第十九章 芽吹く青菜と、染み入る寂寥
ふとした時に、風に温もりを感じるようになり、土が緩む。ふきのとうが雪の隙間から顔を出す。人々は相変わらず雪駄を履いてはいるものの、寒さに身を震わせる日々が少なくなってきた。
高梨はいつものように出勤するため、電停に佇んでいた。風の冷たさは身体の端から熱を奪っていく。路面電車のレールの周りに敷かれた石畳の砂利を踏みつけた高梨は、冷えた指先に視線を落とした。
少しだけ物憂げに洋袴のポケットに手を突っ込んで、ぼんやりと路面電車が来るのを待つ。
いつものように頭の中で今日の予定を立てながら、先日の荻窪の怪談を思い出していた。
白狐が猟師に撃たれる話だ。荻窪が書く話はいつもどこか、淋しさと悲しさが残る。白い毛並みの生き物はどうしても、感情移入の度合いが強くなってしまって、仕方がない。
白いキツネがどこか、ちびと重なって見えてつい感情的になったのは否めない。
「先生、残酷ですね。」
それが一番最初に飛び出した感想だ。荻窪はいつも残酷だ。分かっていて突き放すのだから。
せめて救えなかったのだろうか、このキツネを。人間を助けたこのキツネ、ただの気まぐれだったかもしれない、それでも、一宿一飯の恩義と言うじゃないか。なぜ助けられた人間は、白狐のことをこの猟師に話さなかったのか、といつになく悔しさがこみ上げる。
「それじゃ高梨くんは、なぜあのキツネは男を助けたんだと思うんだい?」
いつもと変わらない荻窪の声が、その日に限って腹が立った。自分の心がささくれているのはよく分かっていたけれど、止められなかった。
なぜキツネが男を助けたのか――あの軽妙な笑い方はただのおふざけだった可能性もある。だけど、あの白いキツネが何も知らない若い個体だったとしたのなら。それでもなお、荻窪は見捨てるというか。頭では理解していた、それが自然の摂理なのだと。でも、だけど。その言葉が頭の中を埋め尽くしていく。高梨はただ、物語の中に出てきたあの純粋な白狐に、生きる道を残してほしかった。
あのキツネが若い個体で、人間を怖いものと認識していなかったのなら、なおのこと。
だから、高梨はいつになく感情的だった。
「無知は罪じゃない。だけどね、知ろうとしないのは罪なんだよ。」
キツネは無知だったと言いたいのだろうか。それとも、無知なのは自分だといわれているのたろうか。そうだとするなら、今の自分は荻窪から見たら無知なのだろう。
猟師に殺されたキツネが自分と重なって見えた。猟師が荻窪で、白狐が自分。恐ろしいと思わずに近づいて、猟銃で心臓を撃ち抜かれて死んでしまう、無知な白狐――。
「でも先生、救えた道もあったでしょう?」
荻窪の声が、凍てついた矢のように、突き刺さる。高梨の心に突き刺してくるこの冷えきった矢は、一体何本目になるのだろうか。容赦のない冷たい視線が高梨の言葉を氷漬けにしてしまう、荻窪にとってそんなことはきっと意ともたやすいことなのだろう。
思わず胸に手を当てた。その矢は真っ直ぐに高梨の胸に、迷いなく突き刺さるからだ。そして質の悪いことに抜けてくれはしない。今もなお、記憶にはっきりと焼き付いた、荻窪の芯の揺るがない冷えた視線を思い出せる。
「救えたとして、だ。厳しい冬を乗り越えるだけの力があったかどうかは別だろう。」
ゆっくりと高梨に向ける視線はひたりと止まる。凛と通った低い声は、いつもと違って、穏やかさは消え失せていた。そこにあるのは、事実だけだと言わんばかりに。
その冷たさたるや、背骨が氷に置き換わってしまったかと思うほどだ。確かにそのとおりかもしれない、キツネは冬を越せなかったかもしれない。それでも、彼女は自分の獲物を人間に与えて助けたのに――。あの軽妙さが、幼さを示していたのだとしても。
むしろ、その行為そのものが冬を越せなかったのかもしれないとしても。それでも。
喉の奥に詰まる感情は抜けてはくれなかった。
ぐ、と言葉を飲み込んだ高梨は、原稿を持つ手が震えていたことに気がついて、ゆっくりと息を吐いて落ち着こうと努力する。
吐く息さえも震えていることに、高梨は自分で感情移入しすぎたと思った。分かっているのに、どうしても止められなくて、言葉を紡げない。落ち着かなければ、こんなに感情を剥き出しにしては、だめだ。
その時、す、と文机から立ち上がった荻窪が、高梨の肩に手を添える。落ち着くように、ゆっくりと撫で下ろす。そのゆっくりとした動作は高梨の気持ちに寄り添い、温かみを与えてくれた。だけど、この手があの残酷な話を紡ぎ出したことを思い出してしまう。
「すべてを助けることはできないんだ。でもね、救える命もあるんだよ、分かるだろう。」
荻窪が、先ほどとは打って変わって静かな声で、そう諭すように高梨に告げた。
――僕はどっちなんですか?
救えるのか、救えないのか。そう問いただしたくなったが、そもそも問うのが間違えていることは分かっている。荻窪がちびを救ったように。だけど自分が荻窪の傍にいるのは、あくまで仕事だ。彼が自分にも同じように手を伸ばしてくれるはずが、ない。
いつも優しい荻窪の無骨な手が、その日はとても痛かった。触れられるそこから、冷えていくような気さえした。温かいその手が、冷たく感じたのは気のせいではないはずだ。高梨の心がそう、感じ取っていた。
高梨は自分の肩に手を添えると、荻窪がしたように撫でてみる。あの時のように冷えた痛みは感じなかったけれど、心に沈んだ鉛は冷えきったままだ。
なんでこんなに重たいのだろう。
飲み込んでも喉に仕えたままの、鉛の塊が冷たくてやるせない。
肩を擦っていた手をそのまま喉に当てて、ゆっくりと下へとなぞってみた。楽になることはないことくらい、分かってはいたが。ここにある、そう指を止めてみれば、心臓よりはやや下の、みぞおち辺り。苦しいと思うその気持ちと一緒に、高梨はそれを忘れたかった。
いつものように軋んだ音を立てて路面電車が電停に停まる。
高梨は何事もなかったかのように、路面電車に乗り込んだ。
頭の中で今日の予定を反芻する。
金本との打ち合わせが午後に一件、午前中はいつものようにアンケートの集計が入っていた。
他は、と思いを馳せるがこの前編集長から渡された、投稿原稿の推敲があっただろうか。
金本との打ち合わせの後、手を付けても大丈夫だろう。高梨はそう算段しながら、出版社が最寄りの電停を降りた。
いつものように人の波を縫うように、自分の部署に向かう。滑り込んでデスクにたどり着くと、ようやくひと息つくことができた。
いつものように葉書の束を抱えると、手早く仕分けする。もう、何度も何度も繰り返した作業だ、手慣れてきていた。
そこでふと、手が止まる。
『荻窪先生の怪談がもっと読みたいです。』
貴婦人らしき文字で書かれたそれに、目が釘付けになった。高梨が少なくとも知る中で、荻窪本人は顔を出したことがないため、読者層は彼がどんな人間か分からない。
著者近影で撮った写真も、まるで亡霊のようだった。その写真はいまでも高梨のデスクの引き出しに仕舞い込んである。
荻窪はここの出版社以外にも仕事を持っているはずだが――、荻窪の家はいつ行っても他の雑誌の編集者がいないな、と気がついた。
少し前なら本人に聞くところだが、いまはなんとなく踏み込めない。
『救えたとして、だ。厳しい冬を乗り越えるだけの力があったかどうかは別だろう。』
この言葉が高梨の心に、ぐさりと奥深く根を張ってしまっていたから。
荻窪の踏み込ませない「冬」に、高梨が乗り越えられるだけの力があるのだろうか。
まるで、そう問われている気がした。
『お前には、俺の凍てついた心を踏み荒らす覚悟があるのか。』
冷えた視線は、そうは言ってなかっただろうか。言外に『そんな勇気もないくせに』そう、言われたような気にもなる。
高梨はなにかを飲み込むように、ごくりと喉を鳴らすと、再びアンケートの葉書を仕分け始めた。
アンケート葉書には、荻窪の近影を求める声も多々ある。あの怪談をどんな人物が書いているのか、気になる人も多いようだ。
あの写真の許可をもらえれば載せることも可能だけど、高梨はどうしても気が進まない。荻窪という人間を知る人が、これ以上増えるのが嫌だ。
――独占欲の塊だな。
そうは思うものの、あのミステリアスな荻窪の写真を載せることで、きっと女性の心酔者は増えるだろう。それも、かなり。自分でさえ、彼の独特な存在感に惹きつけられたのだから。
冷たくも優しい荻窪を、知られるのはなんとなく嫌だ。
近影は却下だ。本人がおそらくはそれをよしとしないはずだから。
残りは若竹の数名の信者と、金本の力作に感想を述べる葉書と。それから、他の編集者に回す葉書をまとめた。
若竹――名前を見るだけでも鳥肌が立つが、この一定数の信者に、若竹の言う「女神」を見られていると思うと、ぞっとしない話だ。読者は悪くないのかもしれないが、若竹には一度、ひと言突きつけてやりたいとさえ思う。
それもいつになるかは分からないけれど。
高梨は編集部の壁に掛けられた時計を見て、立ち上がった。
そろそろ金本との打ち合わせに行かなければ。
「金本さんとの打ち合わせに行ってきます。」
高梨はそう言い置くと、編集部を後にした。
***
金本が待つ純喫茶の近くの電停で路面電車を降りた高梨は、いつものように手土産を購入した。
有名な糸切り羊羹だ。しつこくない甘さが癖になる逸品で、高梨も密かに好きだった。あまり買って食べる回数は多くないものの、子供の頃、たまにもらえるおやつがそれだったときは、嬉しかったものだ。
いつもの純喫茶の重厚な扉を開けると、そこには金本ともう一人、女性が座っているのが見えた。
「こんにちは。」
高梨は店主に軽く頭を下げていつものように珈琲を頼むと、金本の傍まで歩いていく。
「ああ、高梨さん、こんにちは。――いや、娘がどうしても来たいっていうんでね。」
だは、と照れて笑う金本の隣で、歳の頃二十から二十二ほどの女性がにこりと微笑んだ。
「ご無沙汰しております、金本さん。それから、お嬢さん。」
仰々しく頭を下げる。
高梨は内心、思い切り舌打ちをしていた。彼女はモダンガールさながらの姿をしていて、流行りには敏感――らしい。そもそも高梨はモダンガールには興味がないが。
「高梨さん、ごきげんよう。」
金本の娘も頭を下げた。
高梨は軽く会釈をすると、即本題に入る。
「金本さん、原稿を見せていただけますか?」
あくまでも業務用の声調で、穏やかに努めた。
金本は座席に置いてあったのだろう原稿が入った茶封筒を、高梨に手渡す。
高梨は封筒を開けながら「確認させてくださいね」と声を掛け、原稿用紙を取り出した。
几帳面な文字が並び、けっして読みにくくはない。文字を流し読みしながら、この前のような怪談は入れてないな、と確認をする。
「はい、では、確かに受け取りました。では、次の――、」
予定を入れてから立ち上がろうとしたとき、金本の娘が口を挟んだ。
「高梨さん、荻窪先生と同じ出版社だとお聞きしましたの。本当はご存知ではありませんの?」
ああ、またこの話か。
金本をちらりと見ると、娘には勝てないとでも言うように、白々しく高梨から目を逸した。
「知っていたとしても、お教えできません。」
高梨はきっぱりと言い放つ。
何でもかんでも教えて歩いたら、それこそ大変なことになる。下手をしたら、荻窪の家の周りは人だかりになるだろう。
「高梨さん、そんな厳しいこと言わずに……。」
娘の肩を持つ金本に一瞥をくれると、高梨は毅然とした態度ではっきりと断った。
「荻窪先生の個人的なことはお話できませんよ。例え知っていても、知らなくても。」
金本の娘は、口紅を赤く塗った唇を突き出して、一瞬だけ不満げな表情をする。
しかし、それはすぐに笑顔に切り替わり、標的を替えてきた。
「それなら、高梨さんは? ご結婚されていらっしゃるの? 恋人は? 婚約者は?」
きらきらと輝いた瞳が高梨に向けられる。
口では慎ましく問いかけているくせに、卓の下では高梨の脚に、自分の脚を擦り付けてきた。布越しにざわりとした質感が、伝わる。
高梨はその瞬間に、ぞわりと足元から頭にかけて一気に気持ちの悪い電気が流れたような感覚に陥った。毛穴のすべてから気持ち悪さが突き抜けたような、そんな気がする。
鳥肌がたち、思わず珈琲をごくりと飲み込んだ。
「僕のことはお構いなく。」
金本に目を向ける。
「金本さん、また来月ここでお願いしますね。お仕事でここに来ていることをお忘れなく。……それから、僕には色仕掛けは通用しません。」
娘を見て、びしりと。
ぽかんとした金本親子はそっくりだ。気立ての良い娘が、男の脚に自分の脚を擦り付けるようなことをするだろうか。高梨はきつく眉根を寄せた。
そういえば、せっかく買った手土産を忘れていた、と気がついて金本に袋を突き出して渡す。
「これ、手土産です。それじゃ、失礼します。」
店主には去り際に、きちんと三人分の珈琲代と少しのお釣りが出るように手渡して、店を出た。
ただの娘に弱い父親だと思っていただけに、あれは高梨にとってある種の打撃に等しい。金本の娘がきれいじゃないわけではない。ただ、高梨には合わなかっただけのことだ。
もともと、高梨はそういう感情が希薄な質だ。旧高等学校時代は、贅沢だなんだと言われていたが、高梨自身はそうは思わない。
ただ、好かれたいと思う人に好かれたいだけだ。
高梨はそれが叶わないことを、知っている。ただ、その人に好かれたいだけなのに。
ふと、荻窪を思い出した。
あの凍てついた切れ長の瞳がひたりと高梨を見据えたとき、心臓を射抜かれたかと錯覚するほど痛かった。自分は、荻窪に信頼されていないのだろうか。
空を見上げれば、雲が風に流され散り散りになりながら、消えていく。霧散する雲のように、高梨がいま抱えているこの気持ちも、なくなる日が来るのだろうか。
胸元を握りしめる手に力が入る。
荻窪に否定されても、それでも、きっとこの気持ちは無くならない。そんな気がしてならなかった。
編集部に戻るため、電停に立つ。
ゆっくりと暮れゆく太陽を見ていると、なんだかとてつもなく孤独を感じた。人々のざわめきと、時の流れに逆らって佇む自分。そこには存在していないかのような、薄い薄い存在感。
高梨はもう、立っているのがやっとだということに、今更ながら気がついてしまった。
もう、辛いんだと心が叫んでいることに、気がついてしまった。
それでも高梨は、諦めない。だってまだ、荻窪に伝えてもいないのだから。
──芽吹く青葉と、沁み入る寂寥。




