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第十二章 水底もまた、陽の透き間

 焼き付けるような陽射しの中で、耳に涼しい氷屋の鈴の音がする。窓を開け放った純喫茶からは蓄音機が流行歌を奏で、これぞ夏といった街中を高梨はいつものように闊歩していた。


 暑いな、と思いつつも仕事着でもあるこの背広を脱ぐことは、自分の規律に反するものだ。

 ポケットから白い綿のハンカチを取り出すと、額の汗を押し付けるようにぽんぽんと拭う。


 今日は若竹とは違う新人作家との打ち合わせで、その作家が住む家の近くにある純喫茶へ行ってきた。

 新人作家は少し神経質だが、生真面目で仕事がしやすい相手でもある。ただ――彼には娘が一人いて、その娘が高梨に色目を使ってくるからたまらない。


 世間から見る高梨の評価は高い。

 旧高等学校を卒業後大学に行かなかったものの、出版社勤めの職業人。その上、見目麗しく物腰も柔らかい。となると、どうしてもそういった目に晒される。


 近所の純喫茶での打ち合わせは、高梨たっての希望だ。下手に期待されるのは困る。応える気はさらさらないからだ。幾度か高梨は金本の娘と鉢合わせして、そのたびに根掘り葉掘り聞かれていたのが発端だった。さすがの高梨も行くたびにそれをされては、避けてしまいたくなる。

 正直、色目を使われてしまうと、高梨の中でその人間をあまり認識しないようになる、という悪循環だ。


 純喫茶の重厚で洋風な扉を開けると、こだわりの店主が「いらっしゃい」と声を掛けてくれる。

 ふんわりと珈琲の香りが漂い、高梨は肩の力が抜けた。小さな音で古典音楽が掛かっており、雰囲気のある店内だ。


 店の中を見渡せば、自分の父よりはやや若い新人作家が奥の方に座ってるのが見える。高梨は軽く会釈すると、作家の元へ歩み寄った。真面目そうに髪型をポマードで撫でつけて、丸眼鏡をかけた少々神経質そうに見える男が、金本だ。


「こんにちは、金本先生。どうですか?」


 高梨は店主に「冷やし珈琲」を頼んでから、金本に声を掛ける。


「ああ、高梨さん、こんにちは。進んでいますよ。原稿を持ってきました。」


 金本は気難しそうな指で、原稿を差し出してきた。

 確か元銀行員だと聞いたことがある、夢を諦め切れなくて結局作家を目指したんだとかなんとか……。


「では、拝読いたしますね。」


 高梨は原稿に目を通す。――金本は怪談を書く作家ではなかったはずだ。しかし、今回の原稿には怪談が書かれていた。


「金本先生、今回はなぜ怪談を?」


 いつもの哲学思想に基づいた現実的な話を書く人が、今回は怪談を書いている。高梨はそれを訝しんだ。


「あ、いや、娘が最近夢中になっているのが、怪談でね。私にも書いてみろとせがむもので。」


 娘のことになると途端に甘くなるこの金本は、こうやって何度も迷走するから困りものだ。


「金本先生、いつもの筆致でお願いしますね。怪談作家はうちの雑誌に中堅がいますから……。」


 書けなくなっての路線変更ではないのなら、いつもの感じで書いてくれ、そう思っても顔には出さない。

 それに怪談作家は荻窪がいる。この話、読んでみれば荻窪の話を模倣しているようなものだな。


「存じています、荻窪先生ですよね。高梨さんはお知り合いですか? 娘のためにご署名いただければ嬉しく思いまして。」


 普段の気難しさはどこへやら。娘のためにとなればここまで甘くなれるこの父親ぶりを見ながら、高梨は呆れ果てていた。署名か。荻窪との付き合いの中で、いままでに一度でも誰かから署名を求められたことがあったのだろうか。少なくとも高梨は、見たことがなかった。

 

 あまり外出をしない男だから、世間から見つかっていないという理由もまたひとつ。雑誌の著作コーナーで住所が隠されていることもまた、ひとつの理由か。荻窪はいつも「編集部気付」と記されている。

 住所を秘匿にしているのは、そういえば、この部署では編集長しか理由を知らないのではないだろうか。それに、著者近影もずいぶん前に撮ったきり、撮っていないという。前担当の渡辺は写真を保管はしていたが、それを掲載したことがあるとは言っていなかった。――渡辺の時には。


「金本さん、僕のような若輩者がそんな著名な方にお会いできると思いますか? 申し訳ありませんが、無理ですよ。」


 一人の願いを叶えれば、また一人また一人と増えていく。高梨は丁寧に、それなりの理由を添えて、お断りした。荻窪がいままでに秘匿にされいるのは、なにかわけがあるのだろうし。高梨はそんな荻窪の意志を尊重したかった。


「高梨さんは同じ雑誌だからお会いしたことがあるはずだと娘が言っていたのでね、もしかしてと思いまして……。」


 生真面目でも娘には弱いのか、高梨は小さく息を吐くと、差し出された原稿を丁重に返す。照れくさそうに笑った金本には少し申し訳ないとは思ったが、これもまた、仕事だ。

 期待をされても困る。想像通り、高梨は確かに荻窪の担当ではあるが、それをわざわざ公表する必要もないだろう。金本の娘の勘は鋭いと言わざるを得ないが、高梨はそれでも、毅然と断った。


「いつもの感じでお願いしますよ、金本先生。――それではまた、そうですね、来週の同じ時間にここで打ち合わせましょう。」


 金本の分と自分の分を足してお釣りが出るほどの小銭を卓の上に置くと、店主に声を掛けた。


「マスター、お代はここに置いていきますね、ごちそうさまです。」


 ぺこりと頭を下げてから、高梨はそのまま純喫茶を後にする。一度編集部に戻ってから今度は、と手帳を開くと投稿原稿の読み合わせが予定になっていた。


 高梨は炎天下に晒されながら、今度は編集部へ戻るために、電停に立つ。行ったり来たりすることにはもう慣れたが、背広を着たままという暑さにはまだ少し慣れていなかった。背広を脱いでしまえば中見えが見えてしまう、そこからは白いシャツが見え、そのシャツはこの当時、下着と同類でもあるものだ。さすがにそれをさらけ出して外を歩く、ということは避けたかった。

 背広を脱ぎたいと思いつつも、編集者としての面子が立たないと思い直す。白い綿のハンカチで汗を拭うと、風通しの良い荻窪家を思い出していた。


 荻窪はあの風通しの良い家の中でも、暑さに負けていそうな気がする。

 ちびはちびで、猫は涼しいところを探す天才だから、きっと姿を消しているだろう。

 ふ、と笑みが漏れたところで、路面電車が軋んだ音をたてて電停に止まった。


 編集部に戻った高梨は、投稿原稿を読み始める。いつものように可不可を分けていく作業の中で、光るものを探すというのは、大変だ。

 さすがに暑さのために高梨は背広の上着を脱いでから、袖を捲くる。窓からはぬるい風が吹き込んでいるのみで、蒸し暑い部署は、蒸し風呂のようだった。


 日暮れ頃に戻ってきた編集長がなにかを抱えているのを横目で見ながら、高梨は文字の読み過ぎで目を瞬かせた。

 そんな折、編集長からお声がかかる。なにかまた新しい新人を押し付けられるのか、と思いつつも編集長の元へ行くと、近代文明の結晶のようなものを見せられた。


「高梨、これはな、扇風機っていうやつだ。作家の先生からお古でもらったんだけどな。電気代が嵩むだろう? お前にやるよ。――荻窪先生んとこに持っていってやれ。」


 そう言って渡されたそれは、高梨の手の中でずしりと重みを主張する。


「投稿原稿の読み合わせは他のやつに任せるから、行ってきてくれ。――直下でいいからな。」


 ほらさっさと行け、と言わんばかりに追いやられては行くしかない。そう言いながら高梨は「行くしかないですね」と言いつつも、顔がにやけてしまいそうになった。

 編集長が荻窪と旧知の仲であることは、話の端々から察していたが、まるで子を思う父のようだなと思う。


「荻窪先生のところから直下します。」


 高梨は投稿された原稿を編集長の元に戻してから、編集長にそう告げて颯爽と部署から出て行った。

 いつものように荻窪家へ向かう路面電車に乗り込んで、手の中にある扇風機の重みを確かめる。一応風呂敷に包んではあるものの、手に触れる金属の感触が肌に新しい。

 これを荻窪は使うのだろうか。それとも近代文明は必要ないと言い切るのだろうか。


 いつもの電停で降りて坂を登り、角を曲がれば黒塗りの塀が見える。玄関前に据え置かれたのような置物がお出迎えする荻窪家の玄関に手を掛ければ、からからと軽い音をたてて開いた。

 まだ荻窪が起きている証拠だ。


「先生、起きていらっしゃいますよね?」


 声をかけながら縁側を歩き、書斎へ向かう。その間に、暑さに耐えきれず高梨は背広の上着を脱いだ。高梨の腕には背広が掛けられており、白い詰め襟シャツに中見え(ベスト)を着ている。

  すぅ、と雪見障子を開けると、そこには麻でできた紺色の着物を着た荻窪が、畳の上に寝転がっていた。少しの間をおいてから、荻窪は身体を起こして着物の袷を直し、高梨に向き直う。その仕草はどこかだらしなく寝転んでいた姿を見られたことへの羞恥に見えた。態勢を立て直した荻窪の、落ち着き払ったつもりの声がかわいいとさえ思う。


「こんばんは、高梨くん。」


 荻窪が低い声で挨拶をしてどこか困ったように、立とうとする。そして、衣桁に掛かった濃紺色の着物に手が当たり、「ああ、すまなかった」と思わず謝った。その小さな声色が、その相手にだけ聞こえるように囁いた。そんなふうに取れてしまう。荻窪にとって大切な存在なのだと、言葉ではなく伝えられているようだ。

 

 その一片の仕草に、高梨は「あの着物はやはりそうなのだな」と思ってしまう。荻窪はなんとも言えない表情を浮かべて、高梨を見やった。


「先生、熱くて参っていらっしゃると思って。編集長からこれを譲っていただいたので、よかったらと思って持ってきましたよ。」


 高梨はそんな荻窪を気にしないように、いいものだとでも言うように微笑んで見せる。

 小さな音をたてて畳の上に置かれたそれは、荻窪も初めて見るだろう「扇風機」だ。


「扇風機です。初めて見るでしょう?」


 風呂敷を外すと中から一尺ほどの、小さな金属でできた扇風機が顔を出す。無骨なそれはまるで、小柄ながらも荻窪のようにも見えなくはない。無骨な金属の塊は、無機質だ。


「ほう、扇風機か。初めて見るな……。これはどうやって使うものなんだい?」


 荻窪も扇風機には興味があるようで、しげしげと眺めている。家の中でほぼ隠居生活みたいな暮らしを送っている荻窪にはますます珍しく見えるだろう。


「ああ、これは、電源を差して……、」


 高梨が電源コードを天井にあるソケットに差し込もうとして手を伸ばしてみたが、あと少しのところで届かない。荻窪が高梨の手から電源コードを受け取ると、そのまま天井に手を伸ばした。


「これをここに挿せばいいのかい?」


 かちりと音がして、ソケットに嵌った電源コードを確認した荻窪が、ゆらりと態勢を崩してしまう。慌てたような荻窪の手が、思わず傍に立っていた高梨に掴まった。その瞬間、高梨は慌てて背後からしがみつくように手を回されて、胸元に荻窪の無骨な手の感触が、がしりと感じた。ぐ、と食い込むような指先に、高梨は思わず息を飲む。

 それと同時にいつもの白檀の香りが、鼻腔を刺激する。ぐ、と力が入った指先に、高梨は意識しないようにと心掛けた。背中に当たる荻窪の身体の体温と、掴まれた胸元に鼓動が恐ろしいほど早鐘のように鳴り響く。

 こんなに激しい鼓動が鳴り響いてしまっては、荻窪に聞こえてしまうのではないだろうか。


「すまなかった、わざとではないんだ。」


 荻窪が高梨から離れていくと、背中も胸元も一気に熱が引いていく。

 電源コードが繋がった扇風機のスイッチレバーを動かすと、低い音とともに鉄の羽が回り出した。


 思いの外、風は強く汗が風で冷やされていく。

 風がぬるいとはいえ、自分で団扇や扇子を仰がなくてもいい、というのは楽ではある。

 楽ではあるが――音が凄まじい。


「ほう。これはなかなかすごいな。高梨くん、いいものを持ってきてくれたね。」


 荻窪は扇風機が送り出す風の行き先を見ながら、初めて見る物珍しさに薄く笑みを浮かべていた。

 高梨も、そんな荻窪を見ながら、いつもの場所へと座り込む。

 いつも背を向けて文机に向かっている荻窪が、今日は文机を背にして座っている分、高梨と正面から向き合った。先ほどのことを思い出して、胸元に残る荻窪の指の感触を思い出す。


 顔が赤くなってしまいそうになって、高梨は思わずうつむいた。荻窪はなにかを思いついたのか、万年筆を握ると、文机に向かう。

 すぅ、と空気が変わり原稿用紙にペン先を走らせ始めた荻窪の、背筋が伸びた背中を見つめるのが常だ。


 その背中はいつもの荻窪ではなく「作家の荻窪」としての空気を孕んでいて、高梨はその空気がとても敬愛すべきものであり、また同時に淋しくもあった。

 次はいつ、その背中が振り返るのかと、期待もしてしまう。


 いつもであれば、静かな空間で荻窪のペンが滑る音だけが響いているのだが、今日は違った。扇風機という近代文明が響かせる地響きのような音が、荻窪の筆音を書き消している。


 ぶぅううううん。


 まるで一風の風が巻き起こるかのように、高梨の髪を靡かせた。何度手直ししても扇風機に弄ばれる髪の毛を諦めた高梨は、荻窪の筆音を聞きたくて耳を澄ませる。かき消されると分かっていても、無意識にそうしてしまう、いつもの癖だ。


 ふと、高梨が荻窪の視線に気が付いた。扇風機の音がうるさすぎたのだろうか。荻窪が、じ、と自分を見つめていることに気が付いてしまえば、高梨は鼓動が反応する前に笑顔を作った。


「涼しいですね、先生。」


 もしかしたら、音がうるさかったのだろうか。一抹の不安を飲み込む。

 わずかに荻窪の切れ長の目がやや見開かれ、なにかを考えるかのように間を置いた後低い声を響かせた。


「高梨くん、足はしびれていないかい?」


 いつも座っているから慣れている。それくらいでしびれることはないけれど、なにか用事でもあるのだろうか、と不思議に思う。


「はい、? しびれていませんよ?」


 不思議なのは、どうしてそんなことを訊いてきたのかということだ。小首を傾げた高梨は、荻窪の次の言葉を待った。


「なら少し、こちらに来てくれないかい?」


 ここへ、と文机に向かっている彼の傍を指定する。高梨は立ち上がって数歩歩くと、そこに膝を付いた。一体どうしたというのか、高梨は荻窪の傍まで来ると、相変わらず白檀の香りに包まれている彼の手が動いた。

 あ、と思う間もなく、高梨の髪が荻窪の手でかき混ぜられていて、態勢を崩してしまう。そんなことをされると思っていなかった高梨は、そのまま荻窪の肩に掴まって彼の太ももに手を付いた。


 ――やらかした。


 寄り掛かってしまった荻窪の背中や肩、そして太ももから伝わる体温に鼓動がこれでもかと跳ね上がる。いまなら暑さで誤魔化せる、そうは思っても高梨はすぐには言葉がでなかった。


「あ、あの、先生……、」


 数拍置いてから顔を上げれば、荻窪も驚いた顔をしている。こんなに近くで顔を見たことなんて、なかった。切れ長の黒い目に高梨が映っている。あと少し近づけば……、そう思った高梨は無意識に喉を鳴らした。


 ごくり。


 荻窪の少し薄い唇から目が離せなくなりそうで、高梨は慌てて少しだけ視線を逸らした。

 このまま見つめていれば、たがが外れてしまいそうだ。彼のそれに、口を寄せたくなってしまう。


 荻窪の頬からつう、と滴る汗を見つけた高梨は、それに引き付けられるように手を伸ばした。ひんやりとした感触が指先に伝わる。


「先生、扇風機があってもやっぱり汗は出ますね。」


 それは高梨にとって、逃げ道を見つけたも同じだった。視界の隅で、荻窪の、喉仏が上下するのが見えた。彼もまた、暑さに絆されたのだろうか。


「少し、のぼせましたか? 冷たいお茶でも持ってきましょうか。」


 そう言って、高梨は台所へと足を向けた。

 縁側の廊下を抜けて居間へ、そしてたどり着いた台所で初めて、高梨はくず折れる。顔が熱い、暑さの熱いではないことは分かり切っていた。荻窪の身体に触れてしまったその手の感触を思い出して、思いのほか筋肉がついているのだな、と思った自分が恥ずかしくなるほどに。


 そして、暑さで理性が焼き切れてしまうかと思ったことが、羞恥を加速させる。荻窪の近くはいつも以上に白檀の香りが強く、それでいて押し付けてこない。こんなことになるなんて、と、両手で顔を覆いながら高梨は、お湯を沸かす準備を始めた。


 冷えたお茶を作るのは大変だ。

 幸い、荻窪家には「氷冷蔵庫」がある。荻窪は基本的に見えている部分が少ないから、背景がよく見えないのだが、この家といい、暮らしぶりといい、この台所といい――そもそもの暮らしの土台が高い。


 高梨が知っている荻窪の顔は、怪談作家という一面だけだ。編集長は「怪談作家」以外の顔を知っているようだが、それは教えてはもらえないだろう。


 沸騰したお湯を冷ますために、別の容器に移してからゆっくりと座って待つ。そうして、触ってみて少し熱いと感じるくらいになったら、ようやく急須にそれを注ぎ、じっくりと蒸らして、煎茶碗に注ぎ入れる。


 そうしているうちに気持ちも落ち着いてきたが、いまだに髪を触られた感触や、思わず掴まってしまった感触は残ったままだ。

 まいったな、高梨は台所の天井を仰いだ。隠し通すと決めたはずなのに、これでは隠し通せない。

 特にあんな風に接触事故があると、もう隠せなくなってしまう。

 気持ちが先に動いてしまいそうで、怖かった。

 これ以上、どうやって隠し通せばいいのだろう。視線からも熱が漏れ、心も行動すらも気持ちがあふれ出していく。


 隠し通すつもりが、いまにもあふれそうになってしまっているなんて。




 ――水底もまた、陽の透き間。

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