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第十六章 甘い湯気と、秋雨の冷

 風が木々の枯葉を引きちぎるように、奪っていく。まるで波を立てるような音をさせ、枯葉が地面に落ちていく。指先はひんやりと冷たくなって温かいものが恋しくなる。――もうすぐ、雪が降る。



 玄関先に置いたさつまいもの塊をよっこらせ、と抱えると高梨は黙って玄関を開けた。行ってきます、と声を掛けたところで、誰からも答えなど返ってくるはずもないことは、分かっていたからだ。だからといって、それが淋しいというわけではない。むしろ、好都合だ。


 高梨は少し重量のあるさつまいもを手に、いつものように電停へと足を進めた。このさつまいもを見せたら荻窪はなんて言うのだろう。ただ、もらった相手が幸代だから、少しどこか後ろめたさがあるけれど。それでもきっとあの、切れ長の瞳を見開いて、「見事だな」と言いそうだ、と小さく笑う。幸代からもらった、と告げなければならないのが、ほんの少し棘になっているけれど。


 それでも本州から送られてきたさつまいもを、荻窪に届けたいという気持ちは変わらない。


 それに「職場のみなさんにもお裾分けを」と言われている。


 電停に着けば、折良く路面電車が滑り込んできた。高梨はいつものように、だけど、手にはしっかりとさつまいもを抱きしめて、路面電車に乗り込んだ。


 遠くの海原を見つめながら、そろそろ烏賊漁が終わる頃だな、と思いを馳せた。父が夜、家にいる時間がまた増えるのか、と思えば気持ちがぎりぎりとまた縛られる。


 高梨はそんなことを考えながらも、意識はすでに荻窪家に向かっていた。


 朝いちに出社して、いつものようにアンケートの集計をする。今日はどことも打ち合わせがない分、午後からは荻窪のところに顔を出せそうだ。


 葉書を読んでは選別していく作業にもだいぶ、慣れた。以前よりもかなり手早くさばけるようになった高梨は、午前中には終わらせて、投稿原稿の可不可を選んだ可の原稿を編集長のデスクにメモ用紙とともに置いておく。


 昼を少し食い込んだところで、高梨は「荻窪先生のところに行ってきます」とさつまいもを抱きしめて、編集部を飛び出した。


 荻窪家へ行くために、電停に立つ高梨はどこか嬉しそうだ。ふと遠くの空に目を向けると、いわし雲が浮かんでいる。数日中には雨が降るかもしれないな、高梨は雲を見ながらそう思った。


 昔、高梨がまだ子供だったころ、父がそう言っていたことを思い出す。父は空を見て、空気を見て、天気を読んでいた。そのことがいまでも、記憶に残っている。それが父の仕事にとって大事だからだ。


 確かに、わずかに湿気を孕んだ空気が頬に当たる。ほんの少し、雨の匂いがした。


 路面電車が軋んだ音をたてて、電停に止まる。高梨は電車に乗り込んで、いつものように遠くの景色を眺めた。席が空いていても立つことを選び、遠くの景色を見つめることが昔からの癖だ。目の前の世界が、広がったような気がして好きだった。


 荻窪の家がある電停で降りてから少し歩く。軽い坂を登ってそこの角を曲がり、木板で出来た黒塗りの塀が見えればそこが荻窪の家だ。あの狸(のような見た目をした)置物もいつも通りに置いてある。


 まだ太陽は高い位置にあるから、荻窪は起きていないかもしれないと思いながらも玄関に手を掛けた。


 から、と軽い音がするのと同時に、ちびの「んにゃにゃあん」という鳴き声とともに軽い足音が聞こえてくる。書斎から走ってくるちびの足音が聞こえてきて、玄関から見える廊下に飛び出してくるさまは、この家の主のようにも見えた。


「こんにちは、ちび。」


 人間でいうなら仁王立ちでもしているのか、どん、というていで立っている。高梨は両手にさつまいもを抱えているため、ちびを抱き上げることができず、少し苦笑した。そうして、ちびの歩行に合わせてゆっくりと、廊下を抜けて台所を通り、居間へ向かう。ちびはといえば、高梨の足元をゆらゆらしっぽを立てながら、まるで「8」の字を描くように高梨の足元を歩いていた。


 そんなちびがかわいくて仕方がない。立ち止まれば一緒に足を止めて、高梨の足にしっぽを巻きつけるようにして、寄り添うのだから。


 縁側でふと庭に目を向けると、荻窪には珍しく枯葉が積もったままだ。珍しいなと、思うのと同時に、荻窪が小さな声で歌を詠むのが聞こえた。


「有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし」


 これは確か、壬生忠岑だっただろうか。


 夜明けがくるたびにあの失恋の痛みを思い出してしまって、夜明けが大嫌いになった、という意味だったはずだ。


 高梨の胸の中でぎゅう、となにかに掴まれたような痛みが走る。荻窪がだれかと別れ、夜明けは嫌いだと詠んでいるのだろうか。そうだとするならば、高梨に思い当たる人間は一人しかいないからだ。また、泣きそうな顔をして、あの写真立てを見ているのだろうか。それとも、なにかを言いたげにあの濃紺の着物を手入れしているのだろうか。高梨は、そんな荻窪を想像して、すう、と息をつく。


「先生、高梨です。ご在宅ですよね?」


 ぎしぎしと音をたてて古板の廊下を歩けば、書斎からかたりと小さな音が聞こえた。ちびのためにいつも少しだけ雪見障子は開けてある。


「ああ、高梨くん。今日は早いね。」


 声に気が付いた荻窪が低い声でそう廊下に向かってそう声を掛けると、すぅ、と雪見障子を開けて高梨が顔を出した。荻窪は珍しく文机の前であぐらをかき、その膝に頬杖をついている。こんなに砕けた姿をした荻窪を見るのは、初めてかもしれない。高梨はその姿に視線が貼り付けにされつつも、さっと笑顔を浮かべてみせる。着物の裾から覗く脚の筋肉が目を惹いた。いつもは辛うじて見えるきゅ、と締まった足首も見える。


「幼馴染からたくさんさつまいもをもらったんですが、美味しかったので先生にもお裾分けをと思いまして。」


 たくさんさつまいもが入った風呂敷包みを、両手で掲げて見せた。


 一度それを縁側の廊下に置いて、風呂敷を開ける。ひとつずつ新聞紙に包まれたさつまいもがごろごろと出てきて、高梨は思ったよりも入っていたな、と驚いた。


「幼馴染とは、例のさっちゃんかい? 仲良くしているようで良かったよ。──しかし、たくさんあるな……。」


 高梨がさつまいもを見せられたときのように、荻窪も同じような感想を漏らしていたから、少しおかしくなってしまう。くすりと笑みをこぼした高梨に、荻窪が「さっちゃん」という名前を出してきたから、すぐに引っ込んだけれど。


「何度も言ってますが、僕とさっちゃんはそんなんじゃありませんよ。」


 誤解されては敵わない。あの家の人たちと同じように、それが「常の幸せ」だと押し付けられたら、高梨は荻窪にどう接していいのか分からなくなってしまうからだ。耐えきれずに逃げ出してしまうかもしれない。


 むすりとした高梨の手に、ちびが空気を読んだのか頭突きをしてきた。


「ああ、ちび。こんにちは、今日も可愛いね。」


 ちびの頭を撫でて、喉鳴りに耳を傾けてあごの下を撫でる。しゃがみこんだ高梨の膝に手を掛けたちびが、伸びあがって高梨に甘えるさまは、どちらがちびの飼い主なのか分からなくなるほどだ。


「先生、お庭に枯れ葉が落ちていますし、僕が片付けておくので、あとで焼き芋を作りませんか?」


 ちびを抱き上げながら、庭へと視線を向けた高梨が、そう荻窪に提案する。いつもは落ち葉も集めて掃除をしているはずの荻窪が、今日はどこか茫洋としているように見えた。なにか悩み事があるのだろうか。


「あ、ああ。美味しいとおすすめされているなら、是非ご相伴させてもらおうかな。」


 どこか浮かない表情していた荻窪がその声に、は、と顔を上げると、そう少し慌てたように返事を返した。


 高梨はそんな荻窪を盗み見ると、今日の先生はなんだかおかしいと思う。いつもよりも上の空だ。だが、高梨にはどうして荻窪が上の空なのか、分からない。


 ちびの気が済むまで抱いていると、荻窪は音もなく文机に向かった。それを見た高梨も、そろそろ庭掃除をするか、とちびを下ろして硝子扉を開けて外へ行く。


 庭用の下駄を借りつつ、高梨は隅のほうに片づけてあった庭帚を手に、散らばった枯葉を集め始めた。ざ、ざ、と落ち葉を集めながら、高梨はこっそりと荻窪がいる雪見障子へと視線を向ける。ちびがいつでも出入りできるようにと開け放ってきてしまったが、寒くないだろうか。いつもの出窓からは写真立ての向こうに乱れた黒髪が見えた。うつむいて真剣に、流れる音を立てながら万年筆を動かしているのだろう。そう、容易に想像ができた。


 落ち葉がこんなに積もるまでなにもしなかったということは、荻窪の筆がもしかしたら、進んでいなかったのかもしれない。


 荻窪家の庭は、思いのほか広い。この整列しているかのように並べられている、季節ごとに変わる樹木や低木も、いつしか見慣れたものに変わった。


 ふと空を仰げば、遠くのようにはまたいわし雲が見える。少し湿気を含んだ空気、ひんやりとした風と、窓から見えるーーちび。


 箒を持って右へ左へと歩く自分を追いかけるように、ちびも左へ右へと忙しそうに追いかけてくる。硝子窓に肉球をつけて、高梨を追いかけるちびを見て、小さく笑った。ぺたりと硝子にへばりつく桃色の肉球がいとおしい。


 す、と手を休めると先ほどの荻窪の言葉を思い出した。


『例のさっちゃんかい? 仲良くしているようで良かったよ。』


 仲良くしたくてしているわけではないと、はっきりと言ってしまいたい。高梨の幸せが「常の幸せ」とは限らないのだから。


 ため息をついた。昨日のことを思い出して、遠くを見つめる。「手を繋ぎたい」と言われたときの気持ちが、どれほど幸代にとって勇気をふり絞ったのか、分からなくはなかった。だけど、高梨には、荻窪の背中しか見えていない。自分だって荻窪の着物の裾を掴むことだけのことが、恐ろしいほど勇気を必要としたからだ。手が震えたのもまだ事実。


 幸代とでは、自分の幸せは望めないと分かっていた。


 自分が欲しているのは、荻窪のあの、無骨でいて優しい手だ。


 書斎の窓を見やると、荻窪がこちらを見ているのが見て取れた。笑顔を作ろうとして、失敗してしまう。失敗したそれを見られたくなくて、高梨はそっと顔を逸らした。


 まだ見ているだろうかと書斎の窓を見てみたが荻窪の姿は見えず、きっとまた執筆し始めたのだろう。


 高梨はある程度の落ち葉を山にすると、そこに新聞紙を丸めて燐寸で火をつけてから、落ち葉への中へ入れた。ぱちぱちと音を立てながら火があがり、高梨はあらかじめ準備していた桶の中に張った水で新聞紙を濡らすと、さつまいもを丁寧に厚めに包んでいく。


 いくつかさつまいもを包み終えると、火の様子を見ながら使い込まれた火ばさみで熾火になった落ち葉の中に、包んださつまいもを入れていった。


 あとは上からまた落ち葉をかぶせて待つだけだ。高梨はひと息つくように空を見上げると、昼頃だった空はいつの間にか夕方に近づいていた。


 だいぶ日が短くなったな、と高梨は空を仰いだ。流れる雲を追いかけるように視線をたどると、そこにはまるでちびのような形をした、真っ白な雲がある。


「ちび、きみに似た雲があるよ。」


 高梨はそうちびに硝子越しから話しかけると、ちびはぴくりと耳を動かした。


 にゃあ、と鳴いている声がする。ちびにとっては庭は縄張りではないからか、早くこっちに戻ってこいと言っているようにも聞こえた。


 猫だって、こうして愛情を向けてくれるというのに。


 温かい気持ちになった高梨が、ふと自分の家のことを思い出して、なんとも言えない気持ちになる。このまま幸代と一緒になるのが、幸せなのか。それとも違うのか。

 母の思う通りの人形になれば、幸せなのか。父が望むように官吏の道へ進むべきだったのか、それとも父の跡を継ぐことが幸せなのか。


 しゃがみ込んで火の番をしながら、考え込んだ。


 幸代を幼馴染以上には思っていないのに、そんなことを出来るはずもない。高梨はあの荻窪の手だけが、欲しいと思っていた。その手以外を逃して、ほかを掴んだとしてもそれは幸せにはなれないと分かっている。


 ぷすりとさつまいもに枝を刺した。


 するっと通るその合図は、焼き芋が出来た証拠だ。

 高梨は火ばさみで焼き芋を焚き火の中から取り出すと、桶の水を傍に置いて荻窪に声を掛けに行った。


「先生、そろそろ焼き芋が出来そうですよ。」


 高梨がちびに気を付けながら硝子扉を開けて、荻窪に声を掛ける。

 文机に向かっていた荻窪は、驚いたように顔を上げた。急いでちびの索き綱を手にした荻窪は、ちびの首輪に結わえてから出てくる。


「あ、ああ。ありがとう、高梨くん。」


 荻窪が下駄を履いて庭にちびとともに降りてきた。

 高梨が焼き芋を半分に割ってみると、甘い匂いとともに温かい湯気がもわもわと立ち上る。

 見るからに黄金色をした焼き芋はとても甘そうで、高梨はそばに歩いてきた荻窪に視線を向けた。


「どうだい? 焼けているかい?」


 高梨はそんな荻窪に自分が半分に割った焼き芋を差し出して、熱くないように新聞紙で包んでから渡す。


「これがよく焼けていますよ。」


 荻窪がそれを受け取り、きれいな色だな、と小さな感想を洩らした。


「ありがとう。きみの幼馴染殿がお裾分けしてくれたからね、しっかり味わって食べないと。」


 高梨はまた「幼馴染殿」という言葉に引っかかる。何度もそう言わなくてもいいのに、という気持ちが湧き上がってきて止まらない。


 それを見ていたちびが、しゃがんでいた荻窪の膝に手をかけて「それはなに?」と言うように、鼻を近づけた。それを見た荻窪が、ひと口分を手のひらに取ると、粗熱を取るために息を吹き掛けて冷ましていく。

 手のひらで温度を測るように少しだけ握り込むと、ちびにそれを与えた。

 最初は匂いを嗅いでいたちびだったが、二人が食べているのを見て、あぐ、と口の中に入れてしまう。


「ちびにさつまいもを与えてもいいんですか?」


 驚いたように高梨がそう荻窪に問えば、「ああ、少しなら与えてもいいと、昔教わったんだ」と少し懐かしそうな声色が返ってきた。


「美味しかったかい?」


 食べ終えたちびの頭を撫でてやる荻窪を見ていると、時折こうして垣間見る過去の出来事に胸が痛くなる。自分の知らない荻窪のほうが、ずっと多いことを突きつけられているようで。


 荻窪の一面しか知らない高梨にとって、彼はまるで氷山のようだ。

 まだまだ海面の下には知らない姿がたくさんある。

 そう思えばやりきれない気持ちが溢れて、両手に自然と力が篭もる。

 手の中で柔らかい物が潰れていく感触が伝わるのと、荻窪に声をかけられたのは同じくらいだ。


「せっかくの焼き芋が潰れてしまうよ。」


 高梨の手に、荻窪の手がそっと添えられて、自分の手から力が抜ける。それを見た彼の手もまた、静かに離れていった。


 その手を思わず目で追い掛けて──視線がかち合う。笑顔を作ろうとして、また、失敗した。

 なんだか今日はうまく笑えない。


 高梨は残りの焼き芋を取り出して、火の後始末をする為に桶の水を焚き火の燻りにかけていく。黙々と火が消えたかを確認してから、出来た焼き芋は縁側へ並べておいた。


「先生、この焼き芋は夕飯にでもしてくださいね。」


 うまく笑顔が作れないと分かってからは、高梨は顔を上げることすらできなくて、荻窪から視線を逸し続けた。


「ほら、先生、雨も降りそうですし、僕はそろそろお暇します。」


 まくし立てるような早口でそう言うと、不思議そうに眺めていたちびの頭を撫でていく。


「またね、ちび。」


 縁側を急いで歩いて居間を抜けようとして、荻窪の声が追いかけてきた。


「高梨くん、待ってくれないか。」


 声は聞こえていたが、それでも止まれない。笑顔が作れないから。

 玄関まで止まらずに通り抜けて、靴を履く。


「できあがっているから、持っていかないか?」


 荻窪の手が高梨の腕を掴んだ。高梨は一瞬荻窪の顔を見──そのまますとんと視線が落ちた。


「また、明日来ます。」


 もう一度作った笑顔は、やっぱり失敗する。うまく笑うことができなくなるなんて、思わなかった。

 口角を上げようとしても、唇が震えてしまうからだ。

 笑顔を失敗すると、その表情はまるで泣いているかのように見えてしまう。それじゃ、そう言って背中を向けた高梨の肩を、荻窪の手が掴んだ。


「どうしたんだ、今日はなんだか変だぞ、高梨くん。」


 変なのは、今日だけじゃない。ずっともう、胸が痛い、苦しい、荻窪が──。

 幼馴染のことを誤解しないでほしい。過去を愛おしそうに思い出さないで。

 そんな言葉が溢れそうになる。


「先生……、僕とさっちゃんはそんなんじゃありません。第一、僕にはそんな気持ちがないんです。誤解しないでください。」


 高梨はなんとかそれだけを言うと、小雨が降り出した外へと飛び出した。

 これ以上傍にいたら、荻窪を困らせてしまうことしか言えなくなりそうだったから。




 ──甘い湯気と、秋雨の冷。

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