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第二十章 掴めぬ折は、ないのも同じ

 おぼろ雲が浮かんでいるのが見えた。もうすぐ雨が降るのかもしれない。高梨は編集部の窓から見える空を、仰いでいた。


 日暮れ間近の夕方に、なんとなく荻窪が気になって立ち上がる。


「おう、原稿頼んだぞ。」


 編集長がそう呑気に声をかけてきたが、高梨がどこに行こうとしていたのか分かっていたのだろうか。


 よく分からないままに置き傘を手に取ると、そのまま「行ってきます、そのまま直下します」と声をかけて編集部を後にする。


 編集長に乗せられた気がしなくもないが、高梨はいつもの癖で荻窪の家に向かう電停に佇んでいた。


 白狐はお前だ、と突きつけられたような気がして以来、必要最低限しか荻窪の家には行っていなかった。気持ちの整理ができていなかったからだ。


 そもそもが迷惑をかけたくなかったし、荻窪に心の内を伝えるにしても、整理しないと伝えられない。だが、なにを整理していいのか分からなかった。


 この想いがなんなのか、それに見合う言葉が見当たらない。尊敬している、敬愛している。好き、恋している、愛している。そのどれもが違う気がした。


 もっと純度の高い蜜にも似た、「なにか」とでもいうのだろうか。


 路面電車が相変わらず軋んだ音を立てて、電停に停まる。高梨は躊躇うことなくそれに乗り込んだ。いつものように遠くの景色を眺めるように、空を見やる。


 近場の景色はまるで仕事に追われる自分自身で、遠くの景色は荻窪のようだ、とふと思った。


 自身の日々の律動を大事に生きる彼のそれは、高梨から見ればなにかの儀式のようだ。


 なにかを守る儀式なのか、それとも己を律した儀式なのかは分からない。ただ、高梨から見るそれは、荻窪の大事なひとつであることは間違いないだろう。


 いつものように荻窪の家がある電停で降りた高梨は、薄暗くなってきた曇天から大きな雨粒が降ってきたことに気がついた。


 手にしていた洋傘を開いて荻窪の家まで歩いていけば、玄関には鍵が掛かっている。ちびの物音も聞こえてこないということは、どこかに出かけているのだろうか。


 玄関の傍らに置いてあった番傘を手に取ると、高梨は来た道を戻っていく。ちびと出かけたのなら、遠くまでは行かないはずだ。


 おそらくは香世の店に行ったのだろう。高梨は目星をつけて歩き出した。


 荻窪の家から香世の店までは、そんなに遠くはない。その間にも雨はどんどん本降りになり、高梨の足はどんどん早くなった。最終的には泥はねにも気が回らずに、駆け出した。濡れているかもしれない、そう思うと落ち着かない。


 香世の店が見えてきたとき、高梨はここにいなかったらあとはどこを探せばいいのか分からないことに、苛立ちを感じた。


 店先に立つ荻窪の姿とその腕に抱えられているちびを見つけた高梨は、それこそ一目散に駆け寄った。


「先生!  荻窪先生! ここにいらしたんですね!」


 呼吸が上がり、息を整えるのにしばしの間を置いてから、高梨は「家にいなかったから、探しましたよ」と告げる。


「ああ、高梨くん。来てくれたのか。」


 薄く微笑んだ荻窪の、切れ長の瞳が弧を描く。


 ちびを濡れないように懐に抱き、自身は濡れていてもお構いなしだ。


「こんばんは、香世さん。」


 高梨が香世に気がついて、頭を下げる。荻窪の手のひらの中にいるちびにも「こんばんは」と声をかけて頭を撫でた。


 そんな光景を眺めていた香世が、懐かしそうに目を細める。なにか、昔を思い出すかのような表情を浮かべたあと、ぼそりとこぼした。


「あんたもさ、昔は猫が苦手だったのにね。」


 荻窪を見てそう言う香世は、そっと目を伏せる。懐かしさとともになにか、感傷的な色が浮かんだ。そうしてすぐに手にしていた弁当を高梨に押し付け、「お代は次に来たときにしっかりもらうからね」と背中を向ける。


 高梨はその押し付けられた弁当へと目を向けると、なにか言いたげに荻窪を見上げた。しかし、その目はすぐに伏せられる。


 高梨は香世のその言葉に、冷たい塊がごろりと喉を伝って、鳩尾に落ちていくのを感じた。


 それはどういう意味かと問いかけたくなるが、喉が詰まって声が出ない。そんな高梨をよそに、荻窪と香世の会話はどんどん先へと進んでいく。


「ああ、香世さん、すまないね。今度来た時お代を上乗せするよ。」


 荻窪は店の中に戻っていく香世の背中にそう声をかけると、改めて高梨に向き合った。


「なんとなくね、きみが来ると思っていたんだ、だから二人分の弁当を頼んだんだよ。」


 穏やかな荻窪の声が、ゆったりと高梨へと刺さる。来ると思っていた、そう思っていてくれたのは嬉しいはずなのに、香世の言葉が気にかかった。


 荻窪は最初から猫が好きなわけではなかった。


 では、なにが、もしくは、だれが彼を猫好きにしたのか。


 誰が彼に、猫を教え好きにさせたのか。


 高梨は手のひらを握りこんだ。



「ありがとうございます、先生。それじゃ、傘、これを使ってください。」


 高梨は剥がれかけた「編集者」の仮面を無理やり押さえつけて、荻窪に向かってにこりと笑う。


 高梨は自分が使っていた傘を一度置くと、荻窪のために持ってきた番傘を開いてから彼に手渡した。


 荻窪が傘を差すのを見届けると、高梨は置いていた自分の傘を手に取り、深く差す。笑顔を保てないからこそ、傘で隠した。傘の柄を握る自分の手が、震えてはいないだろうか。高梨はふと不安になる。荻窪は案外聡いから、そういうところにすぐ気が付かれてしまうことが多かった。


 香世の店からの帰路、なにかを話したほうがいいのかそれとも――黙っていたほうがいいのか。しかし話せることはあまりなく、また、いつもはなにを話していたのかさえ覚えていなかった。


 言葉を探すことが、こんなに難しいものだっただろうか。


 ただ、ちびの喉なりの音だけが、雨の音に混ざって響いていた。


 家の中に入ると、荻窪はまずちびの首輪に結んだ牽き綱を外す。ちびはその途端、家の奥へと走っていってしまった。水を飲みに行ったのか、それとも寝床に行ったのかは分からない。


 荻窪がなにかを言いたそうに高梨を見て、少しうつむいた。なにかを言われる前に、高梨は荻窪にわざと明るく「先生、せっかくなんで早く食べましょう、ちびにもごはんをあげなくちゃいけませんしね」と笑う。


「ああ、じゃあ、先に居間のほうへ、行っていておくれ。私は少し濡れてしまったから着替えてから行くとするよ。」


 荻窪は高梨の言葉に頷くと、履いていた下駄から素足を抜き、下駄箱の上に置いてある手ぬぐいで足を拭いた。


 そのまま私室へと向かうのだろう、高梨をちらりと見ると奥へと消える。


 高梨も荻窪を見送ると、手に持っていた弁当を居間の卓袱台に置いた。ちびの分まで小さな弁当箱に入れてくれている香世の、心遣いは温かいものだ。


 その匂いにつられたのか、ちびが姿を見せて、高梨の足元にすり寄ってくる。いつものお椀にちびのご飯を盛り付けてから、いつも食べている台の上にお椀を置いた。


 ちびが待ってましたとばかりに食べ始めると、高梨はしゃがみ込んでそれを眺める。


 はくはくはく、と食べる音が聞こえる中、高梨はちびにだけ聞こえるように小さな声で囁いた。


「先生、猫が苦手だったって、知ってたかい?」


 そんな素振りなんて見せたことなかったくせに。


 高梨はちびがご飯を食べる姿をただ、見つめていた。


 ぎし、と古板の軋む音がして振り返れば、そこには着替えを終えた荻窪が立っていた。手には手ぬぐいと高梨のための着替えなのだろう、着物を持って。


「高梨くん、きみも着替えたほうがいい。」


 そう言って荻窪は、手の中に持っているものを高梨に手渡した。


 す、と手を伸ばした瞬間に、荻窪が付け加える。


「洗面所で着替えておいで。」


 高梨はそれを聞いた瞬間、また一線を引かれたと気がついた。近づいたと思えば遠ざかる、手を伸ばしたと思えば、一線を置かれる。洗面所というある意味共有の場所の指定は、初めてだ。


 もどかしくて仕方がなかった。


 洗面所、といういままでとは違う場所の指定も、どこか遠ざけられている気がしてしまう。


「あ……りがとうございます。」


 それでも、高梨は言いたいことを飲み込んで、着替えを受け取った。


 荻窪家の洗面所は、台所から見える廊下の奥にある。ずっと気になっていた奥の廊下を静かに抜けたその先に、洋風の洗面所が現れた。タイル張りのそれは、荻窪の趣味ではなさそうだ。そういえば、台所の電灯傘もこの洗面所に通じるものがある。


 誰の趣味だったのだろう。


 高梨は背広を脱ぎ、白いシャツを脱ぎ、辺りを見回した。鏡に映る自分の顔を見つめれば、どこか不安そうだ。疲労によるものなのか、青白さが際立っている。これじゃ、荻窪が書く怪談に出てくる物の怪のようだ、と高梨は自嘲した。


 雨が洗面所の格子窓を強く叩く。梅雨の嵐か、高梨は格子窓に目を向けた。


 雨粒がびたびたと硝子窓を叩いていく。ひと粒ひと粒が硝子を伝って流れ落ちていった。


 高梨はもはや定番となった、薄紺色の着物に袖を通す。誰かが着ていた痕跡はなくとも、大きさが明らかに違うことは確かだ。荻窪の着物ではない、ただそれだけは確信できる。


 袖を掴んでたるみを直せば、わずかに大きさの差はあれど荻窪のものではないことは、はっきりと分かった。


 しゅ、と音を立てて帯を結べば、自然と背筋が伸びてくる。そうして、荻窪が待つ居間へと向かった。背広はとりあえず、洗面所の衣紋掛けを借りて掛けておく。どちらにせよ、洗濯屋に出さなきゃならないことは確かだ。


 居間に顔を出せば、荻窪がちびと向き合いながら座っていた。特に何をするでもなく、見つめ合うひとりと一匹。高梨はそんな光景を目にして、思わず足を止めた。


「なにしているんですか?」


 その声に顔を上げた荻窪は、「ちびが大きくなったなと思ってね」と笑う。玻璃のような青い瞳を高梨に向けたちびは、荻窪との無言の会話を終えたのか、真っ直ぐに歩いてきて、脚に身体を擦り付けた。


「香世さんのお弁当を食べようか。」


 荻窪が卓袱台へと向き直る。いつものように、いつもの場所へ弁当を置かれた高梨は、荻窪の生活の中に自分がいないわけではないのだと、痛感させられた。


 それならなぜ、こんなにもはっきりと一線を引かれるのだろう。


 踏み込まれたくない領域を守るためなのか、それとも傷つけたくないからという理由で一線を引かれているのか。


 高梨は弁当を口に運びながら、荻窪という人間のことを考えていた。


 食後には、いつものように高梨が渋みの利いたお茶を淹れる。荻窪はそのお茶を啜りながら、ゆったりと弁当を食べていた。


 いつものようにちびだけが「この座布団はあたちのもの」と勝手に決めた座布団で、仰向けに寝転がって眠っている。荻窪がそのお腹の呼吸を見つめて、小さく微笑むのが見えた。


「先生……僕が質問をしたら、答えをくれますか?」


 湯呑みを両手で触りながら、高梨が口を開く。答えてくれるかどうかは、正直、半々だ。――いや、答えてくれない可能性のほうが格段に高い。


「どんな質問がしたいんだい?」


 落ち着き払った荻窪の声が少しだけ、いつもよりも上ずっていた。しかし、ひたりと高梨に据えた視線は、「場合によっては答えない」とでも言っているかのようでもあった。


 そうやって荻窪はいつも高梨を、自分の世界の外側に追い出そうとしている。


 それでも構わない。


 高梨は座り直すと、荻窪の視線に負けないように、手を握りこんだ。


「先生は、猫が苦手だったんですね。僕は、ちびの面倒を見てる仕草から猫が好きなんだと思っていました。」


 ごくりと喉が鳴った。


「先生を……猫好きにしたのは……どんな方だったんですか? いつも僕に貸してくれていたあの着物の持ち主では、ないんですか?」


 高梨は荻窪が黙って聞いている間に言ってしまおう、そう思って早口になる。


 荻窪の手がぴくりと震え、湯呑みを手に取ったのが見えた。彼にとっては予想外の質問だったのか、切れ長の目が小さく揺れる。


「……どうして、そんなことが気になるんだい?」


 まるで、答えを探すかのような問いかけに、高梨は荻窪を逃さないように見つめた。ここで踏み間違えば、おそらくこれから先、荻窪は二度と高梨を受け入れることはないだろう。


「僕は……、けっこう長く先生と居ると思っています。でも、先生は一度も僕に心を開いてくれたことがない。そうじゃ、ありませんか?」


 ずっと思っていた。仲良くしてくれているようで、肝心なところでは踏み込ませない。一線を引いて退いてしまう。かと思えば、「来ると思っていた」などと、期待させるようなことを言うこともある。


 こんなに振り回されてもなお荻窪に手を伸ばしてしまうのは、高梨にとって彼が唯一だからにほかならない。


「先生、僕じゃ頼りないですか?」


 歳下だから頼りないのか、それとも。


 ただの編集者だから、頼りたくないのか。


 高梨はぎり、と奥歯を噛み締めた。


 ここで荻窪を手放したくない、高梨は無意識にそう思った。


 荻窪の手が高梨に向かって伸ばされて、それは躊躇いがちに落ちていく。


 眉根に皺が刻まれ、なにかに困惑したようにため息を吐き出した。


 その手を掴んで引き寄せたところで、荻窪は逃げてしまうだろう。いつもそうだったように、波のように引いて、また気まぐれに寄せてくるだけだ。


 高梨の中で、なにかが変わる音がした。荻窪を求める自分の、強い渇望を認めざるを得なかった。


 荻窪が困ったように俯いてしまうのを見ながら、高梨は引き下がれないと思う。だって、あの着物の持ち主にも、写真立ての主にも、出会ったことがない。


 ただ、荻窪がほしい。


 今日を逃したらだめだ、高梨は本能でそう嗅ぎ取った。


「先生、今日、僕もこの家に泊めてもらってもいいですか? 書斎ではなくて──先生の私室に。」


 声が震えるのを止められなかった。断られるかもしれないと、そう感じて。それでも、縋りつかずにはいられない。


「きみは……、」


 困惑した荻窪が、駄目だといえばこれ以上は高梨もなにも言えなかったが、しばしの沈黙のあと荻窪が頷いてくれたから。


 高梨はほっと安堵の笑みを浮かべた。


 生まれて初めて高梨が、この人が欲しいと思った瞬間だった。




 ──掴めぬ折は、ないのも同じ。

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