第三十章 刻む針音、溶ける時
ちびの身体を抱きしめて、こんなに重たかっただろうかと高梨は思う。しばらく会わない間に、ちびはまたひとつ、大人になっていたということか。その柔らかい毛並みから漂う、ちびの匂いが懐かしくて、思わず頬を寄せた。
仄かに香ってくるのは、荻窪が好んで使う白檀の石鹸の香りだ。ちびにまでしみ込むほど、ずっと一緒にいることが、ほんの少しだけ羨ましく思えてしまう自分が浅ましい。
ちびの身体から響いてくる喉鳴りがこれほど優しく、心の奥にまで震えるように響くとは思ってもいなかった。
「ちび、ありがとう。」
待っていてくれた、ただそれがとても嬉しい。
荻窪はそんな二人の再会を黙ってみていたが、そろそろいいだろうかというように、声を掛けた。
「居間においで、高梨くん。」
薄暗い廊下をひたひたと音もなく歩く荻窪の背中を、高梨は視線で追いかける。付いてくると確信しているかのようなその行動に、ちびを一度廊下に降ろした。ちびはいまだ喉を鳴らしながら、荻窪の後を当然のように付いていき、高梨もつられて荻窪の後を追いかける。
いつものように、薄暗い廊下の先にある台所を抜けて、居間へ。
居間には電灯が灯り、畳敷きの部屋に洋風の乳白色のその電灯がちぐはぐで、高梨は改めて、荻窪の家が和洋折衷の途中であったことを知る。
重厚な卓袱台の上に置いてある、万年筆とメモ帳は、あの日、高梨が忘れていったものだ。埃ひとつ被っていない状態で置いてあるものの、どこかで見た光景と重なった。
雄二郎の部屋と、同じだった。
時を閉じ込めてしまったあの、雄二郎の部屋と酷似した、自分の万年筆とメモ帳が、生きた居間とは対称的に沈んでいる。
「先生、これ……、」
高梨は恐る恐るそれを指さして、荻窪を見やった。まさか、荻窪の中で自分はとうに居なくなったものとして定義されていたのだろうか。
「ああ、きみのだ。」
静かな肯定の声がぽたりと、落ちてくる。
「きみが居なくなってから……、触るのが怖かったんだ。」
続いたその言葉は、予想外だ。居なくなったから、高梨は「朽ちた者」として、時を止められたのかと思ったのに。驚いたような、嬉しいような、複雑に入り混じった視線を向けた高梨に、荻窪は苦笑を浮かべた。
手を伸ばして、万年筆に触れる。少し冷えたその感触が、長くここに置かれていたことを感じさせた。
荻窪は台所へ足を向けて「お茶を淹れるから、少しばかり待っていておくれ」と、そんな空気から逃げ出すように、言い置く。高梨はそんな荻窪に愛しさからあふれ出しそうな笑みを浮かべそうになり、唇を噛みしめた。
きっとこの座布団も動かせなかったのだろう、高梨はそう思いながら、そっと座布団の上に正座する。そこに、ちびが「いつものように」頭を摺り寄せて喉を鳴らした。高梨がちびの頭を撫で、頬を撫で、顎を撫でた。そこで、ちびの首に結んでいたあの赤い結び紐が。無くなっていることに気が付いた。
「ちび、きみの首輪はどうしたの?」
外れてしまったのか、それとも外されたのか。
高梨は少し困惑してしまう。温かい歓迎を受けた次は、突き落とされたりするのだろうか。そんな、まさか。ほんのわずか、心が揺れた。ざわりと落ち着かない空気に飲まれそうになって、高梨はちびを撫でる手が止まってしまう。
「あの赤い紐はね、解けてしまったんだ。だから──仕舞ってあるよ。」
背後から、そんな高梨の動揺を読み取ったかのように、荻窪の声がゆったりと聞こえてきた。ちひの首に、いつもの首輪が無くなって、見慣れなかったんだ、と少し淋しそうに付け足される。その小さなひと言は、高梨に小さな笑いをもたらした。
「火鉢に火を入れに戻ってきたんだ。」
そう言いながら荻窪が、少し離れたところで屈みこむ。大きな身体を屈めて火鉢に火を入れる姿を見つめていた高梨は、その姿をずいぶんと久しぶりに見ると感じていた。
火鉢から橙色の明かりが漏れて、その周りが温かくなっていく。
「ちび、きみに新しい贈り物があるんだ。」
呉服屋で買った端切れを背広のポケットから取り出すと、白い毛並みを自慢げに、ちびがいつものように高梨の手を待つ。背後からそっと、苦しくないように絹の結び紐をちびの首に結び、「ちびにはやっぱり赤が似合うね、とても美人だ」と笑顔で褒めた。
ちびも得意げに鼻を鳴らし、新しい結び紐を確かめるように歩き出した。まるで荻窪に見せびらかしにでも行くかのように見える。
「持ち歩いててよかった。」
そんなちびの姿を見ていた高梨は、小さくつぶやいた。
「少し大きくなったんだね、ちび。」
結び紐が、以前よりも余る長さが短くなっている。ちびの成長が目に見えて分かるほどに、高梨はこの家に来ていなかったのかと思わせられた。高梨に頭突きをしに戻ってきたちびを、そっと撫でてやる。柔らかな毛並みは相変わらず優しくて、荻窪がいかに丁寧にちびの世話をしているかを窺わせた。
その時だった。
少し離れたところから様子を見ていた荻窪が、いつもならあり得ないほどの大股で近づいてきた。しゃがみ込んで高梨の手をそっと掴むと、顔を覗き込んでくる。その手はかすかに震えていた。
一瞬、若竹の手が脳裏をよぎるが、その強さは全く別のものだ。荻窪の大きくて無骨な手はそっと、傷つけないように優しく掴んでいるから。
「いつも、持ち歩いていてくれたのかい?」
見開かれた切れ長の瞳には、高梨がはっきりと映っている。高梨はまるでそれが鏡のようだ、と感じ、その瞳を見つめた。
「はい、あの、先生……?」
突然のことで高梨はわずかに焦りを見せる。高梨の視界の中で、荻窪の表情がどんどん変わっていくのが分かった。眉根が寄り、八の字に歪んでいく。どうしてこんな表情をするのだろう、そう思った瞬間に、高梨は荻窪の腕の中に抱きこまれていた。ふわりと鼻をくすぐる白檀の香りがより一層強くなる。
背中に回された指が、食い込むほどに強く。骨が軋み、呼吸がままならなくなるほど、きつく抱きすくめられた。
こんなふうに抱きしめられることを、高梨は心から望んでいたのだと、心で思う。温かい荻窪の腕の中がこんなにも、落ち着くからだ。
高梨も迷うことなく、荻窪の背中に手を回す。筋肉質の背中に手を回し、手のひらから伝わる体温と彼の身体を覆うしなやかなそれを、実感した。
いま、自分は荻窪の腕の中にいる、やっと、実感した。その途端、本音が漏れた。
「──会いたかったんです、先生。」
ずっと、会いたかった。
離れている時間がもったいないと思えたほどに、ずっと荻窪のことを考えていた。どしようもなく、頭から離れてくれなかった。この薄く香る白檀の香りが恋しかった。自分をすっぽりと覆い隠すように抱きしめてくれるこの腕が、待ち遠しかった。
荻窪がそんな高梨に誘われるように、ゆっくりと唇を寄せたその瞬間、台所から沸かしていたお湯が沸騰した、やかんの蓋が暴れる音が響き渡る。
荻窪が忌々し気に眉をしかめたその表情を、高梨は初めて見た。
「少し待っていておくれ。」
そう言い置いて、荻窪が名残惜しそうに高梨から離れて台所へと向かう。離れていく熱をそっと、手のひらで覆うように触れた。これ以上逃げないで、というように、高梨は荻窪が自分に残していった体温を、覆うように手のひらで抑え込む。
しばらくしてから、荻窪が大きな手でお盆を抱え、高梨がいつも使っていた湯呑みと彼の湯呑みを乗せて、戻ってきた。卓袱台に向かって腰を下ろすと、荻窪はおそらくいつも彼がやっているように、お茶を入れる。
急須にお茶の葉を入れ、そこにお湯を注いだ。少しだけ蒸らして、二つの湯呑みに交互に入れていく。最後の一滴も、ふたつの湯呑みに落としていった。「いつもなら、湯を沸騰させないんだが……」と気まずそうに差し出された湯呑みを、高梨が受け取る。
緑茶の良い匂いが立ち上り、改めて、ここが荻窪の家だということを実感した。
荻窪のこの所作は、編集長が教えてくれた祖母からの教えなのだろうか。あまりにも整ったその所作を見ながら、高梨は編集長の話を思い出していた。
「お茶を飲みながら、香世さんの言うようにまずはお腹を満たそうか。」
そういうと荻窪は、弁当を卓袱台の上に置いて、ちびの分は傍にある小さな台に乗せた。ちびが、それを当然のように食べ始めるのを見届けてから、高梨と荻窪は箸を手に取り「いただきます」と声に出す。その儀式も変わっていなかった。
実家で食べるご飯は味がしなかったのに、この家で食べるご飯には味がする。香世が作ってくれた弁当は久しぶりに食欲を回復させてくれたようで、高梨はうつむきがちに頬張った。
久しぶりに味のするご飯に夢中になっていた高梨は、荻窪の視線に気が付いて顔を上げる。
「どうしたんです?」
箸を止めたまま、頬杖をついて自分を眺めている荻窪に、不思議そうに問いかけた。
「ああ、いや……、可愛いなと思ってね。」
は、としたようにそう答えた荻窪は、小さな笑みを漏らす。以前ならそんなことを言うような人ではなかったはずだ、高梨はその言葉に頬が途端に熱くなった。誤魔化すようにちびへと視線を送ると、お茶を口に含んで飲み下す。苦味の少ないまろやかな味に、思わず「美味しい」と言葉が漏れた。
「僕が、ですか?」
まさか、な。
ちびはいつものようにちび専用の座布団の上で丸まっており、それは荻窪の横に指定席のようにおいてあった。
「私がそう思うのは、きみだけだよ。」
真っ直ぐに高梨を見つめる荻窪が、もう一度そう告げる。そうして、荻窪は何事もなかったかのように湯呑みを手に取ると、ごくりとお茶を飲んだ。
上下に動く喉仏に、高梨の目が釘付けになる。
喉仏から首の筋へ、そのから顎の線、そして、耳から切れ長の瞳へと。
「そろそろ話をしようか。」
そう切り出されて、高梨は膝の上で両手を握りしめた。編集長は自分と雄二郎が似ていないと言っていたが、荻窪がどう思っているかはまだ分からない。
「私はね、ずっときみに伝えたかったんだ。あの日、きみが帰ってしまったあの日、きみと雄二郎は似ていないと。」
高梨は「雄二郎」という名前を聞いた瞬間、反射的に顔を俯けた。
「雄二郎とはね、確かに仲が良かったし、彼から告白もされた。私が雄二郎に答えられなかったのはね、雄二郎と私の気持ちの温度が違ったからなんだ。」
気持ちの温度が違うとは、どういうことだろう。
高梨は荻窪の次の言葉を黙って待った。
「私が抱いていた雄二郎への気持ちはね、親愛なんだよ。恋情じゃないんだ。」
高梨は荻窪の顔を見上げる。それなら、自分に対する気持ちも親愛なのか。
「でも、僕とよく似てるって、……。」
高梨は、あの白黒写真の雄二郎を頭に思い描いた。自分によく似た面立ちの男だった。
「うん、姿はね、まあ、一瞬見たら似てるな、くらいだよ。」
雄二郎は、もっと雄々しかったんだ、と付け足す。荻窪はどこか懐かしそうに、そして、少しだけ切なさを含んだ笑みを浮かべた。
「それに、私は、きみだから。」
荻窪がそこで言葉を切って、湯呑みを手にする。喉を潤してから、高梨を見つめた。
「きみだから、──堕ちたんだ。」
困ったような、愛しさが溢れたかのような、そんな笑みだ。
「きみだから、触れたい。きみだから、抱きしめたい。きみだから、口づけをしたい。きみだから、──抱きたい。」
荻窪は涼し気な顔をしたまま、高梨に伝わるようにひと言ひと言を噛みしめるように言葉にする。
その声はしっかりと落ち着いていて、動揺すら見当たらなかった。
高梨はあまりにも真っ直ぐな物言いに、頬を赤らめ横を向く。
「僕は……、雄二郎さんの代わりなんだと思っていたんです。」
躊躇いがちに高梨がそうぼそりとこぼすと、荻窪は静かに頷いて次の言葉を待った。
「先生は、僕を通して雄二郎さんを見ているんだと、そう思っていました。」
膝の上に置いた手が、かすかに震える。自分の中では、確実にそうだと思いこんでいた事実を、荻窪はどう答えるのか。
「最初はそれでもいいと思った、でも、僕は欲深くなってしまったんです。」
荻窪をすがるような瞳で見つめた高梨は、そんな自分があまりにも浅はかで強欲だと思う。恥ずかしくなって、語尾がだんだん小さくしぼんでいった。
「それで、どうしたいと思ったんだい?」
荻窪の静かな声が、高梨の次の言葉を促す。
「焦がれるほど、ほしいと思いました──。」
その言葉を高梨が紡いだ瞬間、荻窪の手が小さく震えた。詰めていた息を静かに吐き出して、安堵したように高梨を見やる。
「きみも、そう思っていてくれて、良かった。」
それは荻窪もまた、高梨を欲しいと、そう思ってくれていたということなのだろう。高梨はその言葉にごくりと喉を鳴らし、慌てたように湯呑みを手に取った。お茶をひと口飲んでから、落ち着くように静かに息をつく。
「高梨くん、今日はうちに泊まっていくかい?」
荻窪の本心を知った今、その誘いを断る理由はもう、なかった。
「はい。」
高梨は緊張に包まれて返事をすると、恥ずかしくなって荻窪から視線を逸らす。一緒に寝るだけなのか、それとも、肌を合わせようという誘いなのか。
いつになく鼓動が高鳴って、高梨はなんだかどうしたらいいのか分からず、自分の腕をそっと掴んだ。
──刻む針音、溶ける時。




