し、淋しさを覚える。

 負担だなんてそんなはずがない、そう言いたいけれど、いまはまだ言えなかった。

 そばから離れないちびにまず、赤い紐の首輪を結わえる。


「よく似合うね、ちび。ああ、そうだ、時間があるときに少し爪も切っておかなくちゃね。」


 荻窪の頬に付いた傷を見て、高梨はくすりと声を漏らした。

 それから、いまだに荻窪の腕に抱えられていたみけにも、緑色の紐を結わえてやる。ああ、黒に絹の光沢を持つ結び紐がずいぶんとよく似合っていた。


「みけ、きみもとても素敵だね。いい子だよ。」


 頭を撫でると、みけは気持ちよさそうに金色の目を細めた。


「高梨くん、ありがとう。今夜は私に、夕餉をご馳走させてくれないか? とはいっても、香世さんのところだが。」


 香世とは、みけを引き取ってくれる人の名前だ。

 荻窪の家の近くで、昔から定食屋を営んでいるらしい。高梨はまだ香世にきちんと会ったことはなく、せっかくだから会って挨拶をしておきたかった。


「では、一度社に戻って……、」


 ぎちぎちとちびの爪が、太ももに刺さり込んでくる。


「で、電報を打ってきます。これで安心かい?」


 それでもなお「社へ戻って」なんて声が聞こえたら、噛んでやろうとしていたのか、ちびがあんぐりと口を開けていた。


「ちびや、お前、そろそろ止めなさい。」


 そんなちびを見て、荻窪が慌てて膝から引き離すと、爪が洋袴から外れる「ぷちぷち」という音が響きわたった。


「すまない、高梨くん。背広をだめにしてしまった。」


 荻窪は、「ぷちぷち」と音を立てたところを心配げに眺めていたが、糸が出ているとかそういったものは見つけられないようだ。

 高梨も実際に触れてみたが、僅かにささくれだってはいるものの、ひどく糸が飛び出している場所はなかった。ちびの身体が小さく、小柄だからだろう。


「大丈夫です。僕は編集長に電報を打ってきますね。」


 そう言うと高梨は、その場を立ち上がる。ちびが「またおまえがおいだちたのよ?」と忌々しげに荻窪を睨み──、尻尾をびたんと畳に叩きつけた。高梨はそんなちびに笑いをこぼす。猫が不気味な生き物だと思っていたころの自分に、教えてやりたい。こんなに表情が豊かで、愛情深い生き物なのだと。


 どうやら荻窪は、ちびに「高梨を追い出した悪い人」という烙印を押されてしまっているらしい。


「ちび、すぐに戻るよ。みけも、待っていてね。」


 高梨はそう彼らに告げると、荻窪の家をあとにした。大急ぎで近くにある郵便局へ行き、編集長に宛てて電報を打つ。

 これで大丈夫、とひと安心した高梨は、ふたたび荻窪の家までの道を辿った。


 ちびが大歓迎してくれたお陰で荻窪との気まずさが、一気に消えた気がする。そこはとてもありがたかった。そしてなにより、ちびのあの、「待ってたんだからね!」という無言の圧がたまらなく──可愛らしくて。

 みけのおっとりとぽわんとした性格とは真逆のちびが、あまりにも苛烈すぎた。


 ──先生もちびみたいに、分かりやすかったら良かったのに。


 言葉足らずな荻窪は、語らない言葉こそが雄弁だ。飲み込んだ言葉のほうが真実で、彼の本音でもあるのに。

 荻窪は高梨が聞きたいことを言ってはくれず、高梨も自身が聞きたいことを質問できないままだった。


 荻窪の家に着いた高梨は、再びのちびの歓迎を猛烈に浴びせられ、人間木登りの状態になってしまった。ばりばりと勢い良く脚元からかけ登られた高梨は、流石に痛くて声が出る。


「いたたた、ちび、痛いよ。」


 ちびの速さに置いて行かれた荻窪が一拍遅れて高梨を迎えに出、すでに登りだしていたちびを引き剥がそうとした。


「ちび、落ち着きなさい。」


 ぐい、と引き寄せてちびの爪を取ろうと、荻窪が高梨に近づいてくる。自分よりも背の高い荻窪が、屈むように小さなちびの手を掴んだ。

 ふわりと白檀の香りが漂ってきて、高梨は思わず懐かしくなる。


 思わず、ごくりと喉を鳴らしてしまった。


 その音に荻窪が顔を上げ、三寸(九センチメートル)ほどの距離で数瞬見つめ合う。


「あ……、」


 その声は、どちらのものだったのか。


 荻窪が素早く離れ、ちびは勝ち誇ったように高梨にしがみつく。


「すまなかったね、ちびたちにごはんを与えてから、私たちも出かけようか。上がって待っていてくれ。」


 荻窪は高梨に背を向けて、急ぎ足で台所へと向かった。その耳は薄闇の中でも紅く見え、高梨は片手でちびを抱きしめたまま、自分の耳も熱いことに気がついた。




 ***




 荻窪に案内されてたどり着いたのは、香世が営む定食屋だ。どうやらもともとは香世の母が切り盛りしていたらしいが、いまは香世が引き継いでそのまま切り盛りしているらしかった。

 艶のある黒髪を無造作に後ろに束ね、ぽてりとした唇とやや垂れ目が印象的な女性だ。

 しなを作ればそれこそ、官能的に見えるその容姿は気風の良さと相まって、見る者に媚びない、潔い色香を放っている。


「おや、先生じゃないか。そっちの美人は誰だい?」


 高梨のことを見つけると、そう言い放った香世はからからと笑った。


「彼は私の担当編集者の高梨くんだよ。みけを保護してくれた──。」


「ああ、あの黒猫のことだね。しかし、みけなんて、あんたもまた独特の感性だね。」


 荻窪に向けてそう言い放ってから、高梨に向き合った。


「大変だろ、こんな男の編集さんなんてさ。常連が増えるのはありがたいからね。いつでもおいで。」


 昔馴染みというだけあって、歯に衣着せぬ物言いをしていても、嫌味にならない。荻窪は仕方ないなというように薄い笑みを浮かべていた。


「あの……香世さん、みけをよろしくお願いします。」


 高梨は香世に頭を下げる。この人がみけを育ててくれるなら、安心できるな、高梨はそう思った。


「あたしは構わないよ。なにせ独り身だし、話し相手ができてありがたいからね。」


 明るい香世のそのひと言で高梨は、荻窪がけして適当にみけの貰い手を探したわけではないと分かって、安堵する。


 荻窪の心に誰が住んでいるのかは分からないが、それでもこうして昔馴染みを紹介してくれたことは、高梨にとって、嬉しいことに変わりはない。




 ──冬の泥濘、春待ちの家。

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