第二十九章 絹の手触りと、指先の淡い白
気がつけば、雪が緩み出していた。道の角に氷の山が積まれていくのは、ある意味風物詩だ。凍りついた路面を、つるはしで砕いて邪魔にならないように積むこの光景は、気温が上がってきた証拠だ。
高梨は道路の角に積み上がった氷の山を横目で見ながら、懐中時計を取り出した。
そろそろ路面電車が来る頃か、電停でぼんやりと佇むその姿は、どこか虚ろでどこか淋しげだ。
疲れているのか、目の下は濃いくまができており、やつれた頬はげっそりと青白い。この数週間、仕事を徹底的に詰め込んで、休みの余白さえ持たなかった高梨は、家からの逃避に疲れ果てていた。
白い綿雪を見れば、あの愛くるしい白猫のちびを思い出す。すれ違う人が白檀の香りを身に纏っていれば、思わず振り返る。そんな日々だった。
若竹に掴まれた手首の痕は完全に消え、痛みももうようやく引いた。まだ若竹に似た男を見ると身体が怯えてしまうが、すでに若竹からは離れている。それだけでも随分違った。
外回りの帰り道、電停で路面電車を待ちながら、高梨は辺りを見回してみる。そういえばこの辺りは、以前よく、ちびの首輪にと端切れを求めて訪れた呉服屋があった辺りだ。
まだ開いているかと店先を覗けば、愛想の良い店主が顔を見せた。
「おや、久しぶりだねぇ。良い端切れが入っているよ、見ていかないかい?」
気さくに声をかけて、高梨はつい応じてしまう。香世の店のみけに買えば、ちびにも渡してほしいと頼むことができるだろうか。
高梨は店主の声に誘われるように、呉服屋の中に足を踏み入れた。店内では、衣擦れの音や染め物の匂いが充満している。店主は奥から数枚の、明るい色の端切れを持ってきてくれた。
「この前買ってくれたときは、赤色と緑色だっただろう? だから、今回は橙も取っておいたんだ。」
そう言って手渡された端切れは、どこかひんやりとしていて、整った手触りだ。この絹の静謐な手触りは、荻窪とよく似ていた。
思わず手にとって、小さく息を吐き出す。この絹の手触りすら、荻窪に思えるだなんて、自分はどうかしている。
それでも、高梨は分かっていた。荻窪に会いたくてたまらない自分自身の気持ちを。
「店主さん、この橙と赤の端切れをもらえますか? ──あの、端切れを取っておいてくれて、ありがとうございます。」
高梨は店主に頭を下げる。四方一尺足らずの端切れを、わざわざ保管していてくれるのは、何度か高梨がここで購入したからに違いない。いつ来るかも分からないような自分を、彼は待っていてくれた。
「ありがとうね。また、いい端切れがあったら、取っておくからね。」
手渡されたそれを、高梨は背広のポケットにそっと仕舞った。ちびもみけも、元気にしているたろうか。それこそ、あの二人はすでに自分のことを忘れてしまったに違いない。
そう思うと、なかなか気持ちに踏ん切りをつけることはできなかった。
若竹に掴まれた手首の痕も消え、理由も消えた。
編集長からも、荻窪からの伝言を見せられた。
それなら、いつまでも迷っている自分はなにがしたいのだろう。
荻窪に改めて会って、「やっぱり似ている」と思われるのが、怖い。数か月ぶりに会って、やはり必要なかったと思われるのが、怖い。
そして、ちびに「あんた、だれなのよ?」と見られるのが怖い。
必要とされなくなっていたら、と思うと怖かった。
高梨は、だから踏み出せなかった。
必死になって仕事を詰め込んで、いまや自分の手を見るだけでもわかるほど、痩せてしまった。無茶するな、と編集長には何度か小言をもらったけれど、それすらも聴くことができない。
高梨には荻窪に必要とされていない現実を突きつけられるのが、怖かった。
背広のポケットに手を入れたまま、電停に戻り、路面電車を待つ。そっと絹の端切れを指先でなぞると、ため息をついた。指先に伝わるひんやりとした絹の手触りが、どこか懐かしい。
ちびの毛並みと重なって、恋しくなる。
あの青い瞳が丸々として、こちらを見つめるさまはこれ以上ないほど愛くるしいものだ。
そして、それを傍らで見つめて薄く微笑む荻窪を、思い出して胸が締め付けられる。ぎゅう、と心臓を鷲掴みにされるような。もしくは、二俣の槍で刺されて捻られるかのような。
会えないことが苦しいなんて、思いもしなかった。
会わなければ忘れられるなんて、淡い希望でしかなかった。高梨は荻窪の存在が自分の中でどれほど強く、色濃く息づいているかを思い知らされるだけだった。
路面電車が軋んだ音を立てて電停に停まる。高梨は背広のポケットに手を入れたまま、電車に乗り込んだ。手の中には絹の端切れがある。それを手放せないのは、自分の中にある荻窪への想いと同じなのかもしれない。
編集部に戻った高梨は、投稿された原稿の推敲をするべく、デスクに座った。まだ夕方にもならないくらいの明るい時間だ。編集長からは怪談を読む力は誰よりもあるだろうと、怪談の投稿原稿ばかりを渡される。
同僚曰く、高梨が一番荻窪の担当が長く続いているのだとか。
誰もが「変わり者」だとか「気味が悪い」だとかで嫌がる中、高梨だけはそう思わなかったからだ。
確かに荻窪が自分のことを自分でやるその姿は、そう見えるのかもしれないが、それは荻窪の性格から考えればそうなるのも分かる。
高梨も、実家から通っているが、自分のことは自分でしているからだ。とはいえ、料理は苦手だが。
赤ペンを握りしめ、原稿を読みながら手の中でペンを弄ぶ。くるくると回して、高梨は思わず無意識に荻窪の仕草を模倣している自分に、心臓が飛び跳ねた。
いつも見ていた仕草は、すでに身体に馴染んでしまっている。いま、彼はどんなふうに文机に向かっているのだろうか。
いつものように火鉢を傍らに置いて、文机の傍の小さな台に置いた石油ランプを灯し、ちびのために置いてある座布団の上にちびが寝ているのだろうか。
ころり。小さな音を立てて、高梨の手のひらから赤いペンが転がり落ちる。それを拾い上げながら、高梨は自分の顔が歪んでいることに気がついた。
眉を寄せて、奥歯を噛み締めている。
ともすれば、溢れそうな気持ちに共鳴するかのような涙が膨れ上がり、いまにも零れ落ちそうになる。
噛み締めた顎が震え、嗚咽が漏れそうになり、高梨はそっと席を立って手洗い場に向かった。
冷たい水で顔を洗い、不鮮明な鏡を覗き込む。
青白く痩せた顔つきに、淀んた瞳が映っていた。いまにも泣き出してしまいそうな、赤くなった白目があまりにも恐ろしい。
──会いたい。
ただそれだけが頭に浮かんだ。
高梨は再び自分のデスクに戻ると、また推敲を始める。原稿を読みながら無意識に赤いペンを手の中で弄び、それでも時折手を止めては原稿に文字を書き込んでいた。
ふと、背筋を伸ばしてから時計を見ると、夜の七時をとうに過ぎている。高梨は原稿を茶封筒にしまい込み、引き出しの中に片付けると、ゆっくりと立ち上がった。
「高梨、帰宅します。」
そう声を掛けてから、編集部からゆっくりと帰路につく。通勤時間帯から外れた路面電車は、いつもよりも空いていた。疲れていたからか、空いている席に座る。長時間原稿を睨みつけていた目に手を当てて、重たく息を吐き出した。
家に帰りたくないな、という気持ちがあまりにも強く、高梨は家の近くの電停で降りたものの、しばらく立ち尽くしていた。
背広のポケットに手を入れて、指先に触れた絹の端切れを思い出す。ふと、香世の店のことを思い出した高梨は、ぼんやりとした頭で香世の店へと足を向けた。
月明かりが雪に反射して、仄かに明るい道を行く。ざくざくと音を立てて道を歩けば、少しずつ香世の店が近づいてきた。
薄っすらと見えてくる橙色の明かりが、温かく灯っている。柔らかい明かりがそっと出迎えてくれているようで、高梨の足は自然に速くなっていた。
入口の格子戸に手をかけて、そっと息をつく。心を整えると、高梨は思い切って格子戸を開けた。
「いらっしゃあい、おや、高梨さんじゃないか!」
香世がいつもどおりに声をかけてきたと思ったら、驚いたように高梨の名前を呼ぶ。
「ご無沙汰してます、みけは──元気ですか?」
恐る恐る声を出した高梨を、香世は慌てたように迎え入れると、いつものようにカウンター席へと座らせた。
「みけは元気だよ。高梨さん、あんたはどうだったんだい? ほら、お茶をまずは飲みなよ。」
香世が急いで高梨をカウンター席に座らせたかと思ったら、今度は急いでまた厨房に戻ってお茶を用意する。その忙しなさに思わず笑みが漏れ──、高梨はこの時間を随分と遠ざけていたことに罪悪感さえ感じた。
「ありがとうございます。」
温かいお茶をそっと啜る。誰かが入れてくれたお茶を飲むのは、久しぶりだ。
両手で湯呑みを握りしめ、その温かさを手のひらでじんわりとした温度として実感していく。数か月ぶりの温かさに、高梨は目頭が熱くなった。
「いままで元気でやっていたかい?」
香世の声に、高梨は無言で頷いてみせる。香世も雄二郎のことを知っているのだろうが、なんて言って切り出せば聞けるのだろう。
もうひと口、お茶を飲む。ほ、と安堵の息を吐き出したとき、からからと軽い音を立てて、また客が入ってきたようだ。
「先生?!」
香世が驚いた声を上げる。高梨はその言葉に思わず身体を固くして、顔を背けた。
「やあ、ご無沙汰していたね。」
荻窪の低い声がゆったりと響いた。久しぶりの荻窪の声に耳が震えてしまいそうで、高梨はくすぐったくて手で押さえたくなる。
身を縮こませて無意識に息を潜めたが見つからないはずはなかった。
「……高梨くん?」
その低い声で、どれほど呼ばれたかったことか。なのに、素直に振り返ることができない。かすかに掠れた荻窪の声が、ここに高梨がいることに驚いていると思わせた。
香世がものすごい勢いで弁当を詰め始めたのが、目の端で見える。
「どうしたんだ、高梨くん。」
入口にいたはずの荻窪が、数歩で高梨の傍に来て顔を覗き込んだ。その声に、高梨はなんて言っていいのか分からないまま、荻窪の顔を見てしまった。
「先生……、」
荻窪を呼ぶ高梨の声が弱々しく、思わず恥ずかしくなって顔を隠そうとした、その時。
「さっさとそれ持ってさ、家に連れていきな。それでさ、お腹満たしてからしっかり話し合えばいいだろ。」
どん! と、カウンター席の真ん前に弁当箱を並べると、香世が「さっさと行きな」とばかりに手を振った。奥から一瞬、みけの黒い姿が見えたが、なにかを察したかのように、す、とまた奥へと引っ込んだ。
「あ、ああ……、」
荻窪もやや戸惑いがちに返事を返すと、ちらりと高梨を見やる。ふわりと白檀の香りが高梨の鼻をくすぐり、行けない、行きたくないなんて言葉は消え去った。
「高梨くん、行こう。私はね、ちゃんときみに話したいことがあるんだ。」
肩に置かれた手の重みが、その指の強さが、高梨の胸を震わせた。言葉にはならなかったが、高梨はこの感触を待ち望んでいたことは間違いなかった。
「は、い……。」
高梨は小さく返事を返すと、荻窪に従うように立ち上がる。そのまま手を引かれて外に出そうになってから、高梨は香世に振り返った。
「あ、香世さん、お代……、」
「次でいいよ、めんどくさいねあんたたちは!」
早く行きな! とばかりに手を振られ、高梨はそのまま荻窪に引きずられるように外に出た。掴まれている手首が、熱い。大きな手のひらが、若竹の感触を上書きしていくようだ。
荻窪は手をつなぐことももどかしかったのか、高梨の肩を抱くようにして少し早く歩き出す。さすがにまだ夜は寒い。
「あの、転んだら危ないので……。」
そう言って、高梨が荻窪の手をゆっくりと離した。手を離された荻窪は、今度は高梨の手に指を絡めて繋いできた。
「あの、僕、逃げないので!」
恥ずかしさと驚きで、思わず声が大きくなる。
「ああ、知っているよ。でもね、私が繋ぎたいんだ。」
ちらりと高梨を見た荻窪の瞳が、これ以上はなにも言うなとでも言っているかのようで、高梨は黙り込んだ。
繋ぎたい、そのひと言だけで、身体の奥から熱い塊が噴き出しそうになる。荻窪の無骨な指先が、高梨の手のひらから指先へと滑り込んで行った。
ざらりとしたその皮膚の感覚が、高梨を震わせる。我慢できずに荻窪を見上げれば、困ったように微笑まれた。
逃げないと言ったけれど、別の意味で逃げ出したくなるのは何故だろう。落ち着かない鳩尾が、足元が、すべて繋がれた手に集中してした。
『高梨くんは、元気でやっているでしょうか?』
編集長に宛てた一行だけの言伝が、頭に浮かぶ。指先に力がこもり、荻窪の親指が高梨の手の甲を撫でた。
「元気で、やっていたかい?」
小さな問いかけは、闇に溶けていきそうだ。高梨はずっとその問いに、答えられていなかった。荻窪の眉がゆっくりと眉間にしわを刻む。
青白い頬、やつれた顔、淀んだ瞳、とても元気でやっていたとは思わないだろう。
慌てて視線を逸らした高梨が、どう取り繕おうとバレてしまう。
「一応、元気でやっていました。」
でも、先生に会えなかった日々は、死んでいたも同然です、そう心の中でだけ、小さく付け足して。
「そうか。」
静かに返ってきた声は、それ以上何も言わず。その代わり、繋いでいた荻窪の手に、力がこもった。
荻窪にとっては高梨の見え透いた嘘を見抜くことなど、容易いことだろう。それでも、追求せずに飲み込んでくれたのは、優しさなのだろうか。
「着いたよ。」
荻窪がするりと、名残惜しそうに手を離し、玄関の鍵を袂から取り出した。がちゃり、という重厚な音がして鍵が開き、格子戸の軽い音がからからと響く。
懐かしい狸(のようにも見えなくもない)置物もそのままだ。
荻窪の背中を追うように玄関に入ると、白檀の香りがより濃厚になる。そして、おそらくは書斎か私室かにいたのだろうちびの、本気で走ってくる馬のような足音が響いてきた。
背後で、がちゃり、と鍵を掛ける音がする。
高梨がその音に振り返ろうとして、少しだけ横を向いた瞬間に、視界の隅に白い塊が見えた。
「んにゃ!」
ちびが高梨を目掛けて、飛びついてくる。落ちないように支えた高梨の手には、ちびの毛並みが柔らかく応えてくれたようだ。
絶対に落とさない、と確実に信じている行動が愛おしい。
「ちび、覚えていてくれたの? ありがとう、ちび。」
忘れられたと思っていたのに。
ちびは「あたち、待っていたのよ!」とでも言うかのように、ごろごろと喉を鳴らし、高梨の胸元に爪を立ててしがみついた。
──絹の手触りと、指先の淡い白。




