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第二十六章 白檀を花の吐息が、覆い消す

 さようなら、という言葉はどうしても言えなかった。それの言葉を口にしてしまったら、それこそ本当にもう、会えなくなりそうだったから──。




 荻窪の温かくて無骨な手のひらの感触がいまも、頬に残っている。背広に着替えて荻窪の家を飛び出したとき、高梨は一度振り返っていた。

 そっと頬を押さえて、自分から当てた荻窪の無骨な手のひらの感触を撫でる。いつものように温かくて、少しだけ震えていた。

 高梨はその感触を忘れたくなくて、もう一度だけ、荻窪の家を振り返る。


 一縷いちるの希望を抱いて、荻窪が追いかけてきてくれているかと、足を止めた。だが、荻窪の家はひっそりと静まり返っていて、動く気配もなかった。


 だから、高梨は重い足取りで実家まで帰ることになったが、それはそれで構わないとも思っていた。最初から、荻窪と出会っていなければきっと、敷かれた線路の上をただ走る職業人という名の仮面をかぶった男だったはずだ。


 偽りの笑顔で結婚し、子を生し、育てていただろう。偽ったまま嫁と暮らし、幸せに満ちたふりをした生活を送っていたはずだ。


 ただ一度、自分の在りたかった姿になっただけで、また元の形に収まるだけ。


 歩きながら、高梨は自分にそう言い聞かせていた。一歩歩くごとに、実家が近づいてくる。ただそれだけなのに、どうしてか、息が苦しくなっていった。重たい足どりがまた一歩、歩を進める。

 じゃり、と炉端の石を踏み込む音がやけに響いた。


 帰りたくない。


 本音を言ってしまえばそうなのだけど、いまの高梨には行く場所がない。なくなってしまった。


 息が止まってしまったかのように、胸の辺りが冷たくなっている。金属の塊を無理やり飲まされたかのような、そんな異物感のような心だ。

 こんなのは自分のではない。そう思うほど、高梨の心は重く奥へと沈み込んでいた。

 手に取って見せることができたなら、高梨は荻窪に自分の心を見せていたかもしれない。言葉で語るよりもずっと、正確に伝えられたはずなのに。

 いまでは無機質な塊になってしまった激情をよく、押し込むことができたものだ。


 いい子の仮面は、こういうときにはとても役に立つ。父親の呪いが、役立つとは思わなかった。なんていう皮肉なのだろう。高梨は小さく鼻で笑った。


 荻窪に対して、泣いて喚いて縋ったら、もしかしてなにか変わったのかもしれない。


 なのに、それはできなかった。


 父に幼い頃から躾けられた、「男児たるもの」が邪魔をして。高梨は言葉を飲み込んで、我慢してしまった。


 こんなことなら、荻窪のことを好きにならなければ良かったのだろうか。だけど、一時だけでも、温かくて安らかな呼吸ができていたのは事実だ。


 自分は何度も、あの手に助けられた。だからこそ、荻窪を困らせるわけにはいかなかった。


 荻窪だけが、自分を「個」として見てくれていた。いまとなってはそれすらも、怪しいものだが。それでも自分を見て、髪を褒めてくれたことには変わらない。自分を抱きしめて、「私も、魅せられている」と言ってくれたことには、変わりない。


 最後まで身体を繋ぐことができなかったのは少し、心残りでもあったがそれでも、高梨は荻窪にたくさん救われてきた。それだけは確かだ。たとえ、自分が雄二郎の代わりだったとしても。


 とぼとぼと歩く高梨が、月の明かりにつられるように空を見上げた。自分の真上にある月が、短い影を作っている。その月に吸い込まれるかのように、高梨は濡れた睫毛に縁取られた淡い瞳を向けた。


 月にはうさぎが住むという。そのうさぎはいつも孤独だったそうだ。高梨はいつかのように、手を空に向かって差し出した。あの時はきらめく星空に。いまは、月に。


 月へ行けば、うさぎに会えるのだろうか、荻窪が書いたあの少年のように。


 高梨の心には、いまも荻窪への未練がひしめいている。荻窪しかいらないと願った心のまま、いまも在る。


 だからこそ、どうにもならないことを知っていた。


 相変わらず実家の玄関は重たい空気を放っており、高梨は玄関の格子戸になかなか手を掛けられないでいた。澱んだ空気がいまにも自分を飲み込もうとしているように感じて、息さえも詰まる。荻窪の家を知る前までは知らなかったこの空気に、いまさらどうやって馴染めばいいのだろう。


 高梨は深くため息をついた。家に入りたくない理由が、荻窪の家の空気を知ってしまったからだなんて。


 自分から香る白檀の香りが薄れることが怖かった。


 だって、きっともう、この香りに包まれることはないだろうから。


 だから、この格子戸に手を掛けるのが怖くて仕方がなかった。格子戸に伸ばす手が震え、どうしても家に入ることを身体が拒否している。家の中はきっとあの、花の香りの石鹸の匂いに満ちているだろうから。


 大丈夫、大丈夫。

 何度も深呼吸をして、気持ちを整えてから自分のかぶる仮面が分厚くあるように、祈った。


 格子戸を引けば、ゆっくりと重たい音を立てて、開いていく。薄暗い廊下の奥では、いつものように一家団欒が繰り広げられているのだろう、にぎやかな声が聞こえてきた。


 今日も幸代が来ているらしい。最近高梨は仕事を理由に、あまり家には帰っていなかった。幸代がどれくらいの頻度で家に来ているのかは知らないが、この様子から見ると、かなり頻繁だったようだ。


 そんなにこの、自分のような「張りぼて」に会いたいのだろうか。


 高梨は頭を抱えて家の玄関で靴を脱いだ。きちんと揃えてしまうのは、もはや癖と言っても過言ではない。玄関の隅に揃えておいてある幸代の下駄から、無意識のうちに遠くへと置いてから、ひたひたと廊下を歩いて行った。


 高梨の自室は、どうあがいても、いま団欒している居間を横切らなければ、たどり着けない。高梨はその境目から居間に顔を出して「ただいま帰りました」と小さく声を出した。


 その瞬間、水を打ったように静まり返った居間で、唯一、明るい声が聞こえてくる。


「お兄ちゃん、おかえりなさい。」


 幸代の声だった。その声調は明らかに場違いな自分を歓迎していて、それでいて、その声すらも場違いに感じてしまう。


「さっちゃん、ただいま帰ったよ。」


 ここで挨拶を返さなければ、両親の嫌味が始まることを知っている高梨は、いつものように笑顔を作る。


「ごはんは食べた? お腹、空いてない?」


 まるで高梨の妻のように、甲斐甲斐しさを見せる幸代に、高梨は小さく「食べてきたんだ、ごめんね」と答える。それこそ、ついさっき、香世の店の弁当を、喉に押し込んできたところだ。


「駆流さん、少しくらい食べたらどうかしら?」


 幸代に嫁に来てほしい母が、苦言を呈す。いつもならその言葉に素直に従ったところだろうが、今日はそんな気分にすらなれず、高梨はゆっくりと首を振った。


「すみません、担当の作家の先生にごちそうになってしまって、お腹に余裕がないんです。」


 これは、嘘じゃない。ただ、空いている空いていないという表現よりも、「食べたくない」に尽きるが。


「そんなにお世話になっているのなら、一度ご挨拶にお伺いしようかしら、ね、さっちゃん。」


 母の悪気のない追撃に高梨は思わず眉をしかめてしまった。あからさまに拒絶の意志を見せてしまった高梨は、すぐにしかめた眉を緩めてから笑顔を作る。


「母さん、僕は社会人だから仕事の付き合いくらいしますよ。──風呂に行ってきます。」


 父はそんな高梨をただ、じろりとねめつけるだけだ。煙草の匂いと母が好む花の香りの石鹸の匂いを漂わせ、威厳を見せる。


 父もだけれど、自分も、なんて滑稽だろう。

 威厳を見せつける父すらも、母が好んでいる石鹸を使っているなんて。「男児たるもの」が口癖なのに、そこは母の言うなりか──。


 高梨はひたひたと廊下に出ると、着替えるために階段を登って自室へと向かう。湿り気を帯びた暗い廊下を歩いていると、自分の足音があまりしないことに気が付いた。


 ふと、荻窪が話していた猫の足音の話を思い出して、自嘲する。この家は自分にとって安全な場所ではなかったのか、と。


 暗闇の中階段を上がり、自室へたどり着いた高梨はいつものように文机の上にある石油ランプに明かりを灯した。相変わらず湿気た四畳半の狭い部屋で、背広を脱いで白いシャツを脱ぎ捨てる。そして、そのシャツから漂う白檀の香りに、思わず手が止まった。


 急いで拾い上げてから、大事そうにそれを抱えて、そんな自分に苦笑する。この部屋に置いておけばいずれ、そう遠くない未来に、この匂いは消え失せるだろう。きつい花の香りの石鹸が漂うこの家には、荻窪の纏う空気に似合わない。


 押し入れに隠してある白檀の石鹸を手に取ると、高梨はそれをそっと鼻に寄せた。少しでもいいから、この匂いを忘れたくなくて。白檀の香りがする石鹸を握る手が、震えている。

 高梨は少しずつ消えていく白檀の香りが、まるで荻窪が自分に抱く気持ちと重なっているような気がした。


 手拭いで隠してからまた、押入れの奥へと仕舞う。見つからないように、奥へ。まるで自分の本心を隠している気分になって、高梨は手が止まった。

 あんなことがあったのに、それでも自分はここまでして、荻窪のことを忘れたくないと気が付いて。



 呆れてしまう、自分の強欲さに。



 雄二郎の代わりだったはずだ。



 それがいやで荻窪から距離を置くことにしたのに、もう恋しいと思うなんて。



 高梨はいつものように御納戸色おなんどいろの着物に袖を通すと、手拭いを手に風呂場へと向かう。この家は、いつも隅が薄暗い。電灯が灯っているはずなのに、ひっそりと冷たさを感じてしまう。

 ひたひたと歩く高梨は、荻窪の家の廊下を思い出していた。


 荻窪の家はいつも静かではあったが、薄暗いこの家とは正反対にあったように思う。荻窪の家は電灯の明かりより石油ランプを好むよう荻窪本人のように、仄かで温かい明かりに包まれていた。

 いつも電灯が点いていて明るいわけではないが、この家の湿度の高い暗さとはまた違った。


 どちらかといえば、こっちの家のほうが、不気味だ。


 高梨はそう、一人ごちる。薄暗く湿った廊下をひたひたと歩いた。風呂場までの道のりはいつも通っているから間違うこともないが、気持ちのいいものでもない。


 あとから作られた風呂場は離れにあって、高梨は一度裏口から外へ出た。夏の夜は温く湿った風が髪を攫う。じめっとした手触りが汗ばんだ髪をさらに気持ち悪さを感じさせ、高梨は早く湯に浸かりたかった。


 この、白檀の香りが身体から消えてしまうのは、心残りだったが。


 着物を脱いで籠の中に入れていく。裸になってから風呂場の扉を開ければ、体温よりも温くなった湯がただ、そこに残されていた。家族が入ったであろう残り湯は、すっかりぬるま湯になっている。

 本来であれば沸かし直すべきなのだろうが、そこまでの気力はなかった。


 高梨はこの家で優遇されたことなど一度もなかった。これが当たり前の日常だ。下手をしたら旧高等学校へ通っている弟よりも、下の扱いだ。

 この高梨の外見がすべてを決めていた。


 少しくらい浸かっておこうか、と足を入れてみればひやりとしていた。ひとときの温かい空気さえもかき消すかのように、冷たさだけが残る。

 荻窪の家で借りた風呂はとても温かかったことを思い出して、一気に感情があふれ出した。ここは一人だ、誰もいない。そう思うからこそ、高梨は堪えることなく涙をこぼした。


 否定してほしかった。


 荻窪に、雄二郎とは違うことを。


 身代わりではないことを、はっきりと言ってほしかった。


 縋って泣いて、本心をさらけ出したかった。


 荻窪に、手を離してほしくなかった。


 最初から身代わりのつもりなら、隠さずに言ってくれたらよかったのに。


 だが、すべては後の祭りだ。


 高梨は声が漏れないように、両手で顔を覆った。

 嗚咽が漏れて、涙がぼろぼろとこぼれ落ちて行く。涙は風呂の湯に溶け、高梨は湯を顔に掛けて誤魔化した。 喉の奥で声を圧し殺し、高梨は初めて、堪えきれない涙を流している。


 ──高梨くん。


 荻窪の声が耳から離れない。あの低くて優しく響く声が、恋しくて仕方がなかった。

 高梨は湯船から上がると、手拭いで身体を拭き始める。荻窪が無骨な手で優しく抱き寄せてくれた、この貧相な身体を。白檀の香りが消えて、花の石鹸の匂いが漂う自分の身体の水分を丁寧に拭く。


 着物を羽織り帯を締めてから、高梨は暗い廊下へと足を踏み入れた。いつものように、居間から聞こえてくる団欒の音は、自分にはあまりにも遠く感じる。


 こんなにも「幸せな形」を目の前に見せられているのに、なぜ自分はこれを欲しいと思わなかったのか。

 そこが自分の居場所ではないと、ずっと感じていた。

 高梨は自ら手放した荻窪の傍を、手放したそばから恋しく思う。

 ずるずると重い身体を引きずって階段に向かう高梨の前に、幸代がそっと顔を見せた。


「お兄ちゃん、お風呂上がった? 今日、顔色が良くなかったみたいだけど……体調悪い?」


 心配そうな眼差しに、高梨は小さく息を吐き出した。答えるのが億劫だが、仕方がない。


「いや、疲れているだけだよ。今日はもう寝るから、ごめんね、さっちゃん。」


 高梨は静かにそう答えると、またゆっくりと歩き出した。いまは、幸代のことを考えている余裕すらもない。重たい身体で階段を登り、自室へと向かった。

 薄闇の中、布団を敷いてそこの上に座る。

 ふと、髪の毛が濡れていることに気がついて、手拭いで丁寧に水分を拭き取った。

 荻窪が、きれいだと褒めてくれた髪を、雑に扱うことはどうしてもできなかった。



 

 ──白檀を花の吐息が、覆い消す。

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