第八章 柔き背を撫で、闇に消ゆ 其の二
書斎でいつものように、火鉢の近くに座りながら、荻窪の背中を、じ、と見つめる。
広くて大きなその背中はいつも背筋が伸びていて、荻窪自身の育ちの良さを窺わせた。思わず手を伸ばしたくなるその背中に、高梨はいつも目が離せない。
──先生も、謎が多い人なんだよな。
編集部の中では「変わり者」と扱いをされているが、編集長は何かを知っているようだったし。かといって、この家からは荻窪がいま、ここでなにをしているかしか、伝わってこない。
過去の話も荻窪からは聞いたことがないし、話題を振ろうとすれば一線を引かれてしまう。自分も孤独だが、それとはまた違う種類の孤独を、荻窪は持っていると感じた。
ただ分かるのは、荻窪はいま独りでこの家に住んでいて、怪談を書いていて、いつもこの家を綺麗にしている──それだけだ。
高梨が考えていると、膝に軽い重みが沈んできた。
は、として下を向けば、先ほどのちびが何かを言いたそうに、片手を膝に乗せて高梨を見上げている。くすんだ青にまん丸い黒目が高梨を、じ、と見つめていた。
「乗りたいのかい?」
小声で声を掛け、ちびの身体を抱きかかえて乗せた──その瞬間、とても柔らかくぐにゃりとした感触が伝わってくる。
猫とはかくも、抱き上げた人間の手に委ねるように、ぶら下がるものなのか。脇を掴んで抱き上げた瞬間、ぶらりと垂れる胴体の長さに、高梨は思わず目を見張った。廊下を駆けていた姿よりも、五割増の長さに見える。身体に負担がかかるのではないかと、恐怖心が沸き起こり、思わずぶら下がる足を支えてしまう。
高梨のことを見つめるちびのきょとんとした瞳は、まるで「あなた悪いことしないでしょ?」という、全幅の信頼をおいているかのようだった。
温かく柔らかい身体を、そっと胸元に抱き寄せてみる。小さくて思ったよりも温かくて、驚くほど長く伸びた身体は、柔らかい。
猫が怖いと思っていた感情は、ちびの温かさで溶けていったようだ。蛇の目に見えていた猫の目は、日の入り方で変わるものだということを知って、余計に恐怖心は薄れていった。
──怖い生き物ではなかったんだ。
ちびが顔を寄せるように高梨の胸元に両手を付いて、すんすんと匂いをかいでくる。なにかを確かめるかのように。
そうして、肩によじ登り何をするのかと思えば、高梨の首にすりすり、と顔を擦り付けた。
──あ……。
「くすぐったいよ、ちび。」
肩から降ろして、膝に載せる。そこで丸くなるちびは子猫の毛並みも相まって、ケセランパサランのように見えた。
「きみの主食はおしろいかい?」
そう言いながら背中を撫でると、安心したかのように喉を鳴らし始める。息を吸うごと吐くごとに、ごろごろという喉鳴りが、大きくなったり小さくなったり。
もそもそと寝位置を整えたかと思うと、ちびは本格的にふすふすと寝息をたて始めた。
高梨はそれを横目で見やってから、また、いつものように荻窪の背中を見つめ始める。
高梨は動かずに座り続けることは、得意な方だ。母の躾で動かずに座り続けることが、得意になった。
幼い頃、着物を着せられていた高梨は、よく母に座らせられていた。理由がなんだったのかは覚えていない。正座をさせられ、櫛で髪を梳かれ、虚ろな瞳で高梨を見ていた。
あまりにも不気味な無表情で見てくるそれは、母というよりも――。その行為は高梨が成長するに従い、回数が減り、体格が大人のそれになってからは、一度もない。
そんな体験があるせいか、正座をしてじっとするのは、得意だった。
だけど、仕事で初めて耐えきれない、と感じた今日の出来事は、いまだ心に影を差していた。
いままで何人かの新人作家とともに仕事をしてきたが、あんなふうに露骨な人間は初めてだ。
旧高等学校の寮でも、そこまで露骨ではなかった気がする。外見だけを崇めるような発言はよくあったし、どこかの部屋の壁には自分の似顔絵を書いた紙が、貼られていたことも知っている。
母も、自分の容姿だけはよく褒めていた。自分によく似ている、そう口癖のように。その割に、高梨のことに関しては無関心だったが、痩せすぎたり顔に傷を作るようなことはきつく叱られた。
あんなに露骨に、自分を「性の対象」として見定め、かつ、欲望を剥き出しに舌なめずりされるような感覚は初めてだ。
あんなに気味の悪い感情を持つ物体を、初めて見た──。
思い出してしまった若竹の、ねっとりとした舌のような視線に思わず身震いしてしまう。動いてしまったから、起こしてしまわなかったかと、膝の上のちびを視線を落とした。
相変わらず小さく丸まって寝息をたてている。
起こさなくてよかった、と思うのは、ちびに対してなのか、執筆に集中している荻窪に対してなのか。
高梨はちびが寝入っている姿に安堵して、ふたたび思考に耽る。
高梨は若竹のような露骨なものから、逃げる方法をまだ知らなかった。
本物の女性を充てがう──ことには抵抗があり過ぎる。きっと自分よりも苦しい思いをすることは目に見えていた。
先輩方のように、特殊喫茶に出入りしたことのない高梨にとって、若竹は非常に難関だ。
そういえば、荻窪は特殊喫茶に行ったことはあるのだろうか、若い頃の荻窪はどうだったのだろう。
窓を見れば相変わらず降り続けるぼた雪が、薄闇にくっきりと浮かび上がる。
そのひとつひとつが、いまはちびの毛並みに見えてきた。ふわふわと柔らかく、絹糸のような。
いつ止むのか分からぬまま、雪はさらに降り続く。
春待ち最後の、冬将軍の大暴れのように。
文机から小さな音がしたと思ったら、荻窪が急いで立ち上がる姿が見えた。
思わず高梨は静かにというように、人差し指を口元に立てる。ちびが起きてしまわないように。
「先生、原稿できたんですか? 良かったら見せてもらえますか?」
高梨は、立ち上がりかけた荻窪の顔をのぞき込んだ。小声でそういうと、静かに手のひらを差し出して。
「あ、ああ……。これだよ。」
荻窪はその手ひらの上に、原稿を乗せた。
高梨はちびの邪魔にならないように、それでも丁寧に読み込んでいく。ひと文字ひと文字を流れるように、最後まで読み終えるとそっと原稿を脇に置いた。
「先生……、この黒猫は……悲しいですね。」
この黒猫は、なんでこんなふうに殺されなければならなかったのだろう。
この嫁はなんで、こんなふうにしか自分の思いを吐き出せなかったのだろう。
「きみはいままで、猫というものを好いてはいなかっただろう? それでもそう思うのはどうしてだい?」
荻窪の低い問いかけは、猫が苦手だと言っていた高梨へ、なぜそう思うのかと真摯に問うているように見えた。
「動物は……無垢です。無垢が故、起きた出来事でもあるのかなと思いまして……、僕は……、この嫁を擁護するつもりは毛頭ありませんが。」
高梨はこの嫁が愛情不足での行動ならば、もっと他にやりようがああったはずだ、と思う。
黒猫は一度は助けられた生命を、こういう形で落とすことを望んでいなかったはずだ。
高梨はため息を付いた。
それがちびの被毛に当たり、薄っすらと目を開いたちびが「んに」と返事をする。
「ああ、無垢だからこそ可愛がられもするし、こういったひどい目にあうこともある……。だけどね、如何なる時もそんなことはしてはならないんだよ、高梨くん。」
荻窪がゆっくりと手を伸ばして、ちびの頭を撫でた。
荻窪の言葉は、人間こそが至上だと信じている者たちへは苦々しい楔のようだろう。
「ちび、ごはんをあげよう。──きみもおいで、高梨くん。」
そう言って荻窪は、静かに歩き出した。
***
ちびと一緒に居間まで着いていく高梨は、静かな荻窪の背中を見つめてしまう。
無意識に手を伸ばしそうになって、慌てて降ろした。
荻窪にすがり付いたところで、どうにかなるものではない。
荻窪が手慣れたようにちびのご飯支度を始めながら、ついでに、とばかりに並行して荻窪が粥の支度をし始める。
ちびに与える粥にしては量が多い、と思っていたら人が食べる分もあるようだ。
土鍋の重い陶器の音を微かに響かせながら、荻窪はいつものように作っているのだろう。しばらくすると湯気──冬の間はまるで煙のようにも見える──が白く立ち昇ってきた。
「今日は遅くなってしまったからね、粥で良かったら食べるかい? ──私は粥しか作れないんだけどね。」
荻窪がそう言って、高梨を振り返る。
台所からそう問うた声は少し遠く、少し響く。
ご飯の支度をするからと、ちびを預けられている高梨は「はい」と返事する他なく、頭の中では「粥しか作れない」という言葉に引っかかっていた。
そういえば、初めて会った日の次の朝も、粥を出してくれていたな、と思い出す。
粥とは、こんなに甘かったのか、といまでもあの味は記憶に焼き付いていた。
「あの、僕はどこかで食べることもできるのでお気遣いはいりませんよ、先生。」
少し間を置いてから急いで訂正するものの、荻窪はそれを聞き流すように、提案するような声色で高梨へ向ける。
「雪もひどいし今日は──そうだな、いつものように書斎で寝落ちていても構わないよ。」
くつくつと笑う声は、荻窪自身、それを楽しんているような空気を纏っていた。
高梨はその言葉に、喉を詰まらせる。
荻窪と出会ってからというもの、「家」に帰ることが減っていた。仕事が忙しいということは、両親も知っている。
顔を見れば小言しか言わない上、帰らなければ帰らないで、そのことにも気がついていないような人たちだ。
無言でいつも母の言う言葉を聞き流している父と、時折自分を見る顔が不気味に見える母。
その二人しかいない家には帰りたくはなかった。
そしていまの心情は、その言葉に甘えてしまうというよりも、すがり付いてしまいたい──。
「ご迷惑でなかったら……、先生の書斎をお借りしてもいいですか?」
高梨はちびを撫でる手を止めて、荻窪をじ、と見つめた。
背中に触れることはできないけれど、せめてあの背中を心に焼き付けておきたくて。
──柔き背を撫で、闇に消ゆ 其の二。




