第十五章 背面の想い、正面の仮面
青々としていた葉が茶色や黄色に変わるころ、空気が乾燥し、からっ風が吹くようになる。地面に落ちた枯葉を掬い上げ、空まで連れて行っては、そのまま落とす残酷な風だ。何度も何度も舞いあげては落とし、枯葉は徐々に粉々に砕けて行って、最後はその姿さえ留めていない。
秋が深まるころ、近所の幸代が高梨家を訪れていた。本州に住む親類から送られてきたというさつまいもを、幸代の母とともに両手に抱えて。ちょうど帰宅した高梨は玄関で鉢合わせし、幸代の母は「あらあらまぁまぁ」などと言いながら、先に帰っていく。
幸代を残していくという意図は見え透いていて、高梨は心の中で「またか」とため息をついた。こういったことはよくあることだが、高梨としては相変わらず受け入れ難い。
「駆流さん、さっちゃんのさつまいもを持って差し上げてくださいな。」
母の言葉に仕方なく頷くと、高梨は幸代が両手に抱えているさつまいもを受け取った。
ずしりと重く、よく二人でこの量を運んできたな、と驚いてしまう。いったいどれくらい持ってきたのだろうと、何度か腕を揺すってみた。
ふわりと、土の匂いが漂ってきて懐かしさを覚える。そういえば、荻窪家の庭も土の匂いがしていたな、と思い出した。
「駆流お兄ちゃん、ありがとう。」
山吹色の銘仙の着物を着た幸代が、嬉しそうに高梨を見上げる。会えたの久しぶりだね、と言っていたが、それほど顔を合わせていなかっただろうか、と高梨は記憶を探したが見つからなかった。
「せっかくだし、お兄ちゃんの職場のみなさんにもこれ、おすそ分けで持って行ってくれたら嬉しいな。」
そう言って、幸代の母が持ってきた方のさつまいもが入った風呂敷を差し出してくる。職場の人たちに、そう言われて真っ先に思い浮かぶのはやはり荻窪だ。めったに食べられないさつまいもを、荻窪に持って行ってあげたい、そんな気持ちが湧き上がる。
「ありがとう、さっちゃん。明日、持っていくよ。」
高梨はそう言うと、にこりと笑った。玄関から家の中にあがり、台所でさつまいもを下ろしていく。母は幸代を家の中に招き入れると、高梨にも「あなたは早くお風呂にでも入って、顔を出しなさいな」と告げる。風呂に入ってから、というあえての逃げ道を塞ぐやり方に、高梨は重く息を吐いた。
今日はどうやら長時間の拘束を余儀なくされそうだ。高梨は陰鬱とした気持ちになりながら、自室へと向かう。いつものように背広を脱いで着物に着替える。手に取ったのは、藍染の着物だ。この前のように「お揃いみたいね」などと言われないように、注意を払う。
以前だったらそこまで息苦しいと感じていなかったこの家の空気が、荻窪と知り合ってからはとてつもなく重い。すべての期待に答えなかった自分への、父からの過度な諦念による冷たい視線、母からの「常人の幸せ」というものの押し付け。幸代からの「初恋の人」という視線すらも高梨にとっては、息苦しい。
この、「自分が自分らしく在りたい」と願うことすら、この家では叶わない。
みんなが同じ方向を向いている中で、高梨は自分ひとり違う方向を向いていることは分かっていた。それでいて、あえて直すつもりがないことも。
自室の中はいつものように文机しか見当たらない、簡素な部屋だ。この家に置いておくものなど、なにもない。高梨は好きだった本も最近買った本も、読み終わったらすぐに古本屋に売っていたからだ。それらをなくせば、残るものは背広といつも着ている着物と寝間着。そして、押し入れの奥底に隠している白檀の石鹸のみだ。
どうせ母がまた、自分が不在だったことをいいことにあさっていたのだろう。文机の引き出しには、紙の一枚すら入れていない。大事なものは全部、職場のデスクに仕舞ってある。小さいころから見てきた母のことだ。それくらいはするだろう、と簡単に予測できた。だから高梨は、本などには未練を残さないことにしている。
風呂に向かう途中の薄暗い廊下で、台所から飛び出してきた幸代にまたしても捕まった。
頬を軽く染めて見上げてくる幸代は、華やかな面立ちをしているわけではないが、清楚でかわいらしいとは思う。だが、それだけだ。
「お兄ちゃん、最近忙しそうだから、これ。」
そう言って差し出されたそれは、「はっか糖」。若竹を思い出して高梨はみぞおちが重くなる。高梨は幸代の手をゆったりと拒絶するように、手のひらで押し返した。
「ごめん、さっちゃん。僕はそれ、苦手なんだ。」
あの若竹を思い出して気持ち悪くなった高梨は、青ざめてしまったであろう自分の顔を見られることない廊下で良かったと安堵する。手ぬぐいの中に隠し持っていた白檀の石鹸を、握りしめた。先日、高梨が見つけてひとつ購入した、宝物のようなものだ。
これがあるだけでも、気持ちはだいぶ違う。
「そう、だったんだ。ごめんね。」
幸代は素直にその手を引っ込めると、無垢な笑顔を向けてきた。
「ゆっくり疲れを落としてね。」
そう言って台所へと戻っていく。高梨はそれを見送ると、この家に帰ってきてからの何度かになる重いため息を吐いた。
父が仕事でいない時期は、まだ楽だ。母だけで済むから。幸代が来ていたとしてもまだ、いいほうだ。
母はいつものことながら、母によく似た自分の容姿を見つめては、褒める。「常の幸せ」という言葉で結婚を押し付けようとしてくるが、父よりも躱すのは楽だ。
母に対しては、人形のように笑っていれば、機嫌がいいから――楽だ。
風呂の脱衣所で着物を脱いで、手ぬぐいに包んでおいた白檀の石鹸を取り出した。この香りだけで落ち着くなんて、自分も若竹のことを言えないのかもしれない。高梨はそっとそれに触れた後、濡れないようにまた手ぬぐいの中にしまい込んだ。
これは、使えないから。父ですら母が好んで買っているあの花の香りがする石鹸を使っているのだから、自分だけが違うものを使っていると分かったら、なにをされるか分からない。この石鹸を捨てられることだけは避けたかった。
高梨は洗い場で自分の身体をゆっくりと洗う。手ぬぐいに石鹸を擦り付け、泡を立ててから身体を洗っていくその行為は、いつも以上に丁寧だ。外の汚れを落とすという行為以外に、いまは耐えるしかないと堪えているようでもあった。
花の匂いに包まれていく自分が、正直に言ってしまえばいやだ。「お嬢さん」などと呼ばれる自分がいやだ。
若竹のように隠しもしない欲望をぶつけられることが、なによりもしんどい。
自分はそんなに、女性のように見えるのだろうか。それとも、そういった対象にされやすいのだろうか。ぼやけた鏡を覗き込む。容姿は確かに母譲りだ。
母もそれはよく口にする。「駆流さんだけは私の容姿を受け継いでくれましたね」と、その時だけはとても嬉しそうに。
高梨は自分の「男」に対して、よく分からない気持ちが湧き上がっていた。だれにきけばそれは解消されるのかなんて、分からない。ただ、考えるしかない。
「先生は、僕が男だって知っているんだよな?」
湯船に浸かって、ふと湧き上がる疑問に、小首を傾げてしまう。いや、もともと先生は知っている上でのああいった感じなのだろうとは思うのだけど。若竹の件があるから、つい疑ってしまいそうになる。
それでも、荻窪の中で自分はどういった立ち位置にいるのか、気になってしまう自分がいた。優しいのは「世話焼き」だからなのだとは思う。
ちびに対しても優しいし、もしかすれば、自分はちびと同じ立ち位置にいるのかもしれない。そう思い至って、高梨は力なく笑った。
もともと、心の中にだれか、想い人がいることには気が付いていたけれど、まさかちびと同じだと思われているのか。
甘えていいというのも、そういう意味で言っているとしたら、複雑だ。
のぼせる前に上がろうとして立ち上がれば、疲労が溜まっているのか一瞬めまいが襲った。湯船に手をついて、めまいが落ち着くのを待ってから、足を進める。
疲れているのかもしれない。そうは思うものの、どこにいても安らぐことができない高梨にとって、職場しか息抜きの場所はなく自分でも自分を追いつめているとは、気が付いていなかった。
着ていた着物を身につけて、一度自室へと戻る。髪が乾くまでしっかりと水気をふき取りたかったが、下階で母と幸代が待っていることを分かっていた高梨は、ある程度ふき取ってから、なにか言われる前に居間へと向かった。
「駆流さん、遅かったですね。幸代さんが夕飯のお手伝いをしてくださったのよ。」
母の幸代を褒める儀式が始まった。いただいたさつまいもで振舞ってくれたのだろう手料理は、確かに湯気が上がっていて、美味しそうな色身を見せている。だが高梨には、いつも荻窪が作ってくれるあのそっけない粥のほうが、ずっと美味しい匂いがしていたと思った。
うつむいた高梨の髪から、水滴が落ちてくる。やっぱりまだ拭き取れていなかったか、と手に持っていた手ぬぐいで髪を押さえると、母がそれを見てやや眉をしかめる。
「髪の毛をきちんと乾かさないと、傷んでしまうでしょう?」
母がそう、呆れたように高梨をたしなめた。
急げと言ったり、きちんとしてこいと言ったり、厄介だな、と思いながら髪を拭く。髪を拭くごとに香ってくるこの花の香りは気分を悪くしていく理由のひとつだ。
「すみません、母さん。」
高梨は静かに謝罪する。幸代はそんな他人行儀な二人を見ながら、そわそわしてみせるが、すぐに話題を切り替えようと高梨の母に声を掛けた。
「おばさま、お夕飯をいただきましょう?」
助け船のつもりだったのだろう。高梨は幸代をちらりと見やると、気が付かれないようにそっと息を吐いた。それすらも重荷としか思えない。
食事を終えたらきっと、家まで送っておあげなさい、という母の言葉が来るのだろう。
高梨はいつものように、家の食事はまるで砂を噛むようだと思う。
食事が無味になると、食欲は落ちる。噛むものすべてが同じ味というよりも、食べ物ではないなにかを咀嚼しているように感じるからだ。
これを食べてみて、あれを食べてみて、と差し出されるおかずの山に、高梨は閉口した。取り皿に盛られたおかずは、大抵は幸代が作ったものなのだろう。
言外に「未来のお嫁さんの手料理が上手で良かったですね」という、母の心が透けて見えた。それと同時に、いつものあの胡乱な瞳。
「お兄ちゃん、美味しいかな?」
幸代がおずおずと高梨を見る。
味が分からないとは言えないままに、高梨は曖昧に頷いてみせた。
どれが美味しかったか、また聞かれるのだろうか。
高梨は母が取り皿に乗せた料理の中から、どれが印象に残ったかを思い出そうとしていた。
「あなたは相変わらず食が細いのねぇ。もっと食べないと痩せてしまうでしょう?」
母の言葉が高梨に当たる。それが嫌味でないことは分かっているからこそ、それ以上は何も言えなかった。たとえ、振り返って母を見れば虚ろな眼差しをしているのが分かっていようとも。
なんとか食事を終えて、あとは幸代を家まで送るだけ。高梨はそう思って、居間の卓袱台に向かって座っていた。
まだ完全には乾き切っていない髪を、持ってきていた手ぬぐいで改めて拭く。
何度か荻窪の手が触れた髪を、猫の毛のように柔らかいと褒めてくれた髪を、丁寧に。
「お兄ちゃん、髪を拭くの、とても丁寧にやるんだね。」
幸代がお茶を出してくれながら、高梨の斜向かいに座る。その丁寧な仕草に目を向けながら、幸代は小さく笑った。
「私の髪の毛より、お兄ちゃんのほうがきれいみたい。」
す、と華奢で白い手を伸ばされて、無意識に避けてしまう。
幸代が戸惑った表情を浮かべたことには気がついたが、言葉が出てこなかった。
「あ、ごめんね。」
避けられたことに気がついた幸代が、少しだけ悲しそうな笑顔を浮かべて手をしまう。
高梨も無意識だとはいえ、身体が勝手に避けてしまったことに驚きを隠せない。それほど、荻窪が触れた部分には、触れてほしくないということなのだろうか。あの大きくて無骨な手の感触を思い出す。
「いや……。」
居間の壁に掛けられている時計を見た高梨が、「遅くなる前に送っていくよ」と幸代に声をかけた。
「そうして差し上げて、駆流さん。」
台所から戻ってきた母が、少し嬉しそうな声で高梨にそう告げる。自ら進んで送るだなんて、と喜んでいそうな声だ。
高梨は一度自室に戻って羽織を肩に引っ掛けてから、玄関へ向かう。その途中、幸代がいる居間に声をかけて、下駄を履いた。
「お兄ちゃん、いつもありがとう。」
居間から出てきた幸代は、小走りに玄関まで歩いてくると、下駄を履いてから高梨を見上げる。
「それじゃ、さっちゃん、またいらしてね。」
母が幸代に笑いかけた。玄関の片隅には、お裾分けのさつまいもが鎮座していた。あれは明日、荻窪に持っていこう。
それだけが、いまの高梨にとっての楽しみだった。
「ありがとうございました、おばさま。おやすみなさい。」
幸代が母に挨拶をし終えたのを確認してから、高梨は玄関から出ていく。その後を追って幸代も出てきて、高梨はゆっくりと歩き出した。
「お兄ちゃん、道が暗いから……、手を繋いでもいいかな?」
おずおずと差し出されたその手を見て、高梨は少し考える。どうしようか、手を繋ぐそのことに嫌悪感があるわけではないが、若竹のことを思い出してしまって頷けそうになかった。
「これを掴んでいいよ。」
高梨が差し出したのは、羽織の袖だ。いまは肌に触られることへの抵抗が強い。それは幸代も例外ではなかった。
「……、ありがとう。」
きゅ、と掴まれた感触がして、高梨はそれを確認した後、また歩き出す。
「お兄ちゃん、お仕事忙しいの? 最近全然会わなくなっちゃって。」
からころからころと下駄の音をたてながら、幸代が付いてくる。
「忙しいよ。担当も増えたしね。」
高梨がそう答えると、幸代は前と同じようなことを言い出した。
「お休みはもらえないの?」
ぐ、と袖が引っ張られる。
つられて振り返ると、幸代が悲しそうな表情で高梨を見つめていた。
「お友達は、みんな異性の方とお出かけしているの、私もしたいと思って。」
それは遠回しに自分も幸代と出かけてほしい、と言われているのか。異性の方と濁した言い方をしているが、それはおそらく、婚約者と出かけているのだろう。
「冬になれば、弟が帰ってくるから、その時、遊びに連れて行ってもらうといいよ。」
高梨にとって、それはできるだけ遠回しの断りの文句だ。自分にはその気はないと、告げているつもりだが、遠回り過ぎて伝わらない。
だが、はっきり言ってしまえば、両親にも即座に伝わるだろう。
──面倒だな。
高梨は、今日は月しか出ていない夜空を見上げた。
幸代の家まで三軒分、ものの数分で着く距離を幸代の速度に合わせてゆっくりと歩く。
「さっちゃん、着いたよ。」
高梨が足を止めると、羽織の袖も途端に軽くなった。
「送ってくれてありがとう、お兄ちゃん。」
いつもならすぐに家に入る幸代が、今日はしばらく玄関先に佇んでいる。なかなか家に入ろうとしない幸代を不思議に思っていると、小さいけれど意志のこもった声で幸代が告げた。
「私、駆流お兄ちゃんとお出かけしたいの。」
無理だ。
言葉よりも先に、心がそう答えた。
幸代を見つめる高梨の視線は、静かな凪のようだ。
その場にいるのに、その人を見ていない、そんな穏やかさを保ったまま。
「さっちゃん、僕はね、いまの仕事が好きなんだ。」
そう言って、背中を向ける。
それは幸代に伝わっただろうか、断りの文句だということが。
高梨は少しずつ、自分が被り続けている仮面を手放していることに気がついていなかった。
若竹を拒絶し、幸代に背を向ける。
少しずつ、誰にも悟られないように、仮面を剥がし始めていた。
──背面の想い、正面の仮面。




