第十七章 散りばむる雪は淡くも、濃き名残
秋の小雨は身体を芯から凍えさせていく。冷たいと感じる間もなく、いつの間にか指先がかじかみ、感覚が鈍くなる。寒いと思えば、見上げた曇天からは白いものが混ざって落ちてきていた。
霙はじきに、雪に変わるだろう。その年初めての雪空だった。
高梨は無意識に電停を目指していたつもりが、香世の店の前まで来ていることに気が付いた。いつも温かく迎えてくれる香世の店は仄かな明かりを灯して、客を待っている。ただそれだけのことが、いまの高梨には詰めていた息を吐き出させてくれる、唯一の景色に見えた。
ふらりふらりとそのまま引き寄せられるように入口へと手をかけると、からからと上げていく。
「おや、いらっしゃい。」
少しだけ驚いたような香世の声と、みけの足音が耳に届いた。
「こんにちは、香世さん、僕、雨に濡れちゃって。」
少しここで雨宿りをさせてもらえないかと、言おうとしたところに、清潔な手ぬぐいを数枚差し出される。香世の手から差し出されたそれは、荻窪の家のものと同じように真っ白で、高梨はそれを抵抗なく受け取った。その手ぬぐいの感触がいまの高梨にはあまりにも優しくて。
「風邪を引くんじゃないよ、ほら。きちんと拭きな。」
ああ、そこにちゃんと座んな、立っていたらほかのお客さんの邪魔になるだろと続けられ、高梨はいつものようにカウンター席に腰を下ろした。
ほかのお客さん、と言われて思わず辺りを見回したが、高梨以外誰もいない。
「まだ来てないんだよ、そんな風に見るんじゃないよまったく、無粋な子だね。」
この天気だから客足が遠のいているのかもしれない、高梨は香世の言い方に小さく笑った。水気を拭き取り終わった高梨の膝に、みけが待ってましたとばかりに乗ってくる。ちびよりはやや軽いくらいだろうか、それでもずしりとした重さが、香世から大切にされているということがよく分かった。
「みけ、開店中は奥にいなって言ってるだろ。仕方ない子だね。──あんたを見ると甘えたくなるのかねぇ。」
香世はそう言って、お茶を淹れてくれた。その所作は荻窪のそれほど整っているわけではないが──荻窪は整いすぎている──、思わず見とれてしまうほどだ。まるでどこかでしっかりと教育をされた人間かのように。
「あったまりな。そんなに濡れてさ。」
高梨は膝に乗って甘えるみけの背中を撫でる。拾い上げたときはあんなにがりがりだった子猫が、いまではどっしりとした質感を持った艶のある毛並みになっていることが嬉しかった。
「あたしもさ、独り身だからね、みけが来てくれてありがたいんだよ。それにこの子、人見知りをしないから、お客さんにも好評でね。」
猫好きのお客さんが新しく増えたのは、この子のお陰だね、と香世が笑う。香世はついでに、とばかりに高梨に差し出したのは、じゃがいもと一緒に炊いた白米だ。
「しけた顔して、お腹すいてるんじゃないのかい? 少し食べていきな。」
気風の良い香世は、高梨や荻窪のような常連にはこうして、メニウにはないものを出すことがある。たまに荻窪に届けている弁当は、昔馴染みだからこその配慮のようで、ほかの客にはやっていないらしいけれど。
「香世さん、僕、そんなひどい顔してますか?」
高梨はみけの背中を撫でながら、もう片方の手を自分の頬に当てた。
自分ではあまり自覚がないが、「しけた顔」と言われるほどひどいのだろうか。
「そうさね、雨に降られただけじゃないね、あんた、根詰めすぎなんだよ。」
香世が高梨に向かって指を差す。それはまるで、息子を心配するような母のような眼差しでもあった。ただ、高梨は実母からこんなに温かい眼差しを向けられたことはあまりない。香世の柔らかく温かな眼差しとは明らかに違う実母の虚ろな瞳が脳裏をよぎった。根詰めすぎだと言われても、高梨はそれがどこを差しているのか分からない。
「僕にできることはあまりないから、やれることはやらないと駄目なんですよ。」
そう言って苦笑した高梨に、香世は驚いたようにあんぐりと口を開けた。それから数舜、香世はまじまじと高梨をたっぷりと見つめた後、長いため息をつく。
「あんたさぁ、自分を卑下しすぎてやしないかい? どこが駄目なのさ? 説明してごらんよ、全部真っ向からあたしが訂正していってやるからさ。」
ほら、言ってごらん、と詰め寄られてしまっては、高梨もたじたじだ。香世は荻窪と同年代のばすだが、この気風の良さと見た目の色気ある風情が、違いすぎる。
女性なのに、高梨は苦手意識が芽生えないのは、この物言いだからなのだろうか。
「僕は見た目が男らしくないですし……、人の心にも無頓着です。それに、考えすぎてしまって。」
言葉を飲み込む癖ができたのは、いつからだろうか。それこそ、記憶にないほど幼いころからなのか。
「見た目ぇ? あんたさ、その見た目がどれだけいいものか、どんなくそ親だとしても見目好く生んでくれたことには感謝しな! 人の心に無頓着な人間が、小説読んで添削したり推敲したりできるもんか、逆だろ、逆。考えすぎ? 考えなしよりずっとましさ。言葉が先に出ちまって傷つくくらいなら、考えすぎてから少しずつ言葉にしたって遅くないだろ。」
香世が高梨の言葉に対して、まくしたてるように「訂正」していってくれる。今度は高梨がきょとんとする番だ。そういう考えもあるのかと、心が少し軽くなる。こんな風に自分のことを言い換えてくれる人が、いること自体、高梨には新鮮だった。
「ほら、あとはなにがあるんだい? まだあるんだろ、ため込んだ顔してさ。」
香世がさっさと出しな、とばかりににやりと笑う。
「それに、僕は……結婚とかしたいと思っていないんです。」
結婚して子を成せ、それが「常の幸せ」だ、と母親から言い聞かせられてきた高梨にとって、一番重いと感じる言葉を吐き出した。
「はぁ? そんなもん、あたしだってしてないさ。ああ、そうそう、それにさ、荻窪の先生だってあの人、結婚には興味ないだろうね。それでもあたしは幸せだよ。──高梨さん、自分の幸せってね、誰かが決めることじゃないんだよ。自分が幸せだと思うことが幸せなんだ。」
香世は小さくため息をつく。
高梨は香世の言葉に、いままで曇っていたように見えていた景色が晴れていくような、そんな気がした。
高梨は母親に言われ続けて「結婚しないこと」が駄目な人間だと思い込んでいた。だが、実際は違うことを、目の前の香世が思い切り壊していく。こんなにあっさりと壁を壊せる言葉があるのだろうか、高梨は目の前で笑う香世を思わず見つめた。
「香世さんって……すごいですね。」
驚きから出た言葉に、香世は「何言ってんだい」とそっぽを向いてしまう。こんなに素敵な女性なら引く手あまただったはずだろうに、むしろなぜ香世はいまも独り身なのだろう。
しかし、それを問いかけるのはそれこそ「無粋」だと高梨は思った。
「あたしはね、自分の幸せを一番にしたから、誰ももらってくれなかったのさ。」
明るい笑い声の中に少しだけ混じる感傷は、香世にも過去に悲しいことがあった証拠だ。高梨はそんな香世の声に少しだけ含まれた感傷をあえて触れず、顔を上げると香世の笑顔で出掛けた言葉を飲み込んだ。香世は笑顔で、「もういいんだ」と語っている。その凪いだ瞳がすべてなのだろう。
それ以上高梨はなにも言わなかった。それがいまの香世の幸せに繋がっているのなら、きっと彼女は後悔してはいないのだろう。高梨は、少し冷えたじゃがいもの炊き込みご飯を口に入れた。やはり、とても美味しい。外で食べるご飯はどうして、こんなに美味しいのだろうか。
「香世さんのご飯は美味しいですね。」
高梨がぽつりとこぼした。香世はその言葉を聞いて不思議そうな顔をする。
「そりゃ、食べさせたいと思ってる相手には美味しく作りたいだろ。──あたしはお客さんの美味しそうな顔を見るのが好きだからね、美味しいものを出したいと思っているし、料理をする人たちはみんなそうなんじゃないかい? 喜んでもらおうと思わずに作るご飯は、味気ないもんじゃないかねぇ。」
香世はそういうと、今度はみけのご飯を用意し始める。いつまでも高梨の膝から動こうとしないみけに目を向けた香世が、小さく笑った。
「それにしてもあんた、大きい猫にも小さい猫に好かれるね。」
香世がそう言うのとほぼ同時に、店の入り口がからからと音を立てて開く音がする。
「香世さん、こんばんは。外は雨から雪に変わってしまったよ。」
低い声が聞こえたと思ったら、そこには荻窪がのっそりと姿を現した。
「おやおや、いらっしゃい。あんたのところの編集さん、濡れ鼠でかわいそうにさ。──なんかやったんだろ。」
香世がじろりと荻窪をねめつける。
「いや、私は高梨くんに──、」
荻窪はそう言って高梨に視線を向けてから、そっと手を伸ばしてきた。香世の店で手ぬぐいを貸してもらい、水気はだいぶ飛んだはずだ。だけど、高梨はその大きな手に思わず肩を竦めてしまう。怖いわけではなかった。ただ、その手に触れられたら、気持ちが破裂してしまいそうだった。
「ほらほら! あんたさ、少しは落ち着きな。」
入り口に立てかけられた番傘は二本。荻窪が差してきた分と、持ってきた分だ。あれから、もしかして荻窪は自分を探していたのだろうか。変なことを言って飛び出してしまったから。やっぱり、心配させてしまった。
「少しくらい焦ればいいんだよ、愚鈍なんだから、先生は。」
歯に衣を着せない、とはこのことか。まさかの荻窪にこうもはっきりと言えるのは、香世くらいではないだろうか。
「あんたさ、文章書いておまんま食べてるくせに、人の心の機微にはずいぶん疎いじゃないか。なっさけないねぇ。」
そう言いながら、香世は荻窪にお茶を差し出した。荻窪はしゅん、と肩を落として香世の説教を黙って受け入れている。きっとこの光景はいつものことなのだろう。それを考えれば、荻窪はどれくらい香世に叱られてきたのだろうか。
香世が自分の幸せを一番に考えた、というのは、もしかして、荻窪のことだったのではないか、高梨はふとそう思った。
「香世さんは相変わらず言葉がきついな。」
荻窪は懲りたのか懲りていないのか分からない声色でぼそりと言うと、香世にさらに叱られる。
「人の話を聞いてるのかい? 高梨さんに助けを求めたって無駄だからね!」
みけも一緒になって、高梨の膝の上で仁王立ちになっていた。
「さっきの高梨くんの様子がおかしかったから、気になってね。探していたんだが……まさか香世さんのところだったとは。」
世間とは狭いね、と苦笑する荻窪の、困った笑顔を見ていたら高梨もなんだか肩の力が抜けてきた。荻窪の肩に積もっていた初雪が淡く消えて水滴に変わる。高梨は手に持っていた手ぬぐいでそれをそっと、拭き取った。
暗茶の羽織はすぐには水滴を吸い込まず、ゆるく落ちていくだけだったが、高梨はそれをただ見ていることができなかった。
「高梨くん、ありがとう。」
荻窪がそんな高梨の手に視線を向けて、薄く微笑んだ。たったそれだけのことなのに、高梨の鼓動が跳ねていく。あの切れ長の視線がどれほど優しい光を帯びているのか、知っているからだ。
「猫に好かれる体質なのかね、高梨さんはさ。」
香世がもう一度呆れたように、口にする。ちびとみけ以外に、猫に好かれた覚えはないが。と香世を見つめると、彼女はあごをくい、と荻窪に向けた。
つまり、香世から見れば、荻窪すらも猫に見えているということなのだろうか。
好かれている、という言葉に高梨は落ち着かない。好かれている自覚などなかったからだ。
そんなはずは、と言いかけて香世を見れば「よく言うよ」とでも言いだけな視線とかち合った。
「先生はね、いままでの担当さんとは──、」
「香世さん、それ以上は──頼むよ。」
荻窪が香世の言葉を遮った。
仕方ないね、とでも言うように香世は言葉を切る。高梨はそういえば「渡辺」との引き継ぎのときあんまり手がかからないと言っていたことを思い出した。
それだけ荻窪が、個人的な空間に入ることを拒否していた、ということなのだろうか。
荻窪は香世の言葉を止め、そのまま何事もなかったかのようにお茶を啜っている。
「だから言ったろ、高梨さんは猫に好かれやすいんだよ。」
香世が楽しそうに笑うと、荻窪の肩をばしんと叩いた。
──散りばむる雪は淡くも、濃き名残。




