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第十三章 泥濘に沈む、浮世船

 す、と頬を撫でる風の気温が落ちてきた。麻の着物はいつの間にか姿を消して、木々の緑がやや落ち着いた色合いに変わる。烏賊釣り漁船の漁火が沖に出て、まるで海の上に浮かぶ蛍のようだ。


 艶やかに色づいていた季節は流れ、朝夕に底冷えのする空気が主役になるころ、夜にはガス(霧)がかかり、街灯のガスランプが淡く幻想的に揺らめいていた。


 だいぶ寒くなったな、と思いながら高梨は、路面電車の最終便を待つため電停に佇んでいた。昼間はまだ高い気温だが、朝晩はもうすっかり冷え込んできていた。ついこの前まで暑くて仕方がないと思っていた背広も、いまではすっかり丁度良いと思えるほどだ。


 ぼんやりと佇んでいると、路面電車が軋んだ音を立てて電停に滑りこんでくる。家に帰るのは正直あまり気が進まないが、今日は特に用事もなく帰る以外の選択肢がなかった。


 最近はよく荻窪の家に顔を出していたものの、あまり顔を出し過ぎても仕事の邪魔になる、と思っての遠慮もしなくはない。荻窪の「いつでも来てくれて構わないよ」という言葉はまるで魔法のようで、高梨はつい通ってしまう。あまり通い詰めたら迷惑になると分かっていても、止められなかった。ちびのたてる小さな音や、荻窪が書く筆音、時計のこちこちという音だけが響くあの家は居心地が良い。


 だけど、あまりに近づきすぎたら、荻窪の知りたくない過去まで知ってしまいそうで怖かった。荻窪本人が気が付いているのかどうかは分からないが、時折、手を止めて写真のない写真立てを見つめていることがある。その横顔はどこか切なく、思わず彼の着物の裾を掴んでしまいたくなるほどだ。

 なにかを言いかけて、飲み込む姿を何度も、何度も見てきた。そんなときの荻窪は、どこかへ行ってしまうのではないかと思うほど、消えてしまいそうな気配すら持ち合わせている。

 

 衣桁に掛けられた着物を躊躇いがちに、丁寧に手入れをしている姿も何度か見ていた。きっと、衣桁の着物の持ち主と、写真立ての人は同じなのだろう。だが、高梨にはそれを質問するほど勇気をまだ、持ち合わせていなかった。

 ましてや、編集者である自分が荻窪の私生活にそこまで踏み込んでもいいものか。それに以前も思わず踏み込んで、一線を引かれた経験もあるから、なおさら怖い。高梨の心の中ではいつも、手を伸ばすか伸ばさないか、そんな葛藤が渦巻いていた。


 路面電車に乗り込んで、窓の外に視線を向ければ沖のほうで漁火が見える。漁師が烏賊を釣っているのだろう。そういえば、前に食べた烏賊の塩辛が美味しかったことをふと、思い出した。




 ***




 家に着くと、父はおそらく仕事に出ているのだろう、静まり返った暗闇が待っていた。自分を出迎えてくれる白い猫もいなければ、低い声で「よく来たね」と迎えてくれる人もいない。暗く冷えた玄関がぽかりと口を開けて待っている、そんな空間が待ち受けていた。高梨の胸に湧き上がるのは、実家の誰かが「おかえり」と言ってくれる言葉ではない。あの白い猫と大きな体躯の落ち着いた低い声を持つ荻窪だけだ。


 母も顔を合わせれば、ご飯を食べなさいだの痩せただのと言い出してくるが、姿を見せなければとくになにかを言ってくることはなかった。眼の前に居なければ、いないのも同じ扱いだ。母の目には高梨が人形のように見えているのだろう。

 暗い玄関から続く闇に包まれた廊下、すっかりぬるくなって放置された風呂だけが高梨を待っているようだった。

 

 これでは弟のほうが期待もされて、家族としても認められているように思える。

 

 風呂に関しては、仕事についてからずっとそうだ。冷えたままの風呂、父に合わせて早く眠る母。幼いころはそれでも、少しは母がかわいがってくれていたのだろうか。ふと思いを馳せる。あれをかわいがってくれた、と呼んでもいいものだろうか。いまでこそ仕事帰りの高梨には無関心の母だが、幼いころに覚えている母は、どこか虚ろな目をした怖い人だ。

 高梨を見て、薄く笑い髪を撫でる。大きな瞳をぱちりと瞬けば、「お人形さんみたい、私によく似てかわいい子ね」と言っていた。しかし、次第に成長するにしたがって、母はだんだん冷たくなっていった気がする。

 

 きつい視線で旧高等学校の制服をにらみつけ、男の体格を持ちはじめた高梨に「なんで女の子じゃなかったのかしら」と吐き捨てた。そこから高梨は実家を離れることになったが、母はどこか虚ろな目を相変わらず高梨に向けて「顔だけは、私に似てきれいなのに」と愛でるようになっていた。

 高梨がそれを見て、ぞっとしたのはいうまでもない。そのころだろうか、幼馴染の幸代と結婚したらいい、と言い出したのは。高梨が旧高等学校へ通っているとき、そのとき幸代はまだ十歳くらいだっただろうか。母が無関心を装いながら、自分を監視していることはなんとなく気が付いていた。

 時折、自室に置いていたものが動いている、時折、押し入れに仕舞っていたものが落ちている。母は自分がいない間に、幸代以外の女性の影を探していたのだろう。それを知っていた高梨は、あえて自分のものを家に置くことを最小限に留めていた。あら捜しをしても、バレないように。

 だからこそ、母は無関心でいられる――高梨はそっと息を吐きだした。


 父の仕事を手伝わず、せっかくの大学にも行かず官僚になろうともしなかった自分への、無関心さはいまに始まったことではなかった。


 ──風呂の追い炊きだけでもしておくか。


 高梨は仕事で疲れている身体を引きずって、風呂の焚口へ向かう。ここの家族には放置されていても気にはならないが、温かい荻窪の家との対比が心に刺さった。どっと疲労感が増して、早く風呂に入って寝てしまおう、そう思う以外ない。


 風呂の温度を見ながら火を薪をくべて、その火をしばらく見つめていた。荻窪の家の石油ランプがぱちりと爆ぜる音に似た音が耳に届いて、高梨はかの家を恋しく思う。

 白猫のちびと無口な荻窪のあの空間は、この家から見ると幻想的でもあった。仄かに香る白檀の香りが、高梨の脳内に蘇る。白くてふわふわな毛並みを、指先が思い出す。

 低く響く声が、耳に熱く呼び起こされる。


 風呂が適温になったら火の始末をして、自室へ向かう。

 湿った匂いがする自室は、荻窪の家の白檀の香りとはまるで違った。この日当たりが悪く湿度の高い小さな部屋が、自分の個室だ。唯一文机があるだけの、何もない部屋だ。

 そこで着替えてから風呂に向かい、高梨は重たい息を吐き出した。


 ようやく風呂に浸かりながら、深く息を吐き出す。

 この家は相変わらず安堵できる場所がなさ過ぎて、いつも通りだ。

 母が好んで使う花のような匂いが強い石鹸しかない高梨の家は、強制的にみながその香りに包まれていた。

 あの、強面で「男児たるもの」が口癖の父でさえ。

 本当に滑稽だ。


 相変わらず薄っぺらい自分の身体を洗いながら、夏の日に触れてしまった荻窪の身体を思い出してしまう。あの人の身体は、しっとりとした筋肉に覆われていた。

 あの身体で、あの衣桁に掛かっている着物の持ち主を抱きしめたことがあるのだろうか。

 そうだとしたら、その体温はどんな感じなのだろう。腕の力は、背中に感じる指の感触は、どんなふうなのだろう。


 いつも万年筆しか握っている姿しか知らないけれど、なにをしたらあんなふうになるのだろう。


 あの手に縋り付きたくなる。思わず、乞いたくなる、──ここから救い出してほしいと。


 高梨は身体を洗い終え、石鹸を流すとふたたび湯船に身体を沈めた。

 そんな大それたことを、荻窪に言えるはずもない。

 ぱしゃりと、高梨が湯船に身体を沈めると小さく水の跳ねる音がする。

 もう少しで肋骨が浮き出て来るのではないかと思うほど、痩せた身体を隠すように手拭いで覆うと、風呂から上がった。


 着替えを済ませて、ひたひたと薄暗い廊下を歩く。二階へ向かう階段に足を掛けて、ゆっくりと登る。湿った匂いがする自室へ向かってから、詰めていた息を吐き出した。


 文机に向かって座り、石油ランプを灯した高梨は、その匂いを嗅いで少し安堵する。

 手拭いで髪の水分を丁寧に拭き取りながら、耳には荻窪の、万年筆を走らせる音が聞こえていた。

 それだけが心の癒やしだとでもいうように。

 髪を拭きながら、高梨は明日の日程を思い出す。


 そういえば明日は、あの若竹の原稿を取りに行く日だ。と気がついて、無意識に眉根に力が入った。

 次はどんな嫌がらせをしてくるのかと思うと、気が滅入る。むしろ、純粋な嫌がらせのほうがましなのではないか、と思うほど、若竹は執拗だ。

 手を握らされ、匂いを嗅がれ、時には卑猥な文字列のみを読まされ感想を求められる──。正直いってかなりきつい。

 あの手に握られた手拭いを思い出すだけで、未だに鳥肌が立つ。


 高梨は押し入れから布団を取り出して寝る準備をすると、冷たい布団の中に入って目を閉じた。疲れているからかあっという間に眠りに落ちたが、編集部の煎餅布団のほうがまだ人間味を感じる。

 ここでは熟睡など、できるはずもないけれど。




 ***



 

 高梨はいつも通りの時間にいつものように、電停に立っていた。身体からは実家で使われている「花の匂いがする石鹸」の香りが取り巻いている。匂いがきついのは今に始まったことではないが、この匂いで若竹のところに行くのはすごく──いやだ。

 風に晒されて少しは匂いが飛べばいいのに、と思うのにこの匂いは思いの外強くて、路面電車に乗り込んでも、職場に着いても取れる気配を見せなかった。


 ──銭湯に行ったほうが良かったか。


 もっと早くに今日が、若竹を訪問する日だと気がつけば良かった。

 デスクに座り、今日の予定を再確認しながら、高梨はもう一度自身の匂いを嗅いだ。花の匂いがふわふわと香っているままだ。今度から自分が使うための石鹸を買っておこう、そう決めてから立ち上がる。


「若竹さんのところに、原稿取りに行ってきます。」


「はぁい、行ってらっしゃい。あいつも少しは品が身についたか?」


 背中にぶつかってきたのはおそらく編集長の声だ。

 品が身に付いていればいいけど、一向につく気配がありません、と言い切ってしまいたい。


 高梨は足取りも重く、いつものように電停まで歩いていった。

 そういえば、若竹の手土産……、今日は何にしようか。

 目についたものを適当に買うか。

 手に取ったものははっか糖だ。これなら、変なことを言われなくても済むだろうか。

 いや、あの若竹なら、どんなことがあったとしても歪曲して受け取りそうだ。


 いつものように若竹が潜む下宿屋へ向かう。

 高梨は今度から純喫茶で打ち合わせしたいといつも切に思っているが、若竹が嫌がるから仕方がない。


 少しは銭湯に通えばいいものを。


 むせ返るほどの湿気た匂いが充満している下宿屋の玄関をくぐると、いつものように若竹の部屋へ向かう。襖越しに声をかければ、どたどたと足音が聞こえてすぐ、襖が開いた。


 いつもよりすえた臭いが漂ってくる。

 鼻をつまみたい、臭い。そうして思わず避けて廊下に視線を落としたときに、若竹の手に握られていたのはいつかの手拭いだった。

 あれは、見たくないものだ。


「若竹さん、これ、手土産です。──それから少しは清潔にしてくださいね。」


 高梨は眉根を寄せないように、できるだけ無表情に手土産を持ったその手を突き出した。


「こんにちは、高梨さん。いやぁ、つい夢中になっちゃって。」


 若竹が夢中になっているものがなんなのかは、知りたくないしどうでもいい。せめて人と会う前の日には銭湯に行って身体をきれいにしてほしいと思うのは、過ぎた願いなのだろうか。


「はっか糖じゃないですか。これ、まるで高梨さんみたいですよね。」


 にやりと口を歪めた若竹が袋の中からはっか糖を取り出して、口に含む。


「甘くて、後味が爽やかなんですよ。高梨さんみたいです、これを食べると高梨さんを食べているみたいですね。」


 もうひとつ、口に含んだ。

 残念ながらこの若竹、これから先も品格を身につけることなど到底無理だろう。

 高梨の中で、嫌悪感がみぞおちにぞわぞわと溜まっていく。

 あまりの醜悪な表現に、高梨は頭の片隅で聞こえていた荻窪の筆音さえ遠のいていくのを感じた。


「高梨さん、あと少しで書き終えるので、どうぞ、入ってお待ちください。」


 相変わらずの万年床には人形の汗染みと、いつにも増してすえた臭いが強烈で、高梨は「はい、ではお邪魔して」という気にもなれなかった。

 足のふみ場を探しながら、一歩また一歩と奥へと進む。たった四畳半の部屋の大きさで、奥に据えた文机まで、こんなに遠いと思ったことはない。


「あれ? 今日の高梨さんはいい匂いがしますね。まるでどこかのお嬢さんみたいな匂いだ。」


 若竹の嗅覚は、なぜかいつも鋭いところを突いてくる。この前は荻窪の白檀の匂いを嗅ぎつけた。


「ほら、花の匂いがしますよ。」


 近づいてきて、すんすん、と匂いを嗅がれる。ものすごく不快だ。「お嬢さん」と言われたことも、引っかかる。


「若竹さん、これは石鹸の匂いです。」


 そう訂正すれば、今度は別のほうへと考えが切り替わる。


「ああ、僕に会うから風呂に入ってきてくれたんですか?」


 若竹をそのままむしろに包んで、編集長へ突き返してやりたい。


「いいえ、違います。僕はいつも人と会う仕事をしているので、清潔を保っているだけです。」


 あんたと違ってな、という言葉は飲み込んだ。


「それにしてもいい匂いだなぁ。」


 若竹が高梨の肩を掴んでにじり寄る。ずい、と顔を近づけてきたと思ったら、頬に口が当たりそうになり──その瞬間、高梨は思わず立ち上がっていた。


「若竹さん、原稿が上がるまで、僕は廊下で待たせていただきます。」


 そういうことをされたくない、気持ち悪い、不快だ。──そして、吐きそうだ。

 高梨の瞳からは色が消えていた。無表情で若竹を見ると、そのまま廊下へと足早に、大股で出てきてしまう。

 廊下の壁にもたれ掛かり、吐きそうになるのを、ぐ、と堪えた。ざらりとした土壁に背中を預けて、高梨は眉間に皺を寄せる。


 どうも自分は、若竹にとってそういった目で見られているのだろうか。以前からそういった行為を多々されている気がする。それとも男だから、そうしてもいいと思っているのか。


 高梨は編集長が望むように、若竹に品格なんてものが芽生えるとは思いもしていない。

 生まれるのであれば、とっくに芽生えているだろう。そして、あの性癖。

 彼はもしかして、生きてさえいれば、どちらでも良いのだろうか。


 握りしめた両手が震える。

 あと少しで、危うく若竹の口が頬に着くところだったことも、恐怖を感じた。


 あの静寂の中で、ただひたすらに万年筆で執筆している彼の人の背中を思い出す。筆音がまるで流れるように柔らかく、穏やかな音だ。

 ここで襖越しにまで聞こえてくるような、ごりごりという音ではなくて。

 自分から漂う花の石鹸の香りさえ、忌々しい。


 ──会いたい。


 白檀の香りが、記憶の中から蘇る。

 ここはまるで流れが止まったままの汚水のようで、息ができない。

 口を開ければあのすえた匂いがなだれ込んできそうで、口すら開きたくない。肩に残る若竹の指の感触が気持ち悪い。まるで針を刺されたのかと思うほどの食い込みに、高梨は何度も肩を手のひらで拭った。


 胸元に残る荻窪のあの指の力強さだけがいまは、高梨の支えですらあった。


 あの無骨な手でだれを抱きしめたのか、想像するのさえ苦しいのに、いまはその手が恋しく感じてしまう。その手が自分を、折れるほど強く抱きしめてくれたら、どんなに良いか。

 こんなに乞うている自分の手を、引き寄せてくれたならどれほど──。


 だがそれは、けして口にできない願望だということを知っている。荻窪にはおそらく想う人がいるからだ。それはもう会えない人なのかもしれない。大切にしているあの、衣桁の着物が物語るそれは、一部しか見えないけれど。


 荻窪にとってどれほど大切なのかを示していることは、よく分かる。その一部にすらなれない自分と比較してしまう、情けなさに反吐が出そうだ。

 それなのに、荻窪を求めてしまう自分もいる。

 組んだ指先から、あの花の匂いが鼻を突く。 救いを求める祈りの中にさえ、若竹に嘲笑われた匂いが混じる。それが耐えがたく、高梨はさらに強く拳を握りしめた。




 ──お願いだから。その手で引き上げて、息をさせて。




 高梨はまるで祈りでも捧げるように、両手を組んだ。




 ──泥濘に沈む、浮世船。

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