第二十一章 白檀の檻、雨夜の体温
雨が降る。雨粒が屋根を叩き、外の音をかき消していた。まるでここには、二人しか存在していないかのように。
高梨は荻窪に押されて先に、風呂に入っていた。家の風呂はいつも急いで沸かしていたからぬるかったし、銭湯ではゆっくりと浸かる時間もない。気にしなくていいから、と送り込まれた風呂場は、木桶の風呂に洋風のタイルの壁が印象的な和洋折衷だった。
身体が温まるほどの温度が心地よく、まさか荻窪自らこうして沸かした風呂に浸かっている、というなんとも言えない背徳感を覚える。
ゆっくり入ってきなさい、そう言って風呂場に来てから高梨は、家とはまた違う匂いにつられて、湯船に身を任せていた。
荻窪がいつも使っているであろう、その石鹸をそっと手に取る。使いかけのそれを自分も使う、そのことが妙に鼓動を速くした。
高梨が自ら購入したあの白檀の石鹸と同じものなのだろうか。そっと手に取ったそれを、鼻を寄せて匂いを嗅いだ。いつもの荻窪の匂いが、濃く鼻先をくすぐってくる。それは高梨にとってあまりにも甘美な香りで、ふと倒錯した思考が脳裏をよぎった。
この匂いに包まれているだけで、まるで荻窪本人に包まれているかのような、そんな気持ちになる。
高梨はのぼせる前に湯船から出ると、ゆっくりとその石鹸で身体を洗い始めた。足の先から爪の先までが、あの白檀の香りに包まれていくそれがなんとも心地良い。
風呂場の鏡に写った自分の顔は、頬が紅潮してとても風呂で熱くなったなんて言い訳が通用するような、紅さではなかった。
手ぬぐいでそっと首を洗えば、荻窪の手の感触を思い出す。扇風機がもたらしたあの夏の日のことだ。掴まれた首筋はまだ、その感触を覚えていた。
高梨は桶で手ぬぐいをすすぐと、何度か身体に湯を掛けて泡を洗い流した。もう一度湯船に浸かると、まもなく、荻窪が静かに姿を現して、手にはなにか白っぽいものを持っているのが見て取れる。
着替えを置きに来てくれたのだろうか。
高梨はそんな荻窪の姿をじっと見つめた。声をかけるでもなくそこに立つ荻窪は、なにをしているのだろう。そろそろ上がろうか、と思いはするものの、なかなか動かない荻窪に高梨はどうしていいのか分からなかった。
ぱしゃりと顔を覆う。
その音に気が付いたのか、荻窪が手に持っていた白っぽいものを着替えの籠の中に置くと、急いで風呂場を後にした。
ああ、着替えを持ってきてくれたのか。そうは思うものの、さすがに荻窪のことを考えていた自分としては、見透かされたようで恥ずかしかった。
辺りを気にしながら出ていくと、すでに荻窪の姿はそこにはなかった。
その代わり、いつも貸してくれていた着物の大きさではなく、荻窪が着るような大きさの寝巻が置いてある。
手ぬぐいで身体を拭いてからそれを羽織ってみると、やはり、大きい。
かすかに白檀の残り香が漂ってきて、高梨はこれが荻窪本人の寝巻であることを確信した。いつもの着物と同じ大きさの寝巻を持ってこないのは、荻窪なりに気を使ったということなのだろうか。
先ほど、風呂で石鹸の匂いを嗅いだときよりもさらに強く、高梨は荻窪に包まれているような感覚に囚われた。
しかも、大きい。
袷を手繰り寄せても、全身を包まれているようで落ち着かなかった。
高梨はそろそろと廊下を歩きながら居間へと向かう。居間に顔を出せば、荻窪が卓袱台に向かってお茶を啜りながら座っていた。
「荻窪先生、これ、僕には少し大きいようで……、」
背後からそう声を掛ければ、慌てたように振り返る荻窪の視線が落ち着かない。喉仏が上下に動いたのが見えたと思ったら、早口で「温まれたようで良かったよ」と返された。
「先生も、お風呂をどうぞ。僕が先にいただいてしまって申し訳ありません。」
高梨はそう言うと荻窪の斜向かいに座り、持っていた手ぬぐいで髪の水分を丁寧に拭く。
いつもしているように、丁寧に。
それこそ、荻窪の雨戸を閉めるあの動作が一種の儀式なのだとしたら、高梨のこの所作も儀式のひとつになり得るのかもしれない。
少しだけ首を傾げ、水分を拭き取るこの動作に、荻窪の視線が刺さる。なにかおかしなことをしているだろうか、高梨は不思議に思って荻窪を見上げた。
「高梨くん、それじゃ、私も入ってくるから、眠くなったら先に寝てていい。場所は知っているだろう?」
いつになく、早口になった荻窪の言葉に意識を向けた高梨は、髪を拭いたままちらりと見やる。
「はい。でも、お待ちしていますよ。」
荻窪の表情は、「寝ててくれたほうがいいのに」とでも言っているかのようだった。
高梨はそんな荻窪に薄く笑う。彼はきっと感じ取っているはずだ、高梨がいつもとは違うことに。
だからこそ、いつもは見せない落ち着きのなさが顕著に現れているのだろう。
高梨が丁寧に髪の水分を拭き取ることには、理由があった。この髪は細くて、乱雑に扱うとすぐに傷んでしまう。
ある程度は水分が拭き取れただろうか、自分の髪に指を通して確認してみる。まだ少し湿り気を帯び、あと少し拭いておくか、と高梨はまた手拭いで髪を拭いた。
ふと、居間に掛かっている古時計に目を向けると、荻窪が風呂に行ってから随分時間が立っている。高梨はもしかしてのぼせているのか、と心配になり風呂場へと向かった。
「先生? のぼせてはいませんか?」
風呂場と脱衣所を仕切る曇り硝子扉に手をかけて、高梨がそう声を掛ける。
「あ、ああ、もう上がるよ。」
いつもの声色がして、風呂から出た音がしたと思ったら、そのまま曇り硝子扉がすぅ、と開いた。
高梨は心配げに荻窪を見上げたが、普段、あまり外に出ない分確かに色白の部類ではある方だ。
だが、しっとりと全身を覆う筋肉が見て取れる。ぽたりと髪の毛から落ちる雫に、高梨は、は、とする。
あまりにもじろじろ見すぎたか、そう慌てて高梨はあえて明るく声を上げた。
「先生、お体が真っ赤じゃないですか。」
そう言って小さく笑うと、てきるだけ自然に背中を向ける。荻窪の肉体を見すぎたことを、おかしく思われなかっただろうか。
「早くお体を拭いてくださいね。僕は冷たい飲み物を用意しておきますから。」
台所に向かって、真鍮の蛇口を捻って水を出す。
やかんに汲んでお湯を沸かしてから、高梨はいつものようにお湯の温度を下げていった。
荻窪が身体を拭いて寝間着を羽織り、髪の毛を乾かしている間に高梨はその準備をする。
居間に持っていって、卓袱台に置いて座ったところで、膝の上にちびが乗ってきた。「今日は帰らないのよ?」とでも言いたげに見上げてくる、玻璃のような青い瞳。
高梨はその背中をゆったりと撫でた。
それからしばらくして、ようやく荻窪が居間に姿を見せる。
膝に丸まったちびは、そのまますぅすぅと寝息を立てていた。
「先生、冷えたお茶を用意しましたよ。」
ちびを起こさないように、視線だけを高梨に向ける。す、と視線を上げると荻窪の瞳とかち合った。
「あ、ああ、ありがとう。」
いつも荻窪が座る場所に置いてあるグラスを手に取ると、そのままひと口飲み込んだ。そして、おや、というようにグラスを見てから、高梨を見た。
「……落ち着いたら、寝ましょうか。ちびもだいぶ眠たそうですし。」
そう言われた荻窪の手が小さく揺れて、何事もなかったかのように、グラスを握り直した。
屋根を叩く雨音が先程よりも激しくなっている。
「そうだね。……雨もだいぶ強くなってきているし。」
荻窪も屋根の音につられるように上を見上げると、グラスの中のお茶を全部飲み干した。
「温かくして寝ないと、風邪を引きそうですね。」
高梨は相変わらずちびを撫でたまま、荻窪には視線だけを向けている。
「なら、掛け布団を一枚増やそうか。」
そう言って荻窪は、足早に逃げるように書斎の奥に続く私室へと行ってしまった。
高梨はそっとちびを膝から下ろすと、慌てて荻窪の後を追う。
「あ、先生、僕もお手伝いしますよ。」
廊下に出る瞬間ちびを振り返ると、高梨が座っていた座布団の上に乗って寝直すところが見えた。
縁側の廊下を抜けて書斎に入り、源氏襖を開けるとそこには荻窪が押し入れの前に立っている。
無防備な背中をこちらに向けて、布団を探しているその後ろ姿に、高梨は抱きつきたい衝動に駆られた。
「先生、これを敷くんですか?」
傍らに置かれた布団を見下ろしながら、高梨がそう話しかける。
ひくりと揺れた荻窪の肩が、驚いたように振り返った。僅かに動きが一瞬止まる。
荻窪の見開かれた瞳には高梨が映っていて、気持ちがもう抑えきれないと悟った。
「先生、僕、先生を食べようなんて思ってませんよ。」
──むしろ、先生が僕を手放せなくなればいいのに。
ふとそんな考えが頭をよぎる。高梨は荻窪を射竦めるように見つめたのか、それとも荻窪が観念したのかは分からない。
荻窪が高梨の目の前で布団を落としてへたり込み、自身の顔を見せたくなかったのか隠してしまった。
高梨はそんな荻窪の手首をゆるく掴み、ささやいた。
「先生。」
緊張と急く気持ちがせめぎ合う。いまここで荻窪を逃してしまったら、二度と彼は自分を受け入れてはくれないだろう、高梨は直感でそう感じた。
荻窪が纏う空気を固くする。
「先生、怖がらないでください。」
そっと近づく。
荻窪の手首をゆるく掴んだまま、高梨は距離を詰めた。荻窪の様子を見ながら、言葉を選ぶ。
手首を掴んでいたのは、耳を塞がれたくなかったから。
「僕、先生に伝えたいことがあるんです。」
その瞬間に荻窪が顔を上げ、高梨を凝視した。その表情は恐怖に満ちて、いまにも叫び出しそうに見える。
お願い、怖がらないで。
声を聞いて。
高梨は荻窪の瞳を見つめた。
「僕、先生にずっと……魅せられているんです。」
もう、どうしようもなく。
荻窪しかいらないと思うほどに。
高梨はそのまま、荻窪の唇に自分のそれを重ねた。
ほんの一瞬だけ温もりを感じたらすぐに離れる。
──どうしようもなく、先生がほしいんです。
高梨は困ったように、薄く笑った。自分でも泣きたいのか、微笑みたいのか分からない、感情を持て余す。困らせているだけだと分かっているのに、抑えきれない。
伏せた睫毛が小刻み震え、拒絶されることを恐れている。
突き放されたら、どうしたらいいのだろう。
高梨は自分でも止められないほどに、身体が震えていた。
駄目かもしれない。
そう思った瞬間に、荻窪の切れ長の瞳からぼたぼたと涙が溢れ出て、そのままきつく抱き込まれてしまう。
背骨が軋み、息が詰まる。
それなのに、高梨はそんな荻窪の体温を感じて心が震えた。
「……私も、きみに魅せられている。」
掠れた声が聞こえた。
それは本当なのだろうか。空耳ではなく、本当にそう荻窪が言ったのか。
高梨は彼の背中に手を回して、負けじときつく抱きしめた。このまま皮膚も何もかも溶けてしまえばいいのに、と思ったのは初めてだった。
白檀の香りに包まれて、荻窪の体温を感じることができるなんて、高梨にしてみれば夢のようだ。
自分のエゴをぶつけたのだから、荻窪に拒絶されてもおかしくないと思っていた。
それなのに、荻窪は受け入れてくれた、たとえそれがいまも荻窪の中に過去の人がいたとしても、それでよかった。
いまはただ、荻窪の手のひらの感触が、指の強さが背中を抱きしめるその強さを知ることができただけでいい。
高梨が焦がれた荻窪の腕の中にいま、自分がいる。
この大きな身体に包まれたいと、願っていた。
「高梨くん、きみは……、私でいいのかい?」
荻窪が高梨の顔を覗き込む。確かに荻窪は高梨よりも年上だ。そして、まだ言葉にできないほどの過去を持っている。
それでも、高梨はかまわなかった。荻窪が自分をこうして抱きしめてくれるのなら。
「先生が僕でいいのなら、僕は先生がいい。僕はこの手が好きです。」
高梨がそう言って、荻窪の手に触れる。頬に当ててそっとすり寄せた。大きくて無骨で、優しい手。
無骨なその手に触れて、高梨は首元にその手を当てた。
荻窪の手が、まるで自分を束縛する首輪であるかのように。
──捕まえていてください。
言葉にはせずに、視線を向けた。
荻窪は完敗したように、少しだけ切れ長の瞳を細めてから、高梨の額へと唇を寄せる。
高梨は、それがまるで答えのように思えた。
──白檀の檻、雨夜の体温。




