第十八章 白き静寂、影の音
景色が一面白くなる頃、冬も本番だ。白と黒の景色に変わり、色が消える。青かったはずの海でさえ、灰色に姿を変え、白波を立て牙を向く。
高梨が編集部から帰宅しようとしていた頃、雪が本格的に降り出してきた。月すら見えないほどの暗闇で、ぽかりぽかりと浮くようにガス灯が鈍く仄かな色を放っている。
電停までの道のりは、そのガス灯が照してくれているから迷うことはなかった。だが、このままでは明日の朝には雪が一尺(三十センチ)は、軽く積もるだろうことは目に見えている。
それくらい強い降り方をしていて、高梨は出版社から電停までのそんなに遠くない道のりで、遭難するかと思ったほどだ。
外套の前をかき合せると、はぁ、と息を吐く。白い息が空中に消えていった。ほぼ最後の路面電車に乗り込んで、闇の向こう側に目を凝らす。かろうじて見えるのは、海と空の境目か。高梨はゆっくりと目をつむり、ひとつ深呼吸をしてから閉じていた目を開いた。遠くに見える空と海が闇で境界線が朧になるそれを、ただ眺めている。どこからが空で、どこからが海なのか。夜には分からない恐怖。高梨はそれをそっと心の奥に押し込んで、この前の香世の言葉を思い出していた。
そうして、この前の香世の言葉を頭の中でそっと唱える。
『自分の幸せは誰かが決めることじゃない。』
この言葉は高梨にとって、溢れそうだった器をひと回り大きくした気がした。いまだに「猫に好かれやすい体質」というのはいまいち分からないままだけれど。
自分が降りる電停につくと、家路を辿る。路面電車に乗っている間に雪が積もり、足元が真っ白に変わっていた。ぎゅ、ぎゅ、と雪を踏みしめる足音だけが辺りに響いた。振り返れば先ほどまで高梨が乗っていた路面電車ははるか遠くへと流れていく。ガス灯が降り積もる雪をただ、うつしていた。
こんなことなら、藁靴にしておけばよかったか、と思って、日和る自分に苦笑する。自分が身につけている背広に藁靴はさすがに合わないな、と思い直して一歩ずつ慎重に歩を進めた。きちりと着こなした足元が藁靴なんて笑えない。高梨はそんな自分の姿を想像して、苦笑する。頭に浮かんだ自分自身のちぐはぐな姿が、いまにも滑稽だった。
明日は少し無理をして買った長靴で出勤しないとならないな、と思いながら家路を辿る。急ぎたくはないが、転びたくもない。転んでしまってはこの高梨にとって数少ない背広が汚れてしまう。時間を割いて洗濯屋に持ち込むのもまた、面倒くさい。
ついでにこの前買っておいたスコップも、持っていくか。雪かきをしなくちゃならないのだから。
高梨は、香世にやり込められて困り果てていた荻窪を思い出して、小さく笑った。
あの人もあんなふうにやり込められることがあるなんて、知らなかったな。
やはり、昔馴染の香世さんには勝てないものなのか。
高梨は暗くなった玄関を静かに開けると、物音立てずにひたひたと自室まで歩いていく。もう、慣れたものだ。人っ子一人いない玄関も、寝静まった両親にも。
むしろ、そのほうが気楽でいい。
──明日は早く出て、銭湯に寄っていこうか。
高梨は風呂の水が抜かれていることを想定して、明日の予定を立てていく。朝早くに出て、編集部に顔を出してスコップを置こう。それから銭湯に行って少し仕事をして、荻窪のところに向かおう。
背広を脱いで寝間着に着替え、布団を敷いた。この部屋は日陰だから、いつも寒くて敵わない。何枚布団を重ねても温かくならないから、眠りも浅い。しかも日陰だからしっめぽさも強く、高梨はこの部屋に一度でも居心地の良さを感じたことはなかった。まるで、使わなくなった人形を納戸に押し込んだかのようだ。
おかげで早く起きることが、得意になった。高梨は変な長所を身につけたものだ、と自嘲する。
目が覚めなかったときのために、双鈴式の目覚ましも掛けておいてから、高梨は布団に潜り込んだ。
香世のおかげで、いろいろな姿の荻窪を見ることができた。あの大きな身体を縮こませ、叱られているその様は、想像ができない。いつも悠々と構えている姿から想像もつかないその姿を、頭に思い描いてみる。
学生時代からの知り合いだというが、どういった経緯で知り合いになったのか、高梨とて少し気にはなる。根掘り葉掘り聞く勇気がないだけで……、本当は知りたいと思っていた。
目を閉じれば、荻窪が浮かんでくる。どんなに一線を引かれようとも、高梨は何度でも近づいてしまう。切れ長の黒い瞳がゆっくりと自分を見、そして弧を描くその姿を追いかけてしまう。
手を伸ばせば届きそうなその距離で、荻窪はいつも躱してしまうから。
それでも懲りずに手を伸ばすのは、高梨にとって荻窪が拠り所になっているからに他ならなかった。
うつらうつら、夢の中に引き込まれていく。
せめて夢の中では、楽しい時間であればいいと、高梨は頭の片隅で願った。
***
まだ両親が起きる前に、高梨は出かける準備をしていた。起きたい時間に目が覚めるのは、特技のひとつか。いつものように背広を着て、長靴を手に階段を静かに降りていく。
まだ寝ている両親を起こさないように、そろりそろりと玄関までたどり着き、卸たての長靴を履いた。洋袴の裾は濡れないように長靴へ押し込んで、いつものように黙って玄関から出ていく。
出かけるときの決まり文句でもある「行ってきます」を言わなくなったのは、いつの頃からだったかは覚えていない。言ったところで返事はなく、それならば言わなくてもいいかと諦めてからは言わなくなった。
外に出てみれば、昨晩の雪が案の定一尺以上積もっている。早朝から路面電車の雪かきに追われる職員の方々に心の中で感謝を告げながら、高梨は始発の路面電車を待った。
一度は出勤しなければ。
鼻から吸う空気の冷たさが少しだけ緩和されて、肺に届く。ともすれば体内が凍りつきそうなほど冷たい空気が流れ込み、高梨は咽せないように、静かに息を吸い込んだ。
白い煙を上げながら、路面電車が電停に滑り込んでくる。すでに乗客がいる中、高梨もそれに続いて乗り込んだ。片手にはスコップを持った高梨が、いつものように遠くの景色を眺めている。ものの数分でいつもの電停に着いたら、すぐに降りて出社する。
一度スコップを置いてから、編集部の近くにある銭湯へと足を向けた。
昨日の汗を流したらまたすぐに戻らなくてはならないけれど、それでも少しでもいいからさっぱりしたい。
高梨は烏の行水の速さで銭湯から出てくると、編集部に戻っていつものように、予定をこなしていった。
そのおかげで、昼前には予定も終わり、高梨は堂々とスコップを片手に「荻窪先生のところに行ってきます」と宣言して編集部をあとにする。
もう幾度となく乗り降りしている電停に再び佇むと、高梨は懐中時計を片手にちらりと時間を確認した。
まだ、昼になる少し前。
きっとまだ荻窪は起きてはいないはず。高梨は心の中でそう思うと、あの狸の(ようにも見えなくもない)置物が雪で埋まっている姿を想像した。
早く救出しておかないと、とふと思う。あれはなんとなく、荻窪が大切にしているような気がしたからだ。最初に言っていた「狸……だったかな……置物があるだろう」という言葉は、荻窪以外の誰かが持ち込んだもの、ということは想像できる。
高梨はいつものように少し傾斜のある上り坂を上がり、門を曲がる。雪が深くやっぱり長靴にして正解だった──。高梨はまず最初に荻窪が大事にしているのだろう、狸置物の雪を払ってから、スコップを握りしめ雪をかき始める。
ざく、というよりはもっと軽い手応えのさくりとした感触が手に伝わってした。気温が低く、雪の粒が細かい粉雪だからこその感触だ。
高梨は荻窪の家の前から雪をかき始め、塀の周りの雪もきれいにしていく。あらかじめ排雪する場所を聞いておけばよかったな、と思いながら、邪魔にならないように荻窪の敷地内へと移動させた。
暑いな、と感じて外套を脱ぎ、失礼だと思いながらも塀に掛ける。それからまたスコップを握って、雪をかき出した。
からからと軽い音をたてて玄関の扉が開いたと思ったら、荻窪の姿がのそりと出てきたのが見えた。
「おはようございます、先生。雪、すごかったですね。」
高梨はいつもどおりの声で挨拶をする。よかった、きちんと笑うことができた、と内心では安堵した。
そんな高梨を見た荻窪は、何が起こっているのだろう、とでもいうように、薄く口を開けたまま高梨を凝視する。
「きみは……っ、何をしてるんだ、まだ昼なんだぞ?」
腕を掴まれて、その強さに思わず眉をしかめてしまう。いつも万年筆ばかり持っているはずのその手は、思いの外力強く、やはり無骨だ。
「ちゃんと出社してからの、外回りですよ。」
高梨は荻窪の反応に眉を八の字にして、困り顔になった。
それを見た荻窪が言葉をつまらせたように横を向き、決まりが悪そうに小さな声で。
「ああ……その……、ありがとう、助かったよ。家に入りなさい。汗だくじゃないか、そのままでは風邪を引いてしまうから。」
そうぼそりと礼を言う。
高梨の腕を引き寄せようと掴まれた手に、思わず身体が勝手にぴくりと反応してしまった。高梨はもう、荻窪を意識せずにはいられない。
それが荻窪にとっては他意のない行動だとしても、高梨にはいちいち鼓動が跳ね上がる。
家の中に引きずり込まれた高梨は、慌てて態勢を立て直した。玄関の上がり框に膝をついて、荻窪を見上げる。
「先生、怒っていらっしゃいますか?」
荻窪は、きり、とした眉を八の字に歪めると、困ったような笑顔を浮かべた。
「怒ってなどいないよ。」
荻窪は雪駄を脱いで、高梨が長靴を脱いで家の中に上がってくるのを待っている。
高梨は片腕を掴まれたまま、長靴を器用に脱いだ。離してくれ、と頼むような空気でもなく、高梨はそんな荻窪についていく。
珍しく荻窪がどたどたと足音を立てているのが不思議でならなくて、高梨は大人しくついていった。
ちびはといえば、玄関先は寒いからか姿を見せていない。
高梨はずるずると廊下を引きずられ、書斎へと連れて来られた。火鉢の傍で、ちびが何事かと顔を上げる。荻窪は手慣れたれたように手ぬぐいを数枚と、着替えを渡し私室へと送り出した。
そのついでとばかりに、雪で濡れた高梨の背広を衣紋掛けに掛ける荻窪の姿が目に入る。
「先生、僕、ご迷惑をかけるつもりじゃ……、」
高梨は思わずそう口にした。
「迷惑だなんて一度も思ったことはないから、安心しなさい。」
荻窪はそう言いながら、高梨の背中を押して私室へと送り込んだ。
汗と雪で濡れたシャツを脱ぐのに手間取った高梨は、濡れた肌を手ぬぐいで拭き始める。薄暗い私室の中で、青白く見える自分の肌を見つめていたとき、源氏襖の向こう側でかりかりとひっかく音がした。
すぅ、と静かに三寸(九センチ程)ほど開いたかと思うと、ちびがぬるりと入り込む。
ちびだったのか、と一瞬詰めた息を吐き出すと、荻窪の視線とかち合った。
おそらく、ちびが入ったのを確認したのだろうとは思う。
「す、すまない! わざとではないんだ!」
慌てたようなその声に、高梨は見られて困るものなどないのに、と思ってから小さく自虐気味に笑った。薄紺色の着物を手に、それを羽織る。帯を結べばやはり、この大きさは荻窪のものではないことが分かってしまう、高梨には少し大きいだけで、荻窪には小さすぎる──。
高梨は着替え終えると、源氏襖を静かに開けた。
ちびを片手に抱き上げて、高梨は荻窪の私室から顔を出す。
「ちびが入ってきたので驚きました、僕が襖を閉め切ったのでちびは困ったでしょうね。」
荻窪の「すまなかった」は、聞こえなかったふりをした。何事もなかったかのように乾いた笑い声をあげると、高梨は身につけた着物を手で引っ張ってみせる。
「先生、この着物──先生のではありませんよね?」
ずっと気になっていたことだった。確かに最初に借りたときのこの着物は、新しい匂いがした。誰も着ていない、ぱり、とした感触もあった。
だからこその、違和感──。
高梨はちびを畳の上に下ろすと、自分が着ている着物の袖を引っ張ってみせる。
「大きさが違いますもんね。先生の着物なら僕には大きいはずだから。」
高梨が見つめている中で、荻窪の顔が困ったように歪んでいく。言葉に詰まったかのように、なにも言葉が出てこないかのように。
──やっぱり、これは先生の着物じゃなかった。
その表情を見て高梨は、確信した。荻窪は隠し事は得意だが、嘘はつけない人だから。
高梨はその事実に眉根を寄せる。笑顔を作りたかった。だが、できなかった。
突きつけられたのは、事実だけだ。荻窪には、過去にこの着物を手に取った人と何かがあった。
高梨はその事実に、分かっていたはずなのに心が正面から叩き斬られたような、そんな衝撃を受ける。
分かっていたつもりだったのに、真正面から肯定されたらさすがにきつい。
指先が震えそうになり、高梨は思わずきつく手を握りしめた。
「先生、今月も原稿をよろしくお願いしますね。落とされちゃかないませんよ。」
わざと明るい声を出して、火鉢の前に座る。手を温めるふりをしてうつむくと、高梨は唇を噛み締めた。
「あ、ああ……今月も、できるだけ締め切りを守るから、大丈夫だ。」
荻窪もただ高梨の声に合わせるようにそう返すと、文机に向かう。
高梨はそんな荻窪の背中を見つめ、ただそこに手を伸ばしたかった。手を伸ばせば届く距離にいるのに、届かないのはなぜなのか。
過去の亡霊はいつまで荻窪を縛り付けているのか。
高梨は衣桁に掛けられた着物に向けて、じろりと視線を投げつけた。
ちびはそんな高梨の気配を察したのか、いつものように膝にむいむい乗ってくる。そして、顔を見上げると、す、と顔を近づけて鼻先でご挨拶をした。
まるで、「あたちがいるわよ」とでも言うように。
ちびに見透かされたような気がして、恥ずかしくなる。膝の上で丸まるちびの温もりが、温かい。背中をなでれば、まるで絹のように艷やかな手触りが伝わってきた。
書斎にはちびのごろごろという喉鳴りと、火鉢の木炭が爆ぜる音、そして荻窪の筆音だけが響く。荻窪の筆音はまるで、小さな滝のような音がする。するすると流れ落ちる水のような、滑らかな音だ。
その音に聞き入っていると、ふいにぴたりと止まる。
「先生? 行き詰まりましたか?」
高梨がそう声をかけると、荻窪の肩が小さく揺れた。
「あ……いや、ちびが喉を鳴らす音が聞こえたんだ。だからもしかしてまた、きみの膝に乗って甘えているのではないかと思ってね。」
僅かに横を向いて、高梨の方を見るその荻窪の視線が、ちびではなく高梨に注がれている。
「かまいませんよ、ちびは軽いですし。僕の膝は気持ちがいいのでしょうか? ──なんなら先生、試してみますか?」
軽口を叩きながら、高梨は心は重く沈んでいた。鈍くなれたらいいのに。
「そんなことをしたら、私は朝まで起きないで寝てしまうが、原稿はいいのかな?」
荻窪もそのからかいには、からかいで返してくれた。くつくつと低い声で笑う荻窪の声に、高梨は小さく気持ちが揺らぶられる。この声すらも、高梨の気持ちを落ち着かなくさせるなんて。
「早く原稿を書いてください!」
いまはこうして、編集者の仮面を被っていよう。高梨は仮面の中で、顔を歪めた。
堪えていた気持ちはもう、溢れそうだ。
表面張力でなんとか保っているけれど、もう限界を迎えるのも間近。
高梨は困ったように小さく息を吐いた。
気持ちを隠すことに決めたはずなのにもう、それを堪えることができないなんて情けない。
伝えてもいいのか。
それとも、隠すべきなのか。
高梨は自問自答していた。
──白き静寂、影の音。




