第二十五章 仮面の温度と、残像の澱
橙がいつの間にか濃紺に変わるころ、高梨は着替えを終えてから雄二郎の部屋から出てきた。懐にはそっと彼の写真を忍ばせて。本当はこんなことをしてはいけないと分かっていたけれど、どうしても手が止まらなかった。
ともすれば、荻窪に「なぜ写真を持ち出したのか」と非難されるかもしれないと分かった上での行為だ。
高梨が障子を開けて荻窪の私室を通り、源氏襖に手を掛けたとき、外からはアオマツムシの鳴き声が聞こえていた。いつの間にか日が暮れたのか。
高梨は源氏襖に手を掛けてから、一度ゆっくりと息をついた。笑顔を作ることを忘れるな、荻窪にいまの気持ちを悟られるな。
そう言い聞かせて、ゆっくりと襖を開けると、ちょうど荻窪が立ち上がるところだった。
「ああ……、高梨くん。」
淡い色の青い浴衣に袖を通した高梨は、そんな荻窪に笑みを向ける。
──先生、僕はいま、どっちに見えているんですか?
高梨は初めて荻窪の家に息苦しさを感じた。想像を超えた雄二郎の存在が、荻窪の家の空気を澱ませている。いや、荻窪自身がそうさせているのかもしれない。
「先生、散歩がてら、香世さんの店まで弁当を買いに行きませんか?」
高梨はそんな空気を吸うことが辛くて、香世の店に行くことを提案した。いまはまだ、心の中を吐き出すわけにはいかないという、高梨の精一杯の、強がりだ。
「ああ……、きみがそうしたいのなら、そうしよう。」
いつもよりも低い声が、高梨にある種の決定打を下したような気がした。その低い声は、いつもなにかを隠すときに使われる声だからだ。
似ている、そう言いたいのだろうか。
高梨の心がまたひとつ、奥へと逃げていく。
ふいに伸ばされた荻窪の手のひらに、思わず身を固くした。一瞬身体が揺れて、それはすぐに荻窪にバレてしまう。
「高梨くん?」
顔を覗き込まれた時、高梨はいつものように振舞うことができず、思わず顔を逸らして隠した。
──いま、先生が触れたいと思うのは、どっちなのですか。
「どうしたん……、」
笑顔が作れない。仮面をかぶらないと。
仮面をはがし過ぎて、本当の顔の皮膚が痛かった。
「先生、早く香世さんのところに行きましょう。」
言葉尻を取ってしまった形になったことを、高梨は後悔した。いつもとは違うという決定打を与えてしまったようなものだ。すぅ、と頭が冷えていくと同時に、自分の体温さえ下がった気がする。高梨は荻窪の手を掴むと、誤魔化すように香世の店まで引っ張っていった。
道中は、なにも話せなかった。どんなに言葉を紡ごうとも、話していくうちにひとつの終着へと向かってしまいそうで。
どんなに頭の中で言葉が浮かび、そしてそれを消していたのか、高梨自身にも分からないほどだった。言葉というものは、これほどまでに脆いものなのか。
ただ、夜道にからころと下駄の音だけが響く。この下駄だけは、荻窪が高梨にと買ってくれたものだ。「きっときみに似合うよ」と選んでおいてくれた淡い蒼の鼻緒の下駄だ。まさか、これさえも、「七門雄二郎」への贈り物だったのだろうか。
一度疑い出してしまえば、抜け出せなくなるのは分かっていた。荻窪の過去までをも愛したいと思ったところで、あんなに自分に似た男だと突きつけられてしまったら、どうしていいのか分からない。
むしろ、自分とは性別も違う女性だったなら、どれほど良かったか。
高梨は自嘲した。
香世の店に明かりが灯り、にぎやかな声が漏れていた。ここは、いつ来ても「生きている」。入り口の格子戸に手を掛けた高梨は、いままで掴んでいた荻窪の手を、じ、と見下ろした。
からからと音を立てて戸を開ければ、いつもにぎやかな店内にひと際響く香世の声がする。
「香世さん、こんばんは。」
声をかけた瞬間に、香世の瞳が驚いたように開かれ「ゆうちゃん?!」と口走る。
「ああ、びっくりした。高梨さんじゃないか。いつもみけにありがとさんね。」
咄嗟に笑みを浮かべてなにもなかったように振舞えるのは、さすが店を切り盛りしているだけはあった。
高梨は、香世も雄二郎を知っていて、自分は生き写しなのだということを確信した。
それでも高梨はまだ、自分が荻窪と一緒にいたいと思っていることに気が付いていた。だって、それでも、高梨は荻窪が必要だったから。
「お弁当をお願いできますか?」
だからこの言葉が出てきた。まだ、もう少し荻窪の傍にいたいと思ったから。外に出れば、高梨の仮面は完璧だった。ひび割れて戻らないかと思ったはずの仮面も、ひびなど見当たらないほどに。
「二人分とちびの分だね。はいよ。」
香世の溌溂とした、しかし、どこか上滑りした声が高梨の耳に届く。荻窪も香世も、雄二郎のことを、二人とも知っていた。それでいて、黙っていたのか。
それが高梨の心に少しずつ染みを落としていく。それはひとつ言葉を聞くたびに広がった。それはひとつ、態度を見るたびに色を深くしていった。
「奥に行ってみけに会っていきな。」
いつもどおりに香世がそう言うと、高梨は頭を下げて奥へと進む。みけにもよく会いに来ていたから、香世はいつもこうして、奥にいるみけに会いに行っておいでと言ってくれていた。高梨は香世の言う「奥」へと足を向けたとき、二人を振り返る。
「香世さんも、その『ゆうちゃん』という方に猫の世話を教わったんですか?」
にこ、と笑顔を浮かべた高梨が、香世に真っ直ぐ視線を向けていた。
「あ……、ああ。ゆうちゃんはあたしの幼馴染でね、いろいろ教えてくれたもんさ。」
香世の視線が荻窪へと向かう。ほんのわずかに寄せられた眉に、高梨は香世の感情を読み取った。
「そうなんですね。ありがとうございます。僕は、みけに会いに行きますね。──先生は、どうされますか?」
香世とて、隠していたわけではないのだろう。きっと言葉にできなかっただけだ。頭では理解できている。だが、感情ではどうだろう。
「あ、いや……私はここにいるとしよう。」
荻窪の、静かな回避に高梨は頷いた。いまは一人のほうが息がしやすいから、助かったというべきか。高梨はそのまま彼らに背を向けるとみけに会いに奥へ向かった。
奥に、といっても、香世の店から数歩入れば居間がある。みけはいつもそこの座布団の上で、寝ていることが多かった。高梨はみけの姿を見つけるとそっと歩み寄ってから、脅かさないようにしゃがみ込む。
「みけ、元気にしていたかい?」
そう掛けた声は震えていた。伸ばした手すら震えていて、「雄二郎」のことが高梨の心にどれほど大きな衝撃を与えたのかが分かる。
やっと手に入れたと思った荻窪が実は違ったという事実に、高梨はどうしていいのか分からない。両手で温めていた宝物が、何者かの手によって粉砕されたような喪失感が襲い掛かる。
このまま離れたほうがいいのか、それとも荻窪にしがみついて、心の中をぶちまけたほうがいいのか、高梨には分からなかった。
高梨はいい子でいすぎたのかもしれない。
みけが金色の瞳で見上げてくるが、ちびのようになにかをしたりはしなかった。
店に戻ろうとしたときに、荻窪と香世が話している声が聞こえてくる。なんとなく顔を出しにくくて、柱の陰に隠れてしまった。
「あんた、ゆうちゃんのこと話してなかったのかい!」
香世の怒鳴り声が、感情を抑えた声で小さく響く。
「確かにさ……、ゆうちゃんのことは気軽には話せないだろうけどさ……。でも、あんたが黙ってたんじゃ、高梨さんも可哀想だろう。」
可哀想、その言葉にまた、胸がひとつ沈み込んだ。高梨が何も言えないのは、だれも悪くないからだ。
高梨のことを思って黙っていた香世も、雄二郎の影が大きすぎて言い出せなかった荻窪も。
高梨は、懐にしまった雄二郎の写真に、浴衣の上からそっと触れた。
──もう、手を離すべきなのかもしれない。
いままでも生きてこられたのだから、これからも生きていけるはずだ、荻窪が居なくても。
高梨は自分の手を握り込んだ。自分を押し殺していけば、この先も生きるすべはいくらでもある。
高梨は荻窪を知らない頃に戻れたら、と強く願った。
***
荻窪の家に戻った荻窪と高梨は、香世が作ってくれたお弁当を前に、重たい沈黙の中にいた。居間の壁にかかっている古時計の秒針の音だけが、耳に響く。
高梨は香世が作ってくれた弁当さえ喉を通らず、ちらりと見やれば、荻窪も同じように手が進んではいなかった。
高梨は小さく息を吐くと、潮時か、と思う。
これ以上引き伸ばしたところで、どうにかなるわけでもない。
覚悟を決めて、話を切り出すしかないと思った。
「先生、もういいんですよ、繕わなくて。──この方が先生の想い人なのでしょう?」
あの部屋からこっそりと持ってきた雄二郎の写真を、荻窪の眼の前に差し出した。
普段あまり感情を表に出さない荻窪が、ごり、と奥歯を噛みしめる音がする。その音がやけに大きく聞こえて、高梨は思わず顔を出して荻窪を見やった。
「僕は、彼とよく似ていますね。」
それでも、高梨は話を続ける。奥歯を噛み締めた荻窪が、その写真を見て、「どこでこれを……」と言いかけたが、すぐに言葉を飲み込んでしまう。
「先生、教えてください。この方はだれなんですか? 先生の……なになのですか?」
高梨は、意を決した。
「きみが……、聞きたいのならいくらでも話そう。」
いつよりもずっと低い声が、雄二郎の存在の重さを表しているようだ、と思えて仕方がなかった。荻窪にとっての雄二郎とは、どんな存在なのだろう。
滔々(とうとう)と語られる雄二郎は、実に生き生きとしていた。
学生時代に出会い、行動を共にした。何年か過ごしたのち、雄二郎はその身を戦火に投じたのだという。
荻窪と香世の青春時代を駆け抜けていった人、という印象だ。時折話しながら笑みがこぼれる荻窪を眼の前に、高梨は言いようのない焦燥感に襲われる。
──この人は本当に、雄二郎さんと親友だったのだろうか。
そう思った矢先、親友という言葉では収まりきらない重い言葉を言い残したという。
「雄二郎さんは、先生になんて言ったんですか?」
声が震えた。想像がついたからだ。きっと、その言葉は、告白だ。
「──俺は、お前を好いている。」
荻窪の低い声が、たためらった後にそう、紡がれた。あのとき、高梨が告白しようとしたときにあれほど怯えていたのは、これが原因だったのか。
「それが、雄二郎と交わした最後の会話だ。」
荻窪の言葉が、ずしりとした重さを持って沈み込んできた。最後、ということは、それ以来会えてないということだ。
「それで雄二郎さんは……?」
もしかして、という考えが頭をよぎる。
「亡くなった、と聞いた。」
ああ、やっぱり、そうだったのか。
だからあの部屋は、時が止まっていたのか。高梨は眉を寄せて、あの部屋の空気を思い出した。
あのひっそりとした、まるで霊廟のような静かな空気。
「……ご遺体は帰還なさらなかったのですか?」
聞いてもよいだろうか、だが、気になってしまう。もしも、雄二郎の遺体や遺骨でも戻ってきていたのなら、荻窪はこんなにも深く自分を律していないはずだ。
「爆弾が……、雄二郎たちが掘った塹壕に直撃したんだと、そう聞いている。なにも、何も残らなかったと……、そう聞いている──。」
そんなふうにこの世を知ってしまった雄二郎のことを、忘れられるはずがない。
そうして、その雄二郎と瓜二つの自分が現れた。
高梨の眼の前で、荻窪が大粒の涙をぼたぼたとこぼした。気持ちを抑えきれない、というように。
荻窪の心はいまでも雄二郎の傍にあるのだろうか。
「きみにこんな姿を見せたくはなかったんだが……。」
手の甲で涙を拭う荻窪を見つめながら、高梨は言葉を失くしていた。もう、答えが出ているのではないか。
「先生、僕は……、僕は彼に似ていますか?」
もう、隠せない動揺と不安が震えた手で、荻窪の着物の袖を掴んだ。
「いや、似ていないよ。雄二郎と高梨くんは、似ていない。」
高梨の問いかけに、荻窪は慌てたように否定する。
しかし、その言葉はすでに、高梨の心から弾き飛ばされていた。
「でも、あの写真は……、僕と瓜二つでした。」
そんな嘘は言わなくていい。高梨は荻窪の着物を両手で強く掴んだ。その手がぶるぶると震え、心の震えがもはや隠せなくなっている。
「繕わなくていいって言ったじゃないですか。」
声が震える。
「先生が、お好きだったのは雄二郎さんだったんですね。」
高梨はその瞬間、すべてを手放す覚悟で薄く微笑んだ。
もう、荻窪の言葉は耳には届かない。仮面をかぶった高梨の耳までも塞いだ荻窪の言葉は、呼吸さえ止めてしまいそうだ。
「……出せない答えを、抱えたまま。だから先生は、時を止めてしまったんですね。」
好いている、という言葉に答えを返せなかったことが、荻窪にとっての最大の後悔だという。それ以来ずっと、朽ちるときを待ち続け、過去を見つめている。
そんな荻窪に、高梨は着ていた浴衣を握りしめた。
「僕は、先生だけです。……たとえ、先生の瞳の奥に、僕ではない誰かの影が、先生の心に残っていても。」
もう、心が砕けてしまいそうだった。いつも、感じていたあの荻窪の遠い目は、雄二郎を見ていたのか。
「高梨くん。」
荻窪が伸ばしてきたその手を、高梨の冷えた指先が押し留めた。
「先生。僕は、雄二郎さんにはなれません。……そして、先生にとっての『青春』にも。」
高梨は、荻窪にそう、静かに告げた。
「高梨くん、私の話を聞いてくれ──、」
荻窪が高梨を引き留めようと、手を伸ばす。だが、高梨はそれをそっと躱した。
「僕にも、僕にも時間が必要です、先生。」
荻窪を心の外に追い出す時間、剥がれてしまった仮面を被り直す時間。
「それはどういう……、」
慌てた声が高梨を追いかけてきた。
彼の肩をそっと押さえて、立ち上がることを阻止した高梨は、静かに笑みを浮かべる。
「いまは、僕には先生の気持ちが分かりません。」
あのとき、自分に惹かれているといったのは、嘘だったのか。誤魔化しだったのか、それすらも分からない。
「今日は帰ります、ごめんなさい。先生。」
高梨はそう言うと、背広に着替えるために書斎へと向かった。帰る、というよりも、いまはここから逃げ出したかった。
「待ってくれ、高梨くん!」
荻窪の声が背中にぶつかったが、高梨は止まれなかった。心が粉砕するというのは、こういうことなのか。
時を止めた荻窪が悪いのではない。思いを伝えた雄二郎が悪いわけではない。
皆、少しずつ自分の想いを差し出していただけに、過ぎない。
背広に着替えた高梨が、荻窪の前に姿を現したとき、彼は愕然とした表情で自分を見つめていた。
「先生、僕のわがままを聞いてくれてありがとうございました。僕、先生のこの手が好きでした。」
高梨が冷えた手で置荻窪の、無骨で大きな手を取って自分の頬に当てる。温かくて少しざらついた手のひらが懐かしく思えた。
そのままその手を離すと、高梨は背中を向けて荻窪の前から姿を消した。
──仮面の温度と、残像の澱。




