第二十三章 青梅結びて、蜜の味
雨が去り、晴天が続く。梅の木には青い実が成り、晩春、もしくは初夏を思わせた。
爽やかな青梅の香りが鼻をくすぐり、梅干しを漬けたり、蜜を作ったりと忙しくなる。
高梨が幼馴染の幸代に呼び止められたのは、たまたまだった。荻窪の家に向かう途中の電停で女学校から帰ってきた幸代とばったり出会した。
満面の笑みで「お兄ちゃん」と呼び止められた高梨は、仕方なく足を止める。
矢絣の袴姿で駆け寄ってくる幸代は、清純そのものだ。高梨に向かって迷うことなく向かってくる姿を、高梨はぼんやりと眺めていた。
幸代の周りには友人なのだろうか、数人の女の子たち。きゃあきゃあ騒がれて、幸代が少し頬を赤く染めている。大方、高梨についての質問や関係を問われているのだろう。
──どうでもいいけど。
高梨は幸代に向かって軽く手を上げると、彼女に歩み寄るわけでもなく立ち止まって待った。
「お兄ちゃん、ちょうどよかった。一度帰ってから、お兄ちゃんの家に、青梅を届けに行くところだったの。」
幸代はそう笑みを浮かべると、洋袴のポケットに手を入れたままの高梨の肘を、軽くつまんだ。その仕草は幼いころのままで、高梨は自分の肘を小さく引っ張った幸代を見下ろす。高梨の記憶にあるほっぺを真っ赤に染めた幼い幸代が、脳裏に蘇った。
あの頃の幸代は、かわいかったな。そうは思うものの、いまとなっては昔のことだ。
時間がかかりそうだな、と思うものの、こればかりは仕方ない。ここで幸代を振り切れば、あとから両親がその話を聞いたとき、いい顔をしないだろうから。
「それなら、さっちゃんと一緒に家まで行くよ。」
高梨は仕方なくそう、彼女に告げた。背後から「幸代ったらいいなぁ」とか「噂の幼馴染だよね」とか、そういう声が聞こえてくる。おおよその見当はつくものの、あまりいい気分ではなかった。
そもそもが高梨に取っては幸代はただの幼馴染であり、それ以上でもそれ以下でもないからだ。もっと言えば、高梨の弟のほうが年齢が近い分、話も合うだろうに。
「ありがとう。」
幸代は高梨の肘を掴んだまま歩き出した。これはある意味、友達に対する見せつけだろうか、高梨は幸代に一瞥を投げかけると、なにも言わずに足を進める。ある程度まで離れてから自然に手を離すのが一番だろう、そう考えた。
例えば、懐中時計を見るふりをして。
幸代は最近、妙に積極的だ。大方、高梨の母親からなにかを吹き込まれたのだろう。幸代の友人たちの姿が見えなくなってから、高梨は自分の肘を掴んでいた幸代の手を、懐中時計を見るふりをして、外した。
ある程度付き合ってやったから、もういいだろう。それに、仕事で荻窪のもとへ行こうと思っていた高梨の時間は、いつまでも割いてはいられない。
「今日は、時間あるの?」
肘を掴んでいた手を外された幸代は、手持無沙汰のように指先をもじもじさせながら、高梨を見上げた。
まだ真昼間だ、時間があるわけがないだろう、そう言いたかったが幸代にそれが分かるわけもない。
「これから、作家の先生のとこに行く途中だったんだよ。」
暗に時間があまりない、という空気をにじませる。幸代は鈍い子ではない。そう言われれば、諦めてくれることを知っている。
「そっか、それじゃ、その作家の先生にもおすそ分けさせてね。」
少しだけ淋しそうに笑った幸代は、高梨が思うように聞き分け良く引き下がってくれた。
高梨と幸代はおよそ十までは行かないが、それくらいは違う。むしろ高梨の弟のほうがずっと幸代と近い。
いまは旧高等学校に通っているから家にはいないが、昔は一緒に遊んでいたはずだ。
なぜ、幸代は自分にこうして想いを寄せてくるのだろう。高梨はそこが一番分からなかった。三人兄弟の中で、確かに自分が一番母に似ていて、優しい面立ちをしているのは分かっているが。
だが、それを質問することは墓穴を掘るような気がして、できなかった。
考え事をしている間、隣を歩く幸代がなにかしきりに話していたが、あまり記憶には残っていない。おそらく、学校のこと、家のこと、卒業が近いことなどだろう。
唯一、青梅の蜜の作り方と梅酒の作り方だけは、頭に刻んでおいた。きっと、荻窪は知らないだろうから。それだけが唯一の収穫か、そう思いながら、高梨は幸代の家の前でしばし待つ。
しばらくしてから顔を出したのは、幸代の母だった。幸代によく似た面立ちの華奢な母が青梅を抱えて出てくると、高梨の腕の中にそれを渡す。
「幸代はいま着替えているから、少し待ってあげてね。」
高梨は小さく返事をすると、空に視線を向けた。
青く澄んだ青色は、まるでちびの瞳のようだ。いつも大歓迎で出迎えてくれて、足元から離れようとしないあの白い猫の瞳が空のように青い。裏のない澄んだ瞳が、高梨の心の中にしっかりと刻まれていた。
待っているのよ、と玄関に座って外を向いている姿を思い浮かべると、高梨は思わず笑みが浮かんでしまう。
「お兄ちゃん、なにを嬉しそうに笑っているの?」
幸代が薄紫色の着物に着替えて出てくると、ちびを思い出して笑っていた高梨に声をかけた。その瞬間、高梨からはすぅ、と笑みが消え失せる。
「ああ、いや。それじゃ、一度僕の家に行けばいいのかな?」
幸代もたくさんの青梅を抱えており、二人で並んで高梨の家まで歩き始めた。からころと軽い下駄の音を響かせて、幸代が歩く。
高梨はゆっくりと歩幅も小さくしながら、幸代に合わせた速度を保ちつつ、荻窪の家には何時頃着けるかと算段した。
あまり遅くなりたくはないな。
できるだけ早く家から出てこないと、仕事に支障が出てしまう。そんな言い訳を考えながら、三軒隣にある自分の家に向かった。
その三軒分の距離ですら、幸代はなにか一生懸命話している。ただ、何を言っているのかはあまり覚えていなかった。学校のこと、友達のこと。それから、おそらく、高梨の母のこと。
「お兄ちゃん、おば様いらっしゃるかな?」
高梨は昼間の自宅のことはほぼ、知らない。いるかいないかと問われても、高梨には知るはずがなかった。ましてや、ここ最近は特に家には帰っていない。
いたらいたで厄介なことになりそうだな、と思う。
高梨は仕方なく、自分の家の玄関に手をかけた。
久しぶりに実家の匂いを嗅ぐ高梨は思わずその臭いに耐えきれず、眉間にしわを寄せる。
その中を平然と入っていく幸代に対しても、高梨は違和感しかなかった。
「こんにちは、幸代です。」
幸代が先立って家に入っていく。
まるですでに高梨家の一員であるかのようなその行動に、高梨は背筋に寒気を覚えた。
奥の方から高梨の母が顔を出し、「あら、一緒だったの?」と嬉しそうに笑顔を見せる。高梨の手に持つ青梅と幸代の青梅を交互に見ながら、含みのある表情を浮かべた。
「はい、電停で一緒になって。」
幸代はそれに対し返事をして、高梨を見上げ笑顔になる。
高梨は二人の話を聞くことを耳が拒否している、そんな感覚に囚われた。荻窪のくつくつと喉の奥で笑う声が早く聞きたい。
「さっちゃん、この青梅は僕がもらってもいいのかい?」
二人の会話が止まった瞬間を狙って、高梨が幸代にそう声をかけた。幸代は疑うことない笑顔で頷いて「作家の先生に会いに行くんでしょう?」と、続ける。
「あら、さっちゃんたら、駆流の奥さんみたいね。」
母のそのひと言が、耳障りだ。
高梨はあえて聞こえないふりをして、幸代にお礼を伝えると、母に向き直る。
「まだ仕事中だから、これで僕は行きますね、母さん。」
まだ当然の如く、仕事中だ。
引き止められては敵わない、それでなくても荻窪の家に行く途中で声をかけられたのに。
「あら、久しぶりに帰ってきたのに、もうお出かけになるの?」
母の残念そうな声とともに、いつもの視線が高梨をゆっくりと見定める。あの虚ろで、なにを考えているのか分からない瞳が高梨をただ、上から下へ下から上へ移動した。その感覚はまるで、蛇の目に舐められたような気分にさせる。
「久しぶりに」という単語にやや力がこもっていたようだが、高梨はあえて聞こえないふりをした。
「中堅の作家の先生についているから、仕事が忙しくなったんですよ。」
高梨は荻窪の名前を隠して、それだけを伝えると母と幸代に軽く頭を下げ玄関から出ていく。
「駆流さん? もう行くの?」
「お兄ちゃん、無理しないでね。」
二人の声を背中に受けながら、高梨は途中にある乾物屋で氷砂糖をひと袋買い込んでから、荻窪の家に向かった。
やっと、二人から解放されて安堵する。日中、仕事をしている時間だと、こんなにも楽に家から離れることができるなんて。高梨は開放感を味わいながら、荻窪の家に向かった。
いつものように、小さな坂を登りそこの角を曲がる。黒塗りの木板の塀が見えてくれは、そこが荻窪の家だ。出迎えてくれるのは、いつものように狸(のように見えなくもない)置物と、格子戸だ。そっと手を掛ければ、まるで高梨を出迎えるかのように軽くからからと音を立てて、開いてくれる。
その音を聞きつけた白猫のちびが猫とは思えない足音を立てて、書斎から走ってきてくれた。四つ足の生き物は、本気で走ると馬のような足音を立てるのだな、ということは、ちびが教えてくれたことだ。青梅と氷砂糖は一度、床に置いておいた。
「先生、高梨です、ご在宅ですよね?」
どしっと飛びついてきたちびを受け止めてから、高梨はいつものように丁寧に靴を脱ぐ。いつの間にか成猫になったちびの重たさに薄く笑った高梨は、ちびをゆっくりと廊下に下ろした。
「ああ、書斎にいるよ。」
ゆったりと響く低い声が耳に心地良い。高梨は、青梅と氷砂糖を抱えると、ゆっくりと、ちびの速さに合わせて歩き出した。途中、台所で氷砂糖を下ろしてから、書斎に向かう。
いつもの静けさが高梨にとっては心がくすぐったくなる、そんな空間に変わったのはいうまでもない。
居間を抜けて縁側へと向かえば、ちびがゆらゆらと尻尾を立てながら、高梨の足にすり寄るように添い歩いた。猫とは、こんなに人に懐くものなのか、と思う反面、信頼する、されるというのはこんなにも温かい気持ちにさせてくれるのだ、と改めて認識する。
珍しく雪見障子を開け放っていた書斎に顔を出した高梨は、いつものように文机に向かっている荻窪の姿を見つけると、わずかに鼓動が跳ね上がった。
途端に意識していなかった暑さに襲われて、顔から汗が噴き出してくる。
「先生、こんにちは。上着を脱がせてもらってもいいですか?」
青梅を一度畳の上に置き、高梨は背広の上着を脱いでから衣紋掛けに掛け、いつものように長押に引っかけた。
少しは涼しくなっただろうか、高梨は手で軽く自分に風を送ると、畳の上に置いた青梅を持ち直す。
「そうだ、先生。今日、さっちゃんから青梅をたくさんいただいたんですよ。」
そう言って、荻窪の目の前に差し出せば、いつもの切れ長の瞳が緩く開いた。それから懐かしそうに細められ、薄い唇がゆっくりと弧を描く。
「青梅か。懐かしいな。」
その表情を見られただけでも高梨としては、良かったと思うものの、先ほど覗き込んだ手元はいまいち原稿が進んでいないようだった。
「一緒に作りませんか? あ、原稿が優先ですけど!」
一応、釘を刺すことも忘れない。荻窪から薄く白檀の香りが漂ってきて、あの日のことを思い出してしまった。荻窪との口づけ、そして同衾した夜。
今までの中で一番濃く、荻窪の存在を感じた日だ。
照れくさくなって、少し強めの声が出てしまった高梨に、荻窪は小さく笑ったように見えた。あの薄い唇の感触も、高梨の脳裏にまざまざと蘇り、耳が熱くなる。
「しかし……、高梨くん、きみ、作り方を知ってるのかい?」
荻窪の疑問はもっともだ。
なにせ最初の頃の高梨は、まともにお茶すら淹れられなかったのだから。
「あ。──そこはさっちゃんから教わりました。」
教わった、というよりは聞いただけだけど。これ以上追及されては敵わない、とばかりに高梨はそそくさと、書斎から出てきてしまう。
荻窪がぼそりと口にした言葉は、聞こえなかった。
「さっちゃん──ああ、あの幸代さん、ね。」
急いで廊下を歩く高梨の耳には届かなかったものの、ちびにはしっかりと聞き取られて。荻窪に付いていようか、それとも高梨のほうへ行こうか、やや迷う素振りを見せた。
高梨の足元に添うようにちびがまとわりついて、離れようとしない。まるで「たかなしは作り方を知っているのよ?」とでも言っているかのようだ。
知っている、というよりは付け焼刃の知識を身に着けただけにすぎないことは、分かっている。
まず青梅をよく洗うこと、それからへたを丁寧に取り除くこと、水分をしっかりと拭き取ってから、消毒した瓶に、青梅と氷砂糖を丁寧に入れていくこと。
暗くて風通しの良いところで熟成させること。
幸代から聞いたことはこれだけだ。
桶を用意して流しへ置いて真鍮の蛇口を捻って水を出す。そこに青梅を入れていくと、ちびが興味を示して、流しの傍の台に飛び乗ってきた。高梨はちびが青梅を口にするのではないかと慌てて、制するもののちびはそんなことはお構いなしだ。
高梨が手に取るそれを見ては「それはなんなのよ? あたちにも見せなさいよ」と手を引っかけてくる。
「ちび、青梅はだめだよ、手を出さないでね。」
白いシャツを肘までまくり上げた高梨が、濡れた手でちびの鼻先を押し返す。水が跳ねる音と桶の中で青梅がころころ回る音が響く台所で、ちびとの攻防戦をしていると、荻窪が姿を現した。
「高梨くん、私もなにかできることがあれば手伝おう。──それとも、「さっちゃん」が教えてくれたことは一人でやりたいかな?」
ふ、と荻窪の言葉の中に棘が混じる。
「先生、さっちゃんはただの幼馴染で……。」
自分にとっては、それ以上でもそれ以下でもない。自分の想いの丈を伝えてもなお、そう言われるのか──悲しくなってから、ふと気づいた。
「知っているよ。幼馴染で一番仲の良い異性なんだろう?」
荻窪が取り繕うようにそう言いながら近づいてきて、ちびをそっと床の上に下ろす。
「先生、もしかしてさっちゃんに嫉妬してますか?」
荻窪の声の質がいつもよりも低く、どこか棘のある──。荻窪が嫉妬してくれればいい、とは思っていた。
「してはいないよ。」
その声はやはりどこか上擦っていて、嘘めいている。
「それじゃ、先生、なんであんなことを言ったんです?」
嫉妬していたら、どんなに嬉しいことか。高梨にとってはそれだけで心が浮き立ち、踊りだしそうなほどだ。荻窪からは遠いところにあるはずのその感情を、自分が引き出したという歓びが胸を打つ。
荻窪の正面に回り込んだ高梨は、彼の顔をのぞき込んだ。自分より少し高い位置にある荻窪の顔。
それはどこか決まりが悪そうに背けられ、「やってしまった」と書いてあるようだった。
「僕には先生だけです。」
高梨は迷うことなく、荻窪の薄い唇に自分のそれを寄せる。淡く触れてすぐに離すと、高梨は笑みを浮かべた。
──青梅結びて、蜜の味。




