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第十四章 沈み浮き夜の、泥と浮舟

 昼間の暑さはどこへ姿を消したのか、夕方にはひんやりとした空気が漂い始める。ガス(霧)がかかり見通しも良くなくなる上、ガスのせいで湿度も上がって不快感が増す。

 潮の香りを含んだガスが、目の前を覆うほど濃く、道を隠してしまうようだ。




 高梨はあれから二時間ほど廊下で若竹の原稿の完成を待って、ようやく受け取ることができて帰路につくことができた。

 若竹の存在そのものがどうしても、高梨にとっては不快感そのものだ。愛想よく対応できるはずもなく、淡々と原稿をもらってから「では次は郵送でもかまいませんよ」と、突きつけた。

 むしろ、郵送のほうが高梨としてはかなり助かる。しかし、若竹は「次も高梨さん来てくださいよ」と甘えたように言い放った。

 甘えられても心が動くはずもなく、ますます冷徹な仮面に切り替わっていく。

 若竹を相手にしていると、優しさというものがすべて食い物にされているような錯覚に陥るからだ。


「あのようなことをされては困ります。編集長に直談判してもいいんですよ。」


 若竹の担当を変えてくれということが、簡単ではないを高梨は分かっている。だが、ここで軽く脅し程度になれば、とも思って突き放した。


「高梨さんは僕にとって、インスピレーションの女神なんですよ!」


 懇願されるように言われても、高梨は「女神」ではない。そもそも、若竹のいう女神とは、官能の女神のことなのだろう。だとしたら、自分は若竹の頭の中ではいつも、あれが書いていた文章のようなことをしている、ということか。


「僕は高梨さんのことを考えるだけで、すべての官能を刺激されるんです!」

 

 そんなインスピレーションなど、はいて捨ててほしい。そもそもが若竹の脳内にですら、存在したくはなかった。すべての官能を刺激される、という意味を知りたくはない。そんなことはどうでもいい。


 ──極めて不快だ。


 じろりと不快感を露にすると、高梨は大げさにため息をついてみせた。いままでのことを思い出して、改めて鳥肌が立つ。


「若竹さんは、僕のような編集者とより、もっと遊びが得意な編集者のほうが向いていますね。」


 突き放す。


「高梨さん、僕は、僕の書く女性は全部、高梨さんなんです!」


 若竹の切羽詰まったような奇怪な告白に、高梨の思考がぴたりと止まる。


「は?」


 自分でも思わぬほど冷たく低い声が飛び出した。

 なにを言っているんだ、とでも言うように高梨が若竹を凝視し、そのまま不快感を隠すことなく眉根を寄せる。


「若竹さん、あなたはもう少し世間を勉強すべきです、部屋に篭っていないで。次の打ち合わせは、近くの純喫茶でやりましょう。では、また連絡します。」


 高梨は早口でまくし立てると、そのまま下宿屋を後にした。


 みぞおちに溜まる気持ち悪さが限界を迎え、高梨は口元を手のひらで抑える。道端で吐くわけにはいかない。せめて編集部まで戻らなければ、高梨はなけなしの理性で繋ぎ止め、なんとか編集部まで戻ってきた。


 便所に寄って、今度こそ耐えきれずに嘔吐する。

 若竹に言われたこと、されたことがすべて、吐き出された気分だ。

 口をすすぎ、手を洗い、ついでに水で顔を洗う。


 ようやく少しはすっきりした気持ちになって、編集部へ向かった。

 若竹の原稿を読むのは正直、また吐きそうな気がする。それでも、仕事だからと自身を鼓舞するしかない。


 若竹の直接的な官能小説を読まながら、高梨は先ほどの言葉を思い出す。


『高梨さん、僕は、僕の書く女性は全部、高梨さんなんです!』


 つまりこの話の中で着物の肩を脱がされているのも自分、背中をむき出しにされているこの描写も自分というわけだ。

 推敲しながらも高梨は、どんどん感情が消えていくのを感じていた。ひとつ若竹の文字を赤ペンを使って縦線で消す。その横に書き込む。また読む。そして、また。その作業が繰り返されるたび、高梨はどんどん気持ちが死んで行ってしまうような気分になった。


 ここまで自分を対象にした者は、若竹しかいない。しかもそれはどう考えても、歪んでいる。

 若竹の欲情を突き付けられて、平気な顔でいられるほど、高梨は物分りの良い大人ではなかった。「インスピレーション」という言葉がこんなに薄汚く使われなんて、想像していなかった高梨は、どうそれを処理していいのか悩んでしまう。

 物語が浮かばなくて、畳に寝転んでいた荻窪を思い出せば、彼はいつも濃紺色の着物に目を向けていた。荻窪にとっては、それがインスピレーションの源ということなのか。くるりと、高梨が使っていた赤ペンを手のひらの中で回した。


 推敲しすぎれば若竹が書いた話ではなくなるし、しなければ下品極まりない作品になる。このまま編集長に丸投げしてやろうか、と呪いながら高梨は作業に没頭した。


 官能小説を読んでいるはずなのに、まるでそそられない。そもそもが高梨の欲が薄いせいもあるが、直接的で想像力を掻き立てられないというのも、確実にある。


 しかし、高梨の感性と若竹の感性は真逆だ。

 無心にならなければ推敲すらできないこの苦行とも言える仕事は、初めてではないだろうか。

 あんな気持ちの悪いことを言われたあとでのこの作業は、正真正銘ある意味拷問だ。

 げっそりとした高梨が、若竹の原稿を推敲し終え茶封筒へしまうのと同時に、編集長が部署へと顔を出した。


「お、高梨か。どうだ? 若竹は。」


 お気楽な声がかかってくる。つい、と声がした方向を見上げれば、そこには編集長がいつものように、へらりと笑って立っていた。そののんきな姿に思わず高梨は目に力が入りそうになる。


「彼は……、正直に答えるべきですか? それとも言葉を包んだほうがいいでしょうか?」


 いつにない高梨の抑揚のない声調に、編集長が眉間に皺を寄せた。抑揚がなくとも伝わってくる高梨のかすかな怒りと、もうひとつの感情。編集長はそこに触れないように、あまり顔を上げない高梨の隠された瞳を覗き込んだ。


「よほど合わないみたいだなぁ。」


「そうですね、合わないようです。」


 高梨は若竹のときの余韻を引きずっているのか、いつもよりもずっと低い声調のまま、編集長に言葉を返す。

 編集長が高梨の手元を覗き込めば、そこには赤い方が多いのでは、と思うほどの推敲量だ。


「少しは若竹も、品が出るかと思ったんだがな。」


 やれやれ、とでも言うように編集長は笑いを漏らす。高梨は、笑えない。笑えるはずがない。

 追い詰められてもはや、笑えないところまで来ているというのに。


「もう少し、耐えててくれ、すまないな。」


 もう少ししたら若竹と離れることができるということか、それとも何か、若竹の作風が変わるとでもいうのだろうか。


「……はい。」


 高梨はこれ以上、なにも言えなかった。

 ただ言葉を返すことしかできない。


 路面電車の最終が出てしまう前に、高梨は若竹の推敲を終わらせて、仕事を上がる。

 高梨はみけに会いに行こうか、それとも荻窪の家に行こうか、どちらにしようかと考えていた。


 電停でいつものように路面電車を待つ。

 香世の店は昼頃から夜遅くまで開いているから、今から行っても開いているはずだ。

 高梨はぼんやりと考えていた。

 軋んだ音をたてて路面電車が電停に滑り込み、高梨はそれに乗り込んだ、いつものように。


 そして、いつもの電停で降りて、香世の店へと足を向ける。今日はどうしても、真っ直ぐには帰りたくなかった。むしろ、家に帰ることを拒絶している自分がいる。

 香世の店は深夜で閉まるが、それまでは居てもいいだろうか。

 とぼとぼと歩きながら、高梨は足元を見つめた。

 いろいろなものが削り取られて、自分の心はいま、どれくらい残っているのだろう。


 空気の抜けた紙風船のようにしぼんで、このまま膨らまなくなるのだろうか。

 香世の店が明るく、まるで道標のように見えて、高梨はそこに吸い込まれるかのように入り口を開けた。


「あら、高梨さんじゃないか! いらっしゃい。なにかご注文は?」


 香世の元気な声に、少し心が緩む。


「あの、こんばんは。香世さんのお勧めをください。──みけはもう寝ちゃいましたか?」


 高梨がおずおずと店内を見回すと、常連客が数人いるだけで、みけの姿はなかった。

 香世は申し訳なさそうに首を振って「あの子ね、夕飯食べたら奥に行っちゃうもんだからね」と教えてくれる。


 ──みけには会えなかったな。


 だが、いまの高梨には香世の、「いらっしゃい」という言葉すらも救いだった。

 カウンターに座ると、高梨はぐったりと頬杖を付いた。


「お疲れだねぇ、お茶でも飲みな。」


 す、と差し出してくれたお茶は、温かくて張り詰めていた心が解けていく。


「ありがとうございます。」


 高梨はそのお茶をひと口飲むと、荻窪と似たような、それでいて少し違う味が広がった。きっとこれは、香世が淹れるお茶の味だ。

 少しずつ違うとしても、どちらも優しい味には違いない。


「最近は忙しいのかい?」


 香世は手を止めないまま、高梨にそう問いかける。

 料理を作る手際は流石、といったところだ。


「ええ、まあ。暇な方が珍しいですよ。」


 香世が、「そうかい」と返事を返したのとほぼ同時に、入り口の扉が開いた。


「香世さん、こんばんは。悪いんだが、食べるものを出してくれないかい?」


 のそりと現れたのは、荻窪だった。いつものように暗茶の着物に羽織を引っ掛けて、大柄な身体を屈めて入ってくる。


「おや、高梨くんじゃないか。」


 切れ長の目がすぐに高梨を見つけ、緩く弧を描いた。


「こんばんは、先生。」


 いつもより元気のない声が出てしまう。いや、いまは元気のある声を出せそうにない。


「隣に座ってもいいかい?」


 荻窪はなにも言わず隣に座り「香世さん、私にもお茶を淹れてくれないか?」と頼んでいた。


「最近、いつもお茶を淹れるのは自分でね。たまには違う人の淹れた味が飲みたいんだ。」


 しばらく顔を出していなかったからだろうか。

 荻窪が冗談めかして高梨を見やる。

 ただこれだけのことなのに、高梨の肺には一気に新鮮な空気が流れ込んでくるような、そんな気がした。


「高梨さん、この先生はねぇ、最近高梨くんが来てくれないんだってずっとしょげてたんだよ! 面倒くさいったらありゃしない。」


 香世はそう言いながら、お茶を淹れた湯呑みを荻窪の前に差し出した。


「香世さん、それは秘密にしておくれと頼んでいただろう?」


 それにちびがまた暴れだしてしまうし……、と気恥ずかしそうに付け加える。

 ただそれだけのことなのに、抱えていた心の重みが軽くなっていく気がした。


「最近忙しかったので、お邪魔して執筆の邪魔になるのは避けたかったんです。」


 高梨は自然に笑顔が漏れ、荻窪の温かさに心が緩んでいく。このまま荻窪の家に行けたらなと、思うのと同時に、手が勝手に彼の着物の袖を掴んだ。高梨のその手はかすかに震えていて、自分でも情けないと思ってしまう。


「きみさえよかったらちびに、会いに来るかい?」


 荻窪はその手に一瞬視線を落としたが、それには触れなかった。その代わり、「ちびに、会いにおいで」という助け舟をくれる。


「ご迷惑でなかったら……お邪魔したいです。」


 いつもなら、辞退していたはずの誘いが、今日は断れない。今日の高梨は特別に弱ってしまっていたから、荻窪の温かさに甘えてしまいたかった。


「私はいつでも構わないよ。なんなら、いつでも好きなときに来たらいい。」


 そう言って荻窪は、何気なくお茶を飲む。

 離そうと思っていた袖から手が離せない、それどころかすがりそうになりたくなるほど、力が入ってしまう。


「そんなこと言われたら、先生の邪魔になるほど行きますよ。」


 高梨はわざと明るく言うと、さり気なく荻窪の袖から手を離した。なんてこの人はこんなに温かいことを、なんてことなく言うのだろう。そっと離した手は、余韻を残したまままだ震えてる。


「ほら、ご飯食べてさ、早くちびのとこ行ってやんな。高梨さんもさ、いいんだよ遠慮なんかしなくって。先生にはね、人間の話し相手が必要なんだからさ。」


 香世が荻窪をじろりと見やる。その視線はどこか、なにかを言いたげのように見えるが、高梨はあえて触れなかった。触れていい空気ではないからだ。


「香世さん、相変わらずだなぁ。」


 荻窪は昔馴染みの香世には見抜かれている、とでも言いたげに小さく笑った。


「そりゃそうだろうさ。いっつも家の中に篭りっきりでさ、たまには高梨さんみたいに外に出て走り回ってみたらどうだい?」


 香世の言葉に、高梨は目を丸くする。荻窪が走り回る姿なんて、とても想像付かないからだ。


「想像つかないだろ? 先生はねぇ、若い頃運動も、勉強もできたんだよ、こう見えて。」


 あっはっは、と笑い声をあげると、香世は高梨と荻窪の前に出来たての定食を置く。


「それ食べてさ、ちびに、会いに行ってやんな。」


 そう言って、香世は少し離れたところで作業をし始めた。

 まるで嵐のように話す人だな、と高梨は思いながらも、香世の作る定食もまた「美味しく」感じた。


「……香世さんは私が十代の頃からの友人でね。私がやんちゃだった頃から知っているから、なかなか──勝てないんだ。」


 荻窪が困ったように笑う。きみにまでバラされるとはな、と決まり悪そうにつぶやいた。

 高梨としては香世の口からもたらされる過去の荻窪の一面を知ることができて、親しみを感じる。

 それと同時に、荻窪が抱える孤独は、高梨のそれとはまるで質が違うことに気が付かされた。荻窪は孤独を好むけれど、彼を気に掛ける人はたくさんいる。

 高梨はいつも孤独だけど、自分を気に掛ける人はほとんどいない。

 気に掛ける人はたいてい、自身の欲望に忠実な人間が付きまとうようにしてくるのが常だ。


「香世さん、ごちそうさま。お代はここに置いていくよ。」


 高梨も慌てて財布を出そうとして、その手は荻窪に止められた。


「たまには、こういうのもいいと思わないかい?」


 そう言って背中を向ける。


「はいよ、また来ておくれ。ああ、高梨さんもさ、遠慮なく先生の世話になりな、本当は先生、世話好きなんだから。」


 高梨はその言葉を聞いて、荻窪の背中に目を向けた。そういえばいつも、寝落ちたときには布団を掛けてくれたり、朝ご飯を用意していたりしていた。ちびのことも随分世話をしているし、香世の言葉で納得がいく。


「先生、そうだったんですか?」


 くすりと、高梨が笑った。荻窪は「香世さんがそう思っているだけだよ」と言いつつも、定食屋の扉を開けて高梨を待っている。

 その行動こそがやはり、雄弁だ。


「香世さん、美味しくいただきました。また来ますね。」


 高梨は香世にそう声を声をかけると、奥から「いつでもおいで、ありがとうね」と声が返ってくる。荻窪はそれを聞き終えると、そっと扉を閉じていった。

 その一連の動作には、香世の言う「世話焼き」の本質が見え隠れしている。


「ちびに、会いに行こうかね。」


 荻窪は高梨にそう声をかけると、ゆっくりと歩き出した。ガスが濃くかかる中を、迷うことなくゆっくりと。高梨はその背中を追いかけるように、付いていく。


 置いていかれる心配はしなかった。荻窪の歩く速度はゆったりとしていて、足元に履いている下駄の音だけがからころと響かせている。


 高梨は荻窪よりも少し後ろを歩き、その背中を見つめた。

 自分よりも四寸ほどだろうか、背の高い荻窪を見上げる。広い肩幅に背中を揺らし、地面にしっかりと足をつけて歩いている。亡霊だなんだと言われながら、この人は現実に存在する人だ。

 それでいて、香世や編集長のように気にかけてくれる人が周りにいながらも、怪談を書き孤独を選んでいる人。


 そんな荻窪のもうひとつの顔が「世話焼き」。

 高梨は思い出すとまた笑った。


「なにがおかしいんだい? ──ああ、最近ちびがまたきみを恋しがっていてね。今日は帰れないかもしれないよ。」


 荻窪は笑い声が聞こえたのか振り返ると、高梨にそう告げる。

 それは、泊まっていきなさいという、高梨にとっては優しすぎる免罪符のようだ。


「そんなこと言ったら、ほんとに泊まってしまいますよ?」


 高梨は跳ね上がりそうな鼓動を抑えながら、小さく言葉にしてから荻窪を見つめた。


「いつものことだろう?」


 原稿を待っている間、よく朝まで眠ってしまう高梨を思い出したかのように荻窪が低く、くつくつと笑う。


 高梨はいつの間にか花の石鹸の代わりに、白檀の香りが漂っていることに気がついた。


「先生がご迷惑でなければ、そうさせてください。」


 頬が熱くなる。

 白檀の香りが心を落ち着かせ、また、跳ね上がらせる。


「構わないよ。」


 静かな声に、高梨はほっと胸を撫で下ろした。




 ──沈み浮き夜の、泥と浮舟。

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