第二十七章 秋風に削る、仮面の端
真っ青な空がいつの間にか少し控えめな色に変わるころ、木々もまた葉の色を変え、落としていく。ざらざらと地面を這うように枯葉が風に流されて、少しずつ削られていく。それはまるで、自分の身を削ってまで生きようしているかのような、生きざまにも見えて、高梨は小さく息を吐き出した。
いつものように電停で路面電車を待っている高梨は、ずいぶんと荻窪の顔を見ていないことに気が付いていた。彼が会いたくないのか、それとも時間が欲しいといったことを律儀に守っているのかは分からない。
しかし、毎回丁寧に梱包された原稿が茶封筒に入れられて編集部に届くのを見ていると、荻窪本人が会いたくないのかもしれないと、思えてしまう。
夏を越えて秋になったいま、冷たくなりつつある風が高梨を撫でつけていく。
背筋を伸ばして電停に立つのは、もはや意地だ。
荻窪に会わなくなってから、高梨はいつもそうやって届いた原稿に目を通す。添削も推敲も必要がないほど澱みのない文章は、いつもとなにひとつ変わらなかった。最初から、自分なんていなかったように。
時間が必要だと言ったのは確かに自分だ。
だけどもしかしたら、荻窪はそれすらも必要ないくらい、すでに自分のことを切り捨ててしまったのだろうか。
彼は「変わり者」と称されているから、高梨が勤めている編集部でも担当が変わりやすい。その中で高梨が唯一、彼の懐に入ることができた。それは意図せず、荻窪の傍にいることが心地よくて、高梨が懐いたからだ。
荻窪本人は、もしかしたら担当の編集者がいなくてもいいのではないか、と思うほどひっそりと、だけど、確実に原稿を送ってくる。
編集長がそれをちらりと見ながら、高梨に向かって「おかげで助かるよ」なんて言葉を投げてくる割に、心配そうにその原稿を見つめていた。
路面電車が電停に、軋んだ音を立てて流れ込んでくる。ふわりと風を巻き起こし、高梨がもっとも嫌っている花の石鹸の香りを色濃く残した。
息を吐くような音と共に、路面電車の扉が開いて、高梨はいつものように乗り込んでいく。肩で風を切るようにわざと挑戦的に。
乗り込んでからは日課である、一日の予定を頭の中で反芻するのが常だ。昨日は若竹から電報が届いていたから、彼のもとに向かう必要があることを思い出して、顔が青ざめていくのを感じた。またあの部屋に行くのか、とうんざりする。それと同時に前回、若竹の部屋に赴いたときに言われた「僕が書いている女性は、すべて高梨さんです」というあの告白を思い出して、背筋に悪寒が走った。
逃げる場所なんていまはどこにもない。荻窪の家にもずっと行っていないし、ちびにも会っていなかった。あの子は元気にしているのだろうか。いつでも大歓迎して迎え出てくれていた、あの白猫を思い出すと、必然と荻窪も浮かんできてしまう。
あの日、彼は「似ていない」と何度も言っていた。高梨を慰めるための口上だったのかもしれないとさえ、思えてしまう。
そんなにこの、自分の外見が必要だったのだろうか。荻窪にとって、「雄二郎」とはどれほど大切な人だったのか、時間が経つにつれて思い出す。
荻窪が時を止めてまで彼を弔い、そして、朽ちるのを待っていた理由だ。香世も、「雄二郎」を知っていた。わざと黙っていたわけではないのは分かっている。彼が亡くなった理由があまりにも悲惨で、言葉にしたくなかったからだろうから。
高梨は、つ、と足元へと視線を向けた。自分で磨き上げた革靴がこれでもかと、光っている。荻窪が自分のことを自分ですることを「変わり者」と呼ばれるのであれば、自分も「変わり者」なのだろう。
ただ、呼吸をして、生きているだけだ。
自分もそのうち、「朽ちるのを待つ者」になるのだろうか。
高梨はふと、そう思った。
ちょうど、高梨が勤める出版社の社屋の近くの電停に、路面電車が到着したところだった。
人の波を縫うように、電車から降りると社屋へと入っていく。廊下は各部門の編集者であふれかえる中、高梨は器用に人の中を歩いて自分が勤めている編集部へと滑り込んだ。
「おはようございます。」
声を掛けてから、高梨が自分のデスクに座ると、またしても若竹から電報が届いていた。詰まったから来てほしい旨が書いてあり、無視するわけにもいかない。高梨は深いため息をつくと、これだけ執拗に電報を寄越すということは、そうとう詰まっているのだろうと、腹を括った。
「高梨、若竹から催促の電報が来ていてな。すまんが行ってきてくれ。──問題があるなら、一緒に行くか?」
高梨の姿を見つけた編集長が、そう声を掛けてくれる。できれば頼みたいところだが、高梨は若竹のような作家を一人でどうにか出来ない限り、編集者としても成長はしないだろうと、ゆっくりと首を振った。
「ありがたいですけど、編集長、今回は一人で行きます。」
編集長がそれを見て、不安そうに頷いたことに、高梨は気が付いていなかった。ここ数か月、高梨はとても不安定だった。本人が気が付いていないだけで。
編集長はその不安定さで若竹と会えば、なにか良くないことが起こるのではないかと思えて仕方がなかったようだ。
「大丈夫ならいいが……十分に気を付けて行ってこい。」
若竹を押し付けたのは、そもそも編集長だ。徐々に若竹の異常性が顕著になってきたのがここ最近で、高梨もできるだけ若竹を遠ざけてはいた。彼の執着はとても、言葉では表現できないような異常さを持っていたからだ。
高梨を「僕の女神」と呼び「小説の中に出てくる女性はすべて高梨さんです」と断言し、高梨の肌に触れて興奮し、ひとりでそれを吐き出すような男だ。
それほど直接的な男だからこそ書ける官能小説だったのだろうが、高梨には限界だった。しばらくは原稿を編集部へ送るように言って、遠ざけてはいたものの、今回は詰まったといって何度も電報を寄越すくらいだから、顔を出さなければならないだろう。
「編集長、若竹さんの下宿へ行ってきます。」
高梨はそう声を掛けると、デスクの上を片づけてからまた外へと出ていった。編集長が「無理するなよ」と声を掛けながら椅子から立ち上がると、高梨の後を追うように「俺もちょっと外回りしてくるわ」と告げて編集部を後にする。
高梨は先ほど降りた電停で、また路面電車を待っていた。何度も往復することには慣れているが、今回ばかりは気が重い。しばらくは大人しくしていた若竹が、また静かに狂気を孕んだ電報を寄越してきた。
高梨は「若竹」という名前を聞いただけでいろいろ思い出して、ぞわりと鳥肌が立つ。彼もまた執筆に本気だと思うようにしているが、それでもなお、高梨は受け入れ難い。
路面電車が軋んだ音を立てて、電停に停まる。高梨は重たく息を吐き出すと、それに乗り込んだ。若竹の下宿の近くで降りてから、いつものように手土産を買うために、店を覗き込む。なにを選んでも「僕のために買ってきてくれたんですね」と喜ぶ若竹を思い出して、ぞわりと寒気を感じた高梨は、菓子パンをいくつか買うことにした。
どうせなにを買っても、変に結び付けて喜ぶだけだ。
高梨は近くの和菓子屋でいくつか見繕って購入してから、若竹の下宿先へと足を向ける。黒塗りの電信柱を越えて、古びた建物が見えてきたら、そこが若竹の下宿屋だ。集合玄関で靴を脱いだ高梨は、そっといつものように揃えて端へ寄せておく。使い込まれた下駄が脱ぎ捨てられた玄関で、高梨の革靴が異彩を放っていた。
相変わらず、人の脂の匂いと煙草の匂いが充満した建物の中を、ゆっくりと歩き出した高梨は、そのうち床が抜けるのではないかと思えるほど、廊下が軋んでいることに気が付いた。少しべたついた廊下は湿気だけだろうか。
高梨は若竹が住む部屋の襖の前にたどり着くと、声を掛けた。
「若竹さん、こんにちは、高梨です。原稿が進んでいないそうですね。」
高梨がそう声を掛けると、どすどすどす、と大きな足音がして、勢いよく襖が開く。そこから顔を出した若竹は、悩んでいたせいなのかそれとも億劫だったからなのかは分からないが、いつになく醜悪な匂いを漂わせていた。
「若竹さん、僕は以前、こまめに風呂に入るように言いましたよね?」
思わず顔を背けてしまう。今までの中で一番、いまの若竹の臭いには我慢できないものがあった。
「高梨さんが来てくれないからですよ。」
若竹がそう言って、手を伸ばしてきた。高梨は思わずその手を、手土産にと持ってきた菓子パンで遮る。突きつけるような形になったそれを、若竹が受け取るとにやりと笑って中身を覗き、「僕の好物を知っているんですね」と嬉しそうに笑った。
高梨は、その笑顔に悪寒が走った。この男、思った通りそう取ったのか。
「今日の高梨さん、まるで女学校に通うお嬢さんみたいな匂いがしますね。いつものお線香の匂いより、ずっといいです。」
食パンが入った袋を畳に投げ落とした若竹が、高梨の手首を掴んだ。ぐ、と力を込められて、高梨の顔が痛みで歪む。手を離せ、と言わんばかりに睨み下ろした高梨に、若竹は挑発的な笑みを浮かべて、さらにその手に力を込めた。
荻窪の白檀の香りを、線香の匂いと評されたことに腹立たしさを感じる。
「だって、高梨さん、今日はすごくいい匂いがするから。」
高梨よりもやや背が低い若竹が、首元へと顔を寄せる。皮脂汚れで束になった髪の毛が高梨の首に当たり、妙に冷たいその感触に、空いていたもう片方の手で、若竹を押し退けた。
「やめてください。」
高梨の手が若竹の肩を押し、それが癇に障ったのか若竹が苛立ったように、高梨の足を引っかけて、畳の上に押し倒す。高梨は二人分の体重を背中に受けて、態勢を整えるのに時間が掛かったその隙に、若竹は高梨の両手首を押さえこんで、にやりと気持ち悪い笑みを浮かべた。
「今日の原稿はね、こうして無理やり押し倒すところから始まるんですよ。」
若竹がぬるりと舌なめずりをする。
高梨はそんな若竹に押し倒され、なおかつ力で押さえつけられていることに、深い絶望と嫌悪が身体の中を駆け巡った。
いつ触れてくるのか分からないという恐怖が、皮膚の下にぞわりと、虫が這いずるような感触を思わせる。真上から見下ろされる恐怖は、早鐘のように心臓を打ち鳴らしていた。
しかし、ここで目をつぶったらきっと、若竹の思うつぼだ。高梨は必死に目を開けて、若竹をにらみつけていた。
これ以上手を出したら、蹴りつけてやる。
編集部を首になったって、後悔はない。荻窪との繋がりがほとんど無くなってしまっている今、首になったところで、痛くもなかった。
「若竹さん、僕は男です。」
高梨ははっきりとそう言葉にする。
若竹はそれを聞いて、胡乱な目を高梨に向けると不思議そうに首を傾げた。
「知っていますよ。男同士でもできるでしょう。穴はあるんだから。」
卑下した笑いを漏らす若竹に、高梨は全身がぞわりと、それこそ足の爪の先から頭の髪の毛まで、寒気が走った。
「それに高梨さんなら、大丈夫です。僕、できますよ。」
できなくていい。
そんなふうに見ないでくれ。
高梨は言葉にならないまま、空気を飲み込んだ。もう、蹴り上げるしかないだろうか。ぴくりと膝が揺れたそのとき、若竹の顔が、高梨の首元へと近づいてきた。
「ずっとね、ここ、吸いたかったんです。」
荻窪の少し強引な口づけを思い出して、耐えられなくなった。そんな風に若竹に穢されるくらいなら、あのとき、荻窪を止めなければよかった。そうしたら、こんなふうにされてもきっと、耐えることはできただろうに。
高梨の手から、抵抗の力が抜けていく。
こんな抜け殻、誰も欲しがらないから好きにしたらいい。
そう、高梨は投げ出してしまった。
瞳を閉じて、死刑宣告でも受けるかのように、その時を待つ。もはや、生きる望みとはなんだったのかさえ、思い出せなくなっていた高梨は、いつ若竹が自分に触れてもいいように心を殺した。
「若竹! そこまでだ!」
高梨の上から若竹が無理やり剝がされて、軽くなる。
その声は編集長のものだった。恐る恐る目を開けると、若竹がごろりと転がって、押入れの襖に身体をぶつけたところだった。
「高梨、立て。」
手を掴まれて、引き起こされる。そのまま若竹の部屋から廊下へと押し出されると、編集長が若竹の胸倉を掴んでいるのが見えた。
「若竹、高梨はな、お前が消費していい編集者じゃないんだよ。」
そう言って、編集長は若竹を物か何かを手放すように、ぼたりと落とした。突然の編集長の姿に驚いたのは、若竹だけではなく、高梨も一緒だ。
呆然と編集長を目で追うと、そのまま若竹をひやりとした視線で見下ろしていた。
「今回でお前の連載は休止だ。頭を冷やせ。」
一部の熱狂的な心酔者がいる若竹の連載を休止だと宣言した編集長は、今度は高梨のほうへと歩いてくる。大きな音を立てて襖を閉じると、高梨の両肩に手を置いて大きく息を吐き出した。深い息と共に「お前が無事で良かったよ」と心底安心したように、つぶやいた。
「お前も、投げやりになるな。馬鹿野郎。お前が最近不安定だったから、跡をつけてきてみれば……。」
編集長はそう言うと、高梨の背中を押して、若竹が住む下宿屋から外へと追い出していく。
「なんで編集長が……。」
ここにいるのか、自分を助けてくれたのか、そして、叱ってくれたのか。
高梨はそのどれをも口にはできなかった。まるで、自分の考えを押し付けてこない父のようにも見えて、言葉を失ってしまう。
「なんかな、若竹の電報と最近の原稿を読んでいて怪しいと思っていたんだよ。」
あいつのことだから、なにかやらかしそうだと思って警戒していたんだ、と編集長は笑った。
「そうだったんですね……、ありがとうございました。」
若竹の異常性に気が付いていながら、なにもできなかったのは自分の手落ちだ。掴まれた手首を見てみれば、紫色に変色していて、高梨は改めて彼の異常性に全身が震える。
女神だなんだと言いながら、結局は高梨をそういう性の対象として見ていたのか。
「俺の手落ちだな、すまなかった。」
編集長が高梨と並んで歩く。小さな謝罪は、彼の心からのものなのだろう。担当は替える、いや、その前に小説家としてもう一度見直す必要があるかもしれないな、と編集長は独り言のようにつぶやいた。
どちらにしても、もう、若竹と関わることはないのだと、高梨は胸を撫でおろした。あの気持ち悪い、舐めまわすような視線をもう、浴びなくていいのだと思うと、足から力が抜けていきそうだ。
「今日は、家に帰るか?」
編集長がそう問いかけてきたとき、「あ、いえ、仕事の残りを片づけたいです」と即答したのは、家に帰りたくない気持ちが勝ったからだ。以前だったら荻窪の家に向かうために帰ったかもしれない。だが、いまは荻窪の家には行けないから、仕事しか残っていなかった。
いぶかし気な編集長の視線に気が付かないまま、高梨は彼とともに路面電車に乗り込んで、編集部へと戻っていく。
高梨がうつむいて自分のつま先を見つめている姿を、編集長はただそれを見ていた。なにを言いたそうに、でも、まだ心の中が整理されていないのか、言葉を何度も飲み込んでいた。
高梨はそんな編集長に気が付くこともなく、ただ、流れる景色をぼんやりとした瞳で追いかけていた。
──秋風に削る、仮面の端。




