第二十八章 故の人形と、温もりの伝言
低く暗い色をした雲が空を覆い隠す。濃い灰色をした雲からは、白くて小さな雪がさらさらと落ちてきていた。ふわり、またひとつふわりと舞うそれを、高梨は虚ろな瞳で見つめている。
頬に当たる雪はぽつりと冷たさを残し、涙のように溶けていった。いくつもいくつも当たる雪を、高梨はただ黙って受け止めている。
睫毛に積もる雪すらも、そのままにして。
瞬きをする毎に、雪が揺らぐ。その姿はまるで幻想的だ。
先月、若竹に掴まれた手首のあざは、ようやく薄くなってきたが、まだ少し痛みが残っていた。高梨が身に纏うエンバネスコートがひらひらと風に靡いて、雪と共に舞い踊る。高梨はそんなコートの端を見つめながら、若竹のことを思い出していた。
編集長に連載の休止を言い渡された若竹は、あれから何度も高梨に当てて、電報を送ってきている。
しかも、謝罪ではなく「高梨さんの口添えで休止を取りやめてもらえないか」という自己都合のものだ。それを見た編集長は憤り、当分若竹は作家として筆を握ることができそうになかった。
高梨はそれを可哀そうだとは思っていない。だが、自分の甘さがそれらを引き起こしたと考えれば、自分にも隙が十分にあったということになる。
不甲斐なさを痛感して、高梨は自分の足元に視線を落とした。最近は、足を踏み出すことが怖くなっている。進むことへの恐怖なのか、それとも、編集部へ出勤することへの恐怖なのかは、分からない。
ただ、自分の手のひらを見つめると、かすかに震えているのが見て取れた。自分はこんなに臆病だっただろうか。そう思うほど震える手を、高梨は無理やり鼓舞するように握りしめた。
大丈夫だ、まだ頑張れる。
高梨はいつもそう言って、唇を噛みしめた。高梨を呼ぶ荻窪の柔らかく響く声が、いまも耳に残っている。その声がある限り、大丈夫。
でも、それは本当にそうなのだろうか。
この先の自分の人生を想像して、思わずぶるりと震えてしまうのは、望まぬ未来しかないからだ。一度でも知ってしまったあの「蜜」を、忘れることができるのだろうか。
高梨は短く息を吐き出すと、分かり切ったことを考えている、と自嘲する。
無理に決まっている。
忘れることができるのなら、とっくに忘れてるだろうに。あの、低く笑う声、自分の名前を呼ぶときの優しい音、ちびに微笑む細められた切れ長の瞳。無骨で大きな手が触れるとき、まるで壊さないようにそっと、触れていたこと。
あんなふうに大切に扱ってもらったことなど、一度もなかったのに。
おかげで忘れることができなくて、困るしかないじゃないか。
荻窪はいまでもあの雨戸に祈りながら、日々を過ごしているのだろうか。遠い記憶になってしまったその動作を、頭の中で反芻する。一枚一枚、そっと触れて祈るのは、だれのことなのだろうか。
あの時は、とくに気にしていなかったが、いまとなっては、それが自分であってほしいと思う自分勝手な願いしか浮かばない。
荻窪はもしかしたら、もう、自分を忘れて毎日を静かに過ごしているのかもしれない、そう思えた。締め切りよりもずっと早く届く原稿が物語っている。それは自分宛ではなく編集長に宛てて届いているという事実が、尚更だ。高梨の名前を思い出せなくなって、編集長に宛てて出している可能性だってある。
自分はやっぱり、荻窪に信頼されていたわけではなかった。
あのとき、告白を受け入れてくれたのもきっと、雄二郎の二の舞を避けたかったからなのだろう。荻窪にとって、どれほど自分が些細な存在かを見せつけられているような気がして、高梨は電停に停まる路面電車に気が付くのが、数拍遅れた。
ぷしゅ、と息が抜けるような音がして、路面電車の扉が開く。
いつもの運転手が、不思議そうに高梨を見やると、高梨は慌てて路面電車に乗り込んだ。考え込みすぎて、路面電車の音にさえ気が付かなかったなんて初めてだ。高梨は焦りからじんわりと背中に汗が噴き出て、自分らしくないと思う。
もっと仕事に集中しないと、と思いはするものの、日々、荻窪に出会う前の自分がどう過ごしていたのか、思い出せなかった。
編集部にたどり着いた高梨が、いつものようにデスクに座って机の上を見ると、息を殺したように、荻窪の原稿が置いてあった。編集長が受け取って、それをいつものように自分の机の上に置いたのだろう。
高梨は重たい息を吐き出して、しっかりと封印された茶封筒を手に取った。「しっかりと封印された茶封筒」、いつもは編集長が開けた後に置いているはずだ、と高梨は慌てて編集長のもとへ行く。
「おはようございます、編集長。この原稿、未開封ですけど……。」
編集長の目の前に差し出すと、のんびりとした視線が高梨の手の中を見やる。
「ああ、それか。荻窪先生からの原稿だ。読んでやれ。」
推敲も忘れるなよ、といつものようにひと言言い置くと、編集長はまた自分の仕事に戻ってしまう。どういうことだろう、いつも編集長宛に送ってきている原稿を、未開封のまま自分に渡すなんて。
高梨は不審に思いながら自分のデスクに戻ると、その茶封筒を丁寧に開ける。
中の原稿を傷つけないように、そっと開けてから、いつものように揃った原稿用紙を取り出した。封筒の中から、おそらくは染み付いたのだろう白檀の香りがふわりと、原稿とともに静かに漂う。
淀みなく流れるような文字が、原稿用紙の上に並んでいる。高梨はその原稿の下にある、一枚の紙を見つけて、思わず声を失くしてしまった。
『高梨くんは、元気でやっているでしょうか?』
そう、ひと言だけ書き添えられた縦書き用の便箋に残るその香りは、荻窪の身体から仄かに香る白檀の香りだった。高梨の喉が、ぐ、と詰まって熱い塊がせり上がってくる。とっくに忘れたはずの白檀の香りが鼻腔をくすぐり、その便箋を握る手が震えた。
あの無骨で大きな手のひらが肌を撫でてくれた感触を思い出して、高梨は自分の頬にそっと手を当てた。
高梨は急いで荻窪の原稿を手に取ると、記されている文字を読み始める。
そこには、「身代わり人形」の悲しい話が語られていた。どういう意図があるのかは分からない。
主を失くした人形が、主の代わりに違う人間を依代にする話だ。人形が、添い寝する主を凍結させる内容で、人形が悲しそうに泣いている。
高梨は原稿を読み終えてから、しばらく声が出なかった。いままでは気が付かなかったが、原稿からもかすかに白檀の香りが染み付いていて、それがとても荻窪らしい。
「おう、読んだか?」
編集長が高梨の傍に歩いてくる。その顔はどこか飄々としていながら、なにかを企んでいるようにも見えた。高梨は思わず身を固くし、警戒してしまう。
「康路くんは不器用だからなぁ。」
節目がちのその言葉は、けっして馬鹿にしていっているわけではない。むしろ、仕方ないな、とでも言うかのような「親心」にも似た感情だ。
「編集長は、荻窪先生と親しいんですか?」
高梨は以前から気になっていたことを、編集長にぶつけてみる。荻窪の本当の姿を知っているというか、昔からのことを知っていそうな、そんな気がしていた。
「んー……、まあ、康路くんをこの世界に引き込んだのは俺だからな。」
そのひと言で、高梨の表情が固まる。つまり、編集長も「雄二郎」のことを知っているということだ。
「え……。」
その言葉に高梨は思わず、編集長を見上げた。
「康路くんのご両親がすでに他界されていることは、知っているだろ? 俺は荻窪家の、古くからの知り合いだったんだよ。──正確には、俺の両親が、荻窪さん、康路くんの祖母に当たる人と知り合いだったんだ。」
思い出したのか、編集長が懐かしそうに空を仰ぎ見た。
「荻窪さんは、俺が子供の頃、あの辺一帯の地主さんでな、康路くんが住んでいるあの家も、その名残だ。」
いまでは祖母が亡くなる前に土地を売り、地主ではなくなったらしいが、それでも荻窪本人が生きていくには十分な額があるそうだ。
それに、亡くなった父親は軍人だったらしく、恩給も出ているらしい。それは高梨も知らない話だった。
母親の話は聞いたことがあったが、その母親もまた、病死したそうだ。
荻窪の祖母が亡くなったとき、荻窪本人は生きる気力を無くしたかのように、ぼんやりとしていた。
両親の部屋と祖母の部屋の時計を止めて、故人が使っていた部屋の時間を止めたのも、そのくらいだったそうな。
それでも荻窪が生きてこられたのは、雄二郎が傍にいたからだという。心配だからと一緒に過ごす時間を増やし、ほぼ同居していた時期もあったのだとか。
その時は、まだ生きている人間だった。
荻窪が本格的に「朽ちるのを待つ者」のようになったのは、雄二郎が戦死してからだった。
「あの子らの間に何があったかは、知らないけどな。康路くんがこのまま死んでしまいそうでな、俺が無理やり、怪談を書くように勧めたんだよ。」
それまでも書いていたようだったが、雄二郎が戦死してからは、一度筆を置いていたらしい。
そんな荻窪が見る世界を文字にしてみろ、と勧めたのが、編集長だった。
「それなら、編集長は、僕がその雄二郎さんと瓜二つなのを知っているでしょう。」
高梨の声が震えた。いまでもなお、そのことを言葉にするのは肉を削られるような痛みが伴うからだ。
「ん? ああ、似てるか? でもなぁ……雄二郎くんなら、若竹に殴りかかってくさ。」
不思議そうな編集長の表情に、高梨は毒気を抜かれてしまう。荻窪の家で見たあの写真は、確かに瓜二つだったはずなのに。
「写真を、見ました。」
ごくりと、喉を鳴らした。高梨は思わず両手を握りしめ、編集長に縋るように視線を向ける。
「ああ、白黒写真だろ。雄二郎くんは、お前よりもっと……、そうだな、雄臭かったよ。」
懐かしそうに記憶を辿る編集長が、雄二郎に一番近い言葉を紡いだ。写真を見れば確かに似てる。だけど、現実の雄二郎はもっと雄々しかったということか。
「お前はどっちかというと、柔和だろう? そこがお前のいいところだ、悪いところじゃないぞ。いいところだ。」
編集長が高梨を真っ直ぐに見た。
柔和、という言葉で緩和された気がするが、それは長所なのだと念を押される。
若竹に襲われかけたことが、女々しいと思っていた自分としては、そのひと言だけでもずいぶん救われた気がした。
「荻窪先生が送ってきてた原稿な、ずっとお前に宛てた伝言が入っていたんだよ。──お前ら、うまくやってただろ、揉めたのか?」
ずっと、編集長に宛てて送っていた原稿の中に入っていた、自分宛ての伝言に高梨は思わず目を見開く。編集長は喧嘩だとばかり思って、最初は軽く見ていたが、何度も送られてくる茶封筒に、伝えるべきだろうと思ったと言っていた。
「康路くんは、不器用だからな。」
編集長がもう一度、繰り返す。
「毎回毎回、『高梨くんは、元気でやっているでしょうか?』って書いて寄越すくらいなら、ここに顔くらい出しゃいいのにな。」
編集長が、仕方ないなと言うように笑った。
忘れられているわけじゃなかったのか、と、高梨は心のどこかで安堵する。がんじがらめになった心が、少しだけ砕け、隙間が空いた。その隙間から、さらりとその言葉が芯へと届く。
「荻窪先生の担当をお前に任せたのは、雄二郎くんに似てるからじゃないぞ。むしろ、お前の柔和な態度のほうがいいだろうと思ったからだ。」
雄二郎とは、似ていない。
荻窪も、確か最後に会ったときそう言っていた。でも、信じなかったのは自分だ。
荻窪はいまでもあの家で、ひっそりと雨戸に祈りを捧げているのだろうか。
「編集長、僕、仕事頑張ります。」
会いに行ってもいいのか、それともまだ早いのかは分からない。高梨の中でもまだ、気持ちの整理がついていないからだ。
若竹に手首につけられたあの痣はまだ、消えていない。痛みもまだ残っている。
この手首の痣ごと、荻窪に塗り替えてほしくなる。痛みですら、荻窪から与えられる方がいい。
あの大きな手のひらで若竹に掴まれたこの手首を、撫でてもらえたら、それだけで痛みも消えていくだろうに。
そこまで考えて、高梨はそんな自分に苦笑した。
「おう。無茶しない程度に、突っ走ってくれ。」
編集長の背中を見送った高梨は、改めて荻窪の原稿に目を落とした。
人形が人間を凍死させて、どうして温められないのかと打ちひしがれて泣いている。触れても人形には体温を感じることができず、鼓動すら感じない。
生きているのか分からないまま、寄り添い続け、気がつけば人間が腐っていく──。
ことことと小さな足音をたてて人間から遠ざかろうとする人形の背中が、悲愴だ。
一人で棺桶に入ろうとする人形が、蓋を閉めることができずに空を見つめるその描写は、写真に写っていた荻窪を想像させる。
荻窪がこの人形になぞらえたのはきっと、荻窪本人が雄二郎に応えることができないまま、亡くなったからだろう。
立て続けに大切な人を亡くしている荻窪にとって、雄二郎までも亡くしたことは、心を閉じてしまうには当然すぎるほどの衝撃だ。
荻窪から見たら、高梨も凍死してしまう人間に見えているのだろうか。
高梨は若竹に付けられた手首の痣を、覆い隠すようにそっと手のひらで掴んだ。誰にも愛されることのない「張りぼて」の身体だけでいいなら、と、投げ出そうとした自分に鳥肌が立つ。
若竹に嬲られそうになった記憶はいまも鮮明で、思い出せば目を閉じるのも怖くなるが、この、白檀の香りが染み込んだ便箋ひとつで、荻窪の存在が心の奥から沸き立ってきた。
勇気を出せば会いに行けるだろうか。
荻窪は、臆病な人だ。最初から知っていたはずなのに。
忘れられないのは一体どちらなのだろう。
荻窪がもたらしてくれたあの温かな空間なのか、それとも自分が飛び込んだあの家丸ごとの霊廟なのか。
──故の人形と、温もりの伝言。




