第二十二章 宵闇の明け、凪の朝
雨の音が屋根を叩く。まるで子守唄のように静かに届く。外界から遠ざけるように、二人の姿を覆い隠す──。
薄暗い部屋の中で高梨は、荻窪の私室で布団を並べて敷いて、初めての夜を過ごしていた。
書斎ではない私室という空間で、高梨はゆっくりと息をする。薄く漂う白檀の香りが、肺をいっぱいにする充足感は、初めてだ。
隣を見れば荻窪がゆったりとした呼吸で天井を仰ぎ、なにかを考えているように見える。
切れ長の瞳がただ何も言わず、暗い天井を見つめている。どんなことを考えているのかは分からなかったが、高梨はその横顔に目を奪われていた。
高梨は荻窪の横顔を、じ、と見つめる。す、と通った鼻筋に形の良いあごの線、耳から首にかけての筋が際立ち、いかにも男、という気がした。自分にはないもの。
際立つその線に、高梨は言葉にならない衝動を覚えていた。触ってみたい。そんな衝動に駆られる自分を抑えるのに、精一杯だ。
「どうしたんだい? 眠れないのかい?」
高梨の視線に気がついたのか、荻窪がこちらを向く。少しかすれたその声は、眠さのせいか少し気だるげだ。高梨がまさか、そんなふうに荻窪を見つめているなんて、思ってもいないのだろうか。
深くあくまでも穏やかなその声色は、いまにも寝入りそうな高梨の耳に柔らかく届いた。
「先生が起きていらっしゃったので、なにを考えているのかと思って……。」
天井を見つめていた視線は、なにを追っていたのか。高梨には分からない。しかし、なにかを考えている素振りだったのは確かだ。もう、何度もあの目の色を見てきたのだから。
「そんなことくらい……声をかけても良かったんだよ。」
低い声が吐息に交じる。
す、と無骨な手が伸ばされて、高梨の頬に触れた。ざらりとした手のひらと、いつも万年筆を握るペンだこのついた指先が、頬を撫でていく。その感触に目を閉じると、荻窪が心配したように、「痛いかい?」と問う。
高梨は荻窪の手が離れないように自分の手を上から重ね、彼を見つめた。ゆっくりと首を振り、「もっと撫でてください、先生」と、うっとり瞳を閉じる。
荻窪の手のひらが、高梨の髪を撫で、頬を撫で、首筋に触れていく。その手の感触が心地良くて、高梨はたまらず荻窪にすり寄った。もっと撫でてほしい、そんな欲が顔を出す。
ざらりとした質感が、これほどまでに心地よいものだとは思わなかった。心が震える、というのはこういうことなのだろうか。高梨は、自分の心が細かく震えるのを感じた。
高梨は自分の布団から荻窪の布団へと移動して、彼の腕に抱き寄せられる。
「先生、僕の頭、重くないですか?」
枕は、元いた場所にひっそりと置き去りにされていた。高梨が寝ていた布団の隅の方には、ちびが丸くなって寝ている。
「いや、重くないから大丈夫だ。気にしないで、眠りなさい。」
その落ち着いた声色で、荻窪はゆったりと高梨の背を柔らかく打った。一定の速度でとん、とん、と打たれる背に高梨は思わず笑いをこぼす。
「先生、僕、子供じゃないですよ。」
そう言いながら、荻窪の体温と鼓動の心地良さに抗えず、瞳が閉じていった。高梨の記憶に残るのは、まるで自分を宝物かなにかのように、大事に抱き寄せてくれる荻窪の手だ。
温かい。心地良い。
そんな気持ちのまま、思うように抱きつけばより一層、心が落ち着いた。
この温かさを失いたくない。
やっと荻窪の腕の中に入ることができたのに。
「先生……、僕を……拒絶しないでください……、」
高梨は夢と現の狭間で、ぼそりと本音が漏れた。
それに対し荻窪がなにか答えたような気がしたが、すでに夢の中の住人になりつつあった高梨には、聞こえない。
さらりと、大きくて無骨な手が背中を撫でる。背骨に沿って指が辿り、高梨はその感触に思わず身動ぎをした。
「んん……、先生、寒くありませんか?」
布団の隙間から入り込む冷えた空気に身体を震わせた高梨が、温もりを求めて荻窪へと身を寄せる。
筋肉質の身体に身を寄せて、荻窪の肩口に顔を寄せればいつもの白檀の香りが落ち着かせてくれた。
「ん……、先生? 寒いですよ。」
布団で擦れて、高梨が纏う大きな寝間着がはだけてしまう。顕になった白い肩が空気に触れて、冷えた空気にさらに彼に身を寄せた。
「まだ早いからもう一度寝なさい。寒いならこうしててあげるから。」
支えるように荻窪の手が高梨を抱き寄せ、体温を分けてくれる。
こんなに温かくて、安心する夜は初めてだ。
高梨は深い眠りの中で、そう、感じた。
***
雨戸の隙間から差し込む陽射しで、高梨は目が覚めた。私室の源氏襖から細く陽射しが漏れてくる。それは書斎の雪見障子から淡く、源氏襖を通り抜けてきた。
今何時だ、と勢い良く身体を起こしてから、自分の手のひらが荻窪の腹の上にあることに気がつく。
慌てて手を避けたものの、すでにその勢いで荻窪は目を覚まし──、一瞬驚いたように目を見開くと、次にはくつくつと笑い出した。
「おはよう、高梨くん。」
寝起きでかすれた声が高梨の耳に、じんわりと響く。その声が高梨の耳から頬までを熱くしていき、紅潮するのを隠せなかった。
朝の、寝起きの荻窪を見ることがあるなど、考えもしなかった状況に、高梨は思考が散らばったままだ。
「お、おはようございます、先生。」
伸ばされた手に、思わず瞳を閉じて身構える。そぅ、と壊れ物に触れるかのように柔らかく頬を撫でるその手が、すぐに離れていってしまった。触れられていた場所が、熱を失うそばから疼き出す。
薄く瞳を開いた高梨が、その去り行く荻窪の指先を視線で追いかけた。あまりにも、その温かさが名残惜しくて。
「よく眠れたかい?」
荻窪は低い声でそう問うと、つい、と源氏襖の向こう側へと視線を向けた。
高梨が使っていたはずの布団の上にはいまだ、ちびが長々と寝そべっている。まだ寝たりない、そう言っているかのような青い瞳が細められていた。白くて柔らかなお腹を上にして、安心しきった様子のちびを横目に、高梨は頭に浮かんだ言葉をそのまま口にする。
「はい、先生が傍にいてくれたので……。」
思わずそう、本音がこぼれた高梨は、自分の言葉に驚いて言葉を飲み込んだ。気が付いた時には荻窪はいつもの低い声で「そうか」とつぶやいて、高梨に目を向ける。
まるで眩しい朝陽を見つめるように目を細めた荻窪は、高梨の後頭部に手を回すと、自分の肩へと抱き寄せた。
「わっ。」
上半身を起こしていた高梨はその勢いで荻窪の上に倒れこみ、荻窪の横顔を見上げ驚きと言葉にできない高潮感に鼓動を高鳴らせた。
「これからきみが、出社することを考えると……、こうしていられる時間はあまりないのは分かっているんだが……。」
すう、と息を吸い込む音が聞こえたと思ったら、「夢じゃないことを確かめたかったんだ」と照れくさそうに言って、荻窪の手が離れていく。
高梨は身体を起こすと、離れた荻窪の手を掴み、自分の口元へと寄せてその指先へ口づけを落とした。
荻窪への約束と自分の気持ちを込めた、口付けだ。
「仕事は忙しいですけど、僕は先生のところにまた戻ります。」
いまはそれが精一杯だ。ただ、もう、なにか口実を作らなくてもいいことが分かる。荻窪はもう、自分を拒絶しないと分かるから。
高梨は荻窪に向かって薄く笑うと、今度は起きるために身体を起こした。
「先生、雨戸を開けましょう。」
源氏襖の向こう側へと視線を向けた高梨に、荻窪は小さく頷いた。もそりと起き上がった荻窪の、いつもは見ることのないはだけた寝巻の袷に目が釘付けになる。
しっかりとついた筋肉は、いったいなにをしたらつくのだろう。高梨の視線に気が付いたのか、荻窪は、す、と寝巻の袷を直すと、いつものように着替えようとし──、高梨を振り返った。
「雨戸を開ける前に着替えようと思ったんだが……、きみは着替えがなかったんだな。」
ふむ、と少し考えた荻窪は、私室の押入れを開けて中から行李を引っ張り出す。その中から白い詰襟シャツを一枚、それからいつもの薄紺色の着物を出して高梨に手渡した。
「このシャツは私が学生の頃に着ていたものでね、いまよりは少し小さいと思うのだけど……。」
そう言って広げられたそれは確かに、いつも荻窪が着ている着物よりは小さかった。しかし、高梨が着るには幾分大きいような、そんな大きさで、高梨は思わず笑いだす。
「先生はお若いときから大きかったんですね。」
シャツを手に取った高梨が、躊躇いもせずに寝巻の帯を緩めると、ぱさりと音を立ててそれを脱ぐ。高梨の白く痩せた身体が顕になって、荻窪は困ったように眉を寄せて顔を背けた。
高梨はそれに気が付かないまま、改めてシャツを羽織ってみれば、確かに大きい。
「きみは……、少しは警戒しなさい。」
そう言いながら荻窪は、高梨が羽織ったシャツの釦を、留めていく。その手はどこか落ち着かなく、震えてもいた。ひとつずつ嵌めていく釦を時折閉めそこねるそれが、荻窪の気持ちを代弁しているように見える。
「薄暗いといえども、見えないわけではないんだぞ。」
付け加えられた高梨は、思わず荻窪の顔を凝視した。荻窪のその言葉に慌てたように着物を羽織ると、帯を締めてからシャツを整える。
まるで書生のようだな、と思いながら、高梨は自分の姿をまじまじと見た。
「先生、僕、先生の書生みたいですね。」
学生時代に着ていた荻窪のシャツという新しい私物を身に付けた高梨は、少し大きいながらもそれなりに着こなしている。荻窪が学生時代に着ていたというシャツが、着物から伸びた高梨の腕を、手のひらまで覆い隠していた。
荻窪が学生時代に着ていたというシャツと言う割に、そこまで傷んでいないのはこまめに手入れしているからだろうか。
「雨戸を開けに行こうか。」
荻窪もいつもの着物に着替えると、源氏襖を音もなく開けた。雪見障子から漏れる淡い陽射しを、目で追いながら先に行く。
「はい。──あ、ちび、きみはまだ寝ているかい?」
高梨は布団の上に長くなって眠るちびにそうひと声かけると、荻窪の後を追った。
いつものように、雨戸を開ける儀式のように、一枚一枚丁寧に戸袋へと送る。高梨はそんな荻窪の姿を見ながら、不思議に思っていたことを口にした。
「先生はいつも、雨戸を開けるときや閉めるとき、まるで祈りを捧げているように見えますね。」
その言葉に手を止めた荻窪が高梨を見やり「ああ、これか」と気がついたように薄く笑みを浮かべる。荻窪は遠い昔を思い出すかのように、切れ長の瞳を細めるとふと、うつむいた。
「これは、私の母が昔、父の安全を祈っていたときにしていたことなんだ。」
今日一日、あなたが無事でありますように。そう願いながら雨戸を開けて、明日一日、あなたが無事でありますように、と雨戸を閉める。
しかし、荻窪の父は戦地から戻ってくることはなかった。幼い頃の話だよ、とは言っていたが、荻窪が浮かべた笑顔はどこか悲しそうに見える。
荻窪のあの雨戸を開け閉めするときのあの祈りのような仕草は、亡き母の面影を真似たものだった。
高梨はそれを知って、なにも言えなくなる。自分の母には、そんな姿を見たこともなく、そういった仕草もしたことがなかったからだ。
それだけで荻窪の母がどれほど愛情深かったのか、知れるというものだ。
自分の母とは違う。
高梨は荻窪の優しさの根底を見た気がした。こんなふうに家族を思う荻窪のいまといえば、一人だからだ。いつも使っている部屋以外は静まり返った、誰もいない部屋だけが息づいている。
高梨はふと、荻窪は亡き両親の話をしてくれたが、いまは、誰を思って雨戸を開け閉めしているのだろうか。
高梨は荻窪の隣りに立って、彼の真似をしてみる。一枚一枚に祈りを込めて、戸袋へ送り込んではまた祈る。この古びた雨戸は、荻窪の母と荻窪の二人分の祈りを受けていた。
家を守っている雨戸に、高梨もそっと手を伸ばす。
知らなかったこの家の姿を垣間見ることにより、台所から見える暗がりの廊下の向こうには、在りし日の両親がいたのかもしれない、そう思えた。
二人で雨戸を開け終えると、ようやくちびが寝起きの顔で現れる。「早くあたちのごはんを用意しなさいよ」とでも言いたげな顔を荻窪に向けると、立てた尻尾をゆらゆらと揺らした。
──宵闇の明け、凪の朝。




