第二十四章 曇天の先に、ある景色
忙しなく蝉が鳴く季節がやってくる。あのうるさく耳を劈くような鳴き声は、伴侶を探しているのだという。蝉たちにも、運命の相手となる伴侶がいるのだろうか。
高梨はいつものように電停で路面電車を待ちながら、空を見上げた。真夏の空は真っ青だ。こんな時はどうしてもちびの瞳が浮かんでしまう。くりくりとした大きな青い瞳に見上げられては、高梨もイチコロだ。
ただ、かわいいと思う気持ちが自分にもあったとは思えないほどに、ちびはかわいいと思う。
耳には劈くほどの蝉の声が聞こえていたが、高梨の意識は遠く、荻窪と過ごした青梅の日に飛んでいた。
あの日、幸代に嫉妬した荻窪を、これ以上なく愛しい存在だと思えた時、自ら荻窪の薄い唇に口づけをした。それが引き金となったのか、荻窪の切れ長の瞳がまるで獣のように光ったかと思ったら、口内を蹂躙されるような、深い口づけをされた。息すらも飲み込まれるかと思うほどの、深いそれ。
思わず縋りついてしまうほどの激しさに、高梨は無意識に荻窪を止めていた。
「──先生、これ以上はだめですよ。」
自分の呼吸が荒くなった瞬間、高梨は少し恐怖が勝ってしまったからだ。それは未知のことへの恐怖に他ならない。若竹の気持ちの悪い接触とは違う荻窪のそれは、高梨を翻弄し高まりへと押し上げていく。
ここではだめだ、という咄嗟の思いが荻窪を押し留め、それを制してしまった。
制してしまったことは、高梨にとって、後悔なのかそれとも、この先への期待なのかは分からない。
ただ、手放しで喜ぶにはまだ、早い。そう感じていた。
荻窪がいつか話してくれるつもりなのだろうか、あの衣桁に掛けられた着物の主の話、写真のない写真立ての真意、そして、一線を引いていたことも含めて。
いずれ荻窪は、それらのことを話してくれるだろう。そうしたら、自分は黙って聞いて、それすらも受け入れて包み込もう。
高梨はそう思っていた。
それほど荻窪の傍にいたいと願っていたからだ。あの人の傍にいるだけで、こんなに息ができるなんて知らなかったから。
皆が気味悪がるあの空気感も、変わり者と称されるそれすらも、高梨は愛しいと思えて仕方がない。
逆になぜ、彼らは荻窪の良さが分からないのかとさえ思った。そして同時に、分からなくて良かったとさえ思う。
高梨が荻窪を見つける前に、他の誰かに先を越されなくて良かったとさえ思えた。
あの唇が他の誰かのそれへと向けられていたら、自分はどうしていたのだろう。
ふと、自分のそこへと指を当てる。そっとなぞってから、自分よりも温かい唇だったことを思い出した。ぞくりと、背筋を伝う戦慄がとてつもなく甘い。あのまま荻窪を止めなかったなら、どうなっていたのだろう。
高梨は、つ、と路面電車が電停へと流れ込んでくる軋んだ音に、目を向けた。
今日は編集部に顔を出して、午前中は投稿された原稿の推敲があったはずだ、と考えながら路面電車に乗り込む。いつものように、遠くの景色に視線を投げて、今日一日の予定を考えた。
投稿された原稿の推敲、それから、金本の原稿と若竹の原稿を読んでから、手直しを入れて、その後は荻窪のところで直帰だろうか。
最近は二人とも大人しくしてくれていて助かっているものの、若竹に関してはどこか、底知れない気味の悪さを感じてしまう。
絶対になにかをやらかすはずだ、そんな思いが捨てきれなかった。
高梨は編集部がある電停に着くと、いつものように降りる。蝉の声はどこに行っても聞こえてくる、伴侶を求めて短い一生を鳴いている──。
「おはようございます。」
編集部についてからデスクに座れば、いつものように山積みになった投稿された原稿がある。それを一部ずつしっかりと目を通し、原石を探す仕事はやりがいがあるものの、骨が折れる作業でもあった。
いつものごとく可不可を分けていく作業も、だいぶ慣れたと言える。
癖のある文字を読み進めていけば、最近の流行りであるエログロが席巻いていた。
あっちの原稿、こっちの原稿、エログロだらけだ。高梨は軽く頭痛を起こしてしまいそうになる。
流行を追いかけるのは、悪いことではない。しかし、どこかで見たことのある骨に、肉をつけたようなものが増えた気がした。
──今回は原石なしか。
高梨はばさりと音を立てて、投稿された原稿を不可にまとめてしまう。
あとは金本と若竹の原稿か、と茶封筒を開けると、いつものように生真面目な文字が連なった金本のものと、なぐり書きされてよれよれになった若竹の原稿を取り出した。
赤ペンで推敲していく高梨は、このときばかりは真剣だ。本気で彼らの原稿と向き合って、推敲していく。そうして、送り返して直してもらい、さらにまた打ち合わせをして推敲し直すのが常だ。
高梨は推敲を終えた原稿を茶封筒に戻して住所を記載すると、その二つを手に持った。
すでに昼を過ぎた時間だ。
編集部にはあまり人はおらず、皆、それぞれの担当の作家のもとへ向かっているのだろう。
高梨もこのふたつを郵便局で投函したら、荻窪のところへ向かおう、そう思って席を立った。
編集部の近所にある郵便局で、二人に宛てて原稿を送り返す手続きをしてから、いつもの電停へ向かう。
太陽が真上からやや傾きかけた昼過ぎの、強い陽射しに、高梨は思わず手で太陽の光を遮った。
路面電車がいつものように軋んだ音を立てて、電停に停まる。高梨はいつものように、それに乗り込んだ。
数駅越えた先の電停で降りて短い坂を登り、角を曲がれば見えてくるのは黒塗りの塀だ。入口には狸(にも似てるとも言えなくもない)置物が鎮座している。「いつでもおいで」というこの言葉通り、いつも、格子戸の玄関の鍵は開いていた。
からからと軽い音を立てて格子戸を開ければ、声を掛ける前にちびの足音が奥から聞こえてくる。いつものように、猫のわりに騒々しい足音だ。
たかなし、というように自分に向かって走ってくる姿は、とてもかわいい。荻窪曰く、猫も安心する場所にいると、足音を立てる生き物だと言っていた。
ちびにとって、ここは安心できる居場所なのだろう。
「にゃっ!」
いつものように、飛びついてくるちびを抱き留めてから、奥に声を掛ける。
「先生? いらっしゃいますよね?」
しかし、返事はなかった。
玄関を開け放したまま出かけるような人ではなかったはずだが、と高梨は小首を傾げつつ、台所へ向かう。居間を抜けて縁側の、荻窪がいつも祈りを捧げる雨戸がある廊下に出れば、書斎からはかすかに万年筆を走らせる音が聞こえてきた。
集中していて聞こえていないのだろうか。
高梨は古い木板を軋ませながら廊下を歩いていく。雪見障子から書斎を覗き込めば、荻窪が一心不乱に原稿用紙に文字を書き込んでいた。
高梨は暑さに負けて、いつものように背広の上着を脱いで衣紋掛けに掛けてから、長押に引っかける。
それすらも気が付かない荻窪をしばらく、観察していた。
よくよく見れば耳にはなにか白いものが詰まっていて、高梨はふと思い当たる。蝉の鳴き声がうるさかったのだろう。足音を立てても気が付かないほどの熱中ぶりは凄まじいといえるかもしれないが、あれではきっと水分も取っていないはずだ。
高梨は荻窪の耳に詰まっている真綿を摘まむと、それを引き抜いた。
「先生! 何度呼んでも返事がないと思ったら!」
高梨が急に現れたように思えたのだろう荻窪は、切れ長の瞳を大きく見開くと、何度か瞬きをする。高梨を見つめて、ようやく事態が飲み込めたのだろう様子を見せた荻窪は、緩い笑顔を浮かべた。橙に染まった畳を見てから、驚いたように口を開く。
「高梨くん、いつからそこにいたんだい?」
忙しく鳴いていた蝉は姿を潜め、いまはヒグラシの声がかなかなと響いていた。荻窪はまるで、時間を飛び越えたような感覚に陥ったのだろう。
「少し前からですよ。玄関で声を掛けても返事もなかったので上がらせてもらったんです、ちびは出迎えてくれましたよ。──ね、ちび。」
足元で背中を丸めながらすり寄るちびに、声を掛けた。ご機嫌に瞳を細めて高梨を見上げるちびは、喉を鳴らして嬉しそうにしている。
「蝉の声が煩くてね。すまなかった。」
確かにあの声は、荻窪のように頭の中でたくさんの物事を考える人間にとってはうるさいのだろう。思考も纏まらず、創作への意欲も削がれてしまったはずだ。
この暑さで水分も取らず、倒れていたのではなくてよかった。
「暑くて倒れていたんじゃなくて……、良かったです、先生。」
言葉にするとなぜか恥ずかしい。熱くなる頬を隠すように、高梨がそっぽを向く。
心配することは恥ずかしいことではないのに、なぜか頬が熱くなることが止められなかった。
「すまなかったね。」
荻窪の、ぽたりと落ちてくる落ち着いた声が高梨に届くころ、頬の赤さは耳にまで到達していた。こんなに意識したのは初めてだ。高梨はきっと全部、赤くなっているところを見られているのだろうと、思っていた。
「高梨くんも着替えたらどうだい? 外は暑かっただろう?」
だが、荻窪の落ち着いた声は揺らがない。いつもそうだ、落ち着かなくさせられるのは、自分のほうだけ。高梨はそれが少し淋しく思う。荻窪ももっと自分を見て、欲してくれればいいのに。ついこの間、荻窪のたがが外れて、深く求められそうになったとき、思わず制した高梨はすっかりそれを、忘れていた。
「心配してくれて嬉しかったよ。」
荻窪の声が少し、柔らかくなる。ただそれだけで、高梨はあっという間に心が軽くなっていった。自分でも本当に、どうしようもない。
「高梨くん、こっちへおいで。」
荻窪が大きな身体をのそりと立ち上げると、源氏襖のほうへと歩いていった。軽く手招きされた高梨は素直にそれに、従ってついていく。
源氏襖の向こうにある私室から先の障子の向こうは、一度風呂を借りた時に通った廊下だ。その斜向かいの障子を開けると、荻窪はほんの少し淋しそうな表情を浮かべる。
ここは、高梨も足を踏み入れたことのない部屋だった。
埃ひとつ落ちていないこの部屋は、まるで主を失ったまま、時を止めているようだ。閉め切られていた割に埃っぽくないのは、きっと荻窪がまめに掃除をしているからなのだろう。荻窪は幼いころに両親を亡くしている、その話は以前聞いた。だが、ここの部屋の主はおそらく両親ではない。高梨は直感した。
きれいに掃除された部屋、ぽつんと置かれた文机、なにも掛かっていない衣桁、そして、薄暗い部屋の中には、ちびすらも入ったことがないのだろう、爪の痕すら付いていない。
高梨は心臓の奥にすとんと焦げそうなほど熱い杭が打ち込まれたような、そんな感覚に襲われた。
──ここはきっと、荻窪の書斎にある衣桁に掛けられた着物の主の部屋だ。
高梨はそう思えて仕方がなかった。
荻窪にとって、自身を律するためにずっと目の届くところに置いていた着物の主。写真のない写真立ての主。ここにずっと、その人がいた。
高梨は短く息を吐き出した。分かっていた、荻窪の心の中にずっと誰かがいたことは。だけど、それを押しのけてまで自分を抱きしめてくれたことも確かだ。
いまはどうすることもできないけれど、静かに待つしかないのだろう。荻窪の心が完全に自分のほうを向くまで。
「ここに、きみが着られるような大きさの浴衣があると思うんだが……。私の古い友人のお下がりで申し訳ないんだが、少し大きいかもしれないがきみの身体なら合うだろう。良かったら着てくれないか?」
ああ、やっぱりあの衣桁に掛かっている着物の持ち主だった。
高梨は重くなる気持ちをなんとか押しとどめた。ここで取り乱したらだめだ、そう理性が叫んでいた。高梨は無意識に仮面をかぶり、傷ついていないふりをして、荻窪を見上げる。
「先生、あの、そこまでしていただかなくても……。」
お下がりを着ること自体に抵抗はない。しかし、それが荻窪の大切な人のものだった場合、どう受け取ればいいのだろう。
自分は彼の身代わりだったのだろうか。それとも、彼の着物を着せて面影をなぞる為の、着せ替え人形だったのだろうか。
心の整理が追いつかないまま、高梨は思わず荻窪の袖を摘まんでいた。
荻窪がなにかを言いかけて、口を開きかけたがまたすぐに閉じる。なにかを逡巡するような素振りを見せた荻窪に、高梨はやっとの思いで声を掛けた。
「先生、もしかして、これ、先生の……、」
先生の、大切な人の遺品なのですか、そう言いそうになった。だが、辛うじてその言葉は飲み込んだ。言葉にしたらだめだと、理性が止める。
高梨の髪を、荻窪の大きな手が無骨に撫でていく、いつもは大好きなその手が、いまはただ、苦しい。
「きみが心配するようなことは、なにもないんだ。ただ……、私の大きさのものよりもきみに似合うと思っただけだ。いやなら、私のを貸そう。きみの意志を尊重させておくれ。」
それが言い訳に聞こえなかったのは、自分の希望だったのだろうか。それとも荻窪の本心だったのだろうか。高梨は、どちらとも取り得る中途半端な言葉に喉を詰まらせていた。高梨はまた、無意識に仮面をかぶる。
「いえ、先生、ありがたくお借りします。」
にこりと、作った笑顔は自分でも反吐が出そうだ。荻窪に泣きついたってよかったはずなのに、高梨はこの瞬間、両親に大人しく従ってきた仮面をかぶってしまった。そうすることで、高梨は本心を覆い隠してしまう。荻窪に自分の本心をさらけ出すことが、怖くなった。
突き放されたりしないだろうか。この部屋の持ち主の物を拒絶することで、自分も荻窪に突き放されてしまわないだろうか。
不安に襲われて、高梨は本心を隠してしまった。
荻窪はそんな高梨を見て、なにかを言いたそうにしていたがそれは言葉にはならなかった。そのまま「書斎に戻るから、着替えておいで」と言葉を残して去っていった。
ひとり残された高梨が浴衣を手にしたまま、文机に歩み寄る。まるで「ここにおいで」とでも呼ばれているような気さえした。
そうして、文机の前に来た高梨が見たものは、一枚の写真だ。
古びたそれに写っていたのは自分に酷似した、いまの高梨よりは若い男だ。驚いて手に取ってみれば、その写真が自分ではないことが分かる。自分よりも固そうな髪質に、相手を射貫こうとせんばかりのきつい瞳、顎には無精ひげ。自分じゃない、そう思って裏を返してみれば、見間違うはずもない荻窪の、まだ幼さの残る筆跡で「七門雄二郎」と記載されていた。
その瞬間、高梨の脳裏にはいろいろなことが走馬灯のように駆けていった。初めて会ったとき、荻窪が驚いたこと、自分の頬に触れて「高梨くんだな」と確認した夜、いつも貸してくれた着物の主。
写真のない写真立てに送られていた視線、弔いのように遠くを見つめたまま写っていた写真と、朽ちることを待つ者。
そのすべてが、この人に繋がっていた。
高梨は知ってしまった。
荻窪の心に長く居座っていたのが、自分とよく似たこの雄二郎だということを。
──曇天の先に、ある景色。




