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第三十一章 熱を帯び眠りに就きし、亡霊ひとつ

 荻窪が用意してくれた風呂に、先に入りなさいと言われて、高梨は丁重に断った。この家の主を差し置いて先に入るわけにはいかないと、断固拒否の姿勢を見せた高梨は、ちびと戯れていた。


 ちびは高梨からなかなか離れようとせず、空白の時間を埋めるかのように何度も頭を擦り付けてくる。


 激しく喉鳴りをさせ、高梨の警戒を解かせた玻璃のような青い瞳で、見上げてくるその愛らしさは健在だ。ちび、と声を掛ければ「んにゃ」と短く返事をし、自分がちびだと分かっているようだ。


 しかもこの態度から見るに、ちびという名前がお気に入りのように見える。


 ひたひたと廊下を歩いてくる音がして、高梨は静かに開いた台所側の障子に目を向けた。荻窪が風呂から上がり、寝間着に着替えて居間に顔を出す。着物から薄手の寝間着に着替えたことで、荻窪は着痩せするのだな、と高梨はぼんやりと考えた。あまり外に出ないわりに、自分よりは白くはない肌が、いまはほんのりと赤みを帯びている。


 白檀の石鹸の香りが鼻先をくすぐって、高梨は自分がずっと荻窪の動きを見つめていたことに気が付いた。


 手に持っていた手拭いで荒々しく髪の毛の水分を拭き取る荻窪に、ちびがいそいそと尻尾を立てて、近づいていく。あたちの匂いが消えた、とばかりに頭をごりごりと荻窪に擦り付け、しばらく彼の動きを封じてしまった。


 仕方ないとばかりに手を止めた荻窪が、高梨に向かって「湯が冷めてしまう前に、入りなさい」と告げる。ただ、そのひと言だけだったが、高梨はその言葉を初めて聞いた。荻窪からではなく、この人生で、初めて。


 実家では、湯が冷めることを気にする人はいなかった。冷めた湯に浸かろうが、家に帰らずにいようが、だれも気が付いていなかったからだ。


「はい、それじゃ、お風呂、いただきますね。」


 高梨が静かに立ち上がると、荻窪が「ああ、高梨くん、私の私室は分かるだろう? そこにきみの着替えを用意してあるから、持っていくといい」と教えてくれた。


「ありがとうございます。」


 軽く頭を下げて、書斎へと向かう。そこから荻窪の私室に入り、廊下へ出れば突き当りが風呂だ。薄暗い廊下のはずなのに、どこか温かいのはなぜだろう。荻窪の家は、台所と居間にしか、電灯はついていない。廊下はそこから漏れる明かりでしか灯されていないのに、じめっとした感じはなかった。


 荻窪の家が高梨の家と徒歩圏内にあるのだから、立地条件だけではないだろう。となれば、高梨の気持ちの持ちようなのか、それとも。


 荻窪がこの家をこまめに掃除していることは、知っていた。亡き両親の遺産であるこの和洋折衷入り乱れたこの家を、痛まないように手入れしているのだろう。だけど、それだけだろうか。


 高梨は、廊下の暗さだけではない違いを見抜こうと目を凝らしてみる。高梨の実家は母が洋風を好み、早くから和から洋へと切り替えた。明るいはずの電灯さえ、高梨には明るく感じることはなかったのに。


 荻窪の私室に入ると、高梨は石油ランプに火を灯す。どこに置いてあるのかと辺りを見回してみれば、石油ランプが置いてある小さな台の横に、きちんと畳まれて置いてあった。石油ランプを点けることを見通しての置き場所だった。その気づかいにすら、高梨は嬉しくなる。

 そっとその着替えに手を伸ばせば、手触りから新しいものだということがすぐに分かった。

 いつ、買ってくれたのかも分からないけれど、持ち上げて顔を寄せれば荻窪の匂いがする。この匂いが染み付くまで、どれくらいの時間がかかるのかは分からないが、少なくとも数日ではないだろう。


 いつかのとき、荻窪の寝間着を借りたときは大きかったから、その代わりに買ってくれたのだろうか。それも、数か月前に買ってくれたはずだ。そうではなかったら、匂いが染み付くはずがない。


 高梨は背広の上着を脱いで衣紋掛えもんかけに掛けて、長押なげしに掛けておく。高梨はそのまま浴室へと向かった。


 浴室の戸を開けると、湯気が立つ温かい湿気が高梨を包み込む。誰かが用意してくれた風呂は、銭湯しか知らない高梨にとっては、二度目だ。

 そっと足を踏み入れれば、足の裏にひやりとしたタイルが当たった。それでも、実家の風呂よりも温かみがあって、そのタイルの冷たささえ温かいと感じる。


 湯船から湯を汲んで、身体にかける。手拭いを濡らしてから、荻窪が使いかけている石鹸を手に取った。手の中にそれをもみ込んで泡を立ててから、手拭いに擦り付ける。泡が広がると、いつもの香りがふわりと辺りに漂い、高梨は思わず天井を見上げた。


 まるで身体のすべてを覆い尽くされるかのような、多幸感が高梨を襲う。

 荻窪が口にした「雄二郎とは似ていない」という確かな言葉が、ようやく高梨にとって実感をもたらした。

 かすかに震える手で、そっと身体に触れる。肌の上に泡を撫でつけるように滑らせ、丁寧に洗った。もしかすると、荻窪に触れられるかもしれないと思うその気持ちが、心を高ぶらせていく。


 つま先から丁寧に泡を撫でつけ、指先にも擦り付けた。なんだかいけないことをしているような気がして、高梨の頬は赤く染まった。浴室の熱よりも熱くなった頬が、高梨を一人で悶えさせる。

 お湯で泡を流し、全身の香りが実家の石鹸の匂いから、荻窪の家の匂いに切り替わった瞬間、高梨は心の奥から深い安堵に包まれた。


 湯船に足からゆっくりと浸かる。温かい湯に包まれるような感覚に、高梨は思わず目を見開いた。そして、次の瞬間にはすぐに両手で顔を覆い、嬉しさと切なさが混同した奇妙な感覚に囚われる。荻窪の、静かな気づかいがこの湯から気づかされた。

 風呂上がりの荻窪を思い出して、いつもより赤くなった肌は、後から入る高梨のために少し熱めに入れていたのだろうということが、分かってしまったから。

 こんな気づかいをされたのは、本当に、初めてだ。

 高梨はそんな荻窪の生真面目な優しさに、改めて惚れ直した気がする。離れていた期間ですら、一度も彼を嫌いだと思ったことはなかった。

 むしろ、離れていた時のほうが、一緒にいた時期よりも頭の中の大部分を占めていたからこそ、高梨は苦しい想いをしていた。

 そうして、この気付きをしてしまったら、この先、彼から離れることができなくなってしまうだろう。そんな予感がする。


 まいったな。


 高梨はそう一人ごちる。どうやら自分は、荻窪から離れることはできないらしい。

 口端が上がり、とても困ったようには見えなかった。

 湯船から手を出して、以前よりも骨が浮き出したそれを見つめる。帰り道に握られた荻窪の手の感触がいまもまだ、手のひらに残っていた。


 湯船から上がり、持ってきた手拭いで身体の水気を拭き取っていく。以前よりも痩せた身体に、荻窪は気が付いているのだろうか。自分でもはっきりと分かるほど、薄くなった筋肉に、高梨は小さく息を吐き出した。浮き出たあばら骨に手を這わせ、情けない気持ちになる。外食でもいいから、食べておけばよかった。高梨は後悔していた。

 こんな身体を見たら、荻窪はなんて言うだろうか。ふと、不安がよぎる。高梨はこれ以上情けない姿にならないように、しっかり食べなければ、と思った。そうじゃなければ、いつまでもこの、あばら骨が浮いたままの身体ではいられない。


 まさか荻窪ともう一度、肌を合わせることになるとは思っていなかったから、完全に自分のことをおろそかにしていた。

 とはいえ、荻窪とはいままでも深くまで肌を合わせたことはないけれど、一緒に眠ったあの夜のことは、いまでも一瞬の幸福な時間として、心の中に焼き付いたままだ。


 浴室から出てきた高梨は、荻窪が用意してくれた寝間着に袖を通すと、まるで背後から彼に抱きすくめられているかような錯覚に囚われた。それほど、この寝間着からは彼の匂いがたっぷりと香ってきている。

 大切に保管してくれていたのだろう、もしかすると、使うことはないかもしれないと思いながら。彼も自分と同じように考えていてくれたのかと、そんな荻窪の心の中を想像する。 そうだったのなら、嬉しい。

 きゅ、と帯を締めた高梨が自分が着ていたものを手にして、居間へ赴くと、そこにはちびが座布団の上に香箱座りをして、高梨を迎えていた。しかし、荻窪の姿はそこにはなく、おかしいな、と首を傾げながらもちびの頭をそっと撫でる。


「ねぇ、ちび。先生はどこに行ったの?」


 問いかけながら、書斎にいるのだろうか、と考えた。髪の水分を手拭いで拭き取りながら、もう少し乾かしたら、書斎に行ってみるか。高梨はいつものように、丁寧に髪の水分を拭き取った。

 ちびがのそり身体を起こすと、待ってましたとばかりに伸びをする。尻尾をゆらゆらゆらしながら高梨に近づいてくると、その膝にいつものようにむいむいと上がってきた。「あたちがせっかくつけた匂いを消したのよ?」とばかりに、何度も何度も頭を擦り付けてくるその仕草に、高梨もまた、荻窪と同じように動けなくなる。

 こんな風にされてはさすがに動けないな、先ほど荻窪が動けなくなった理由を知った高梨は、ちびが満足するまでただ、緩やかに自分の髪の水分を拭うだけだった。


「ねぇ、ちび。自分のものには匂いをつけるんだよね?」


 猫の習性として、自分のもの、という認識のもの(人)には自分の匂いをつけるのだという。高梨はちびの匂いをつけられているから、「ちびのもの」というわけか。

 しばらくすると、満足したのか、ちびはまた自分の座布団に戻ると丸まって眠ってしまった。高梨はそんなちびを見ながら、そっと立ち上がる。書斎にある衣紋掛えもんかけに背広の残りを掛けさせてもらおう、そう思って書斎へと向かった。


 雪見障子を開けると、高梨は見慣れない光景に数度瞬きをする。いつもそこに存在していた「雄二郎」が居なくなっていたからだ。

 いつも衣桁に掛けられていたあの、濃紺の着物が消え去っている。文机が置いてある出窓を見れば、そこにあった写真のない写真立ても姿を消していた。荻窪の仕業だということは、聞かなくても分かる。とりあえず手にしていた背広やシャツを衣紋掛けに掛けた高梨は、空っぽになった衣桁の前に腰を下ろした。

 ここにいた雄二郎のことを思えば、どこか複雑な気持ちになる。同じ、荻窪に惹かれた者として、どこかやはり、淋しさも感じられた。いつまでもそこに「居る」と思っていただけに。


 居なくなった雄二郎を見上げるように、揺れる瞳で衣桁を見つめていると、私室がある源氏襖が静かに開いた。その音に高梨が源氏襖から現れた荻窪へと視線を移す。手ぶらの荻窪の両手を見た高梨が、いぶかし気に彼を見つめた。


「先生、ここの着物はどうされたんですか?」


 高梨は真っ先に問いかえる。高梨の中でこの雄二郎の着物は、この先も外されることはないと思っていたからだ。そんな高梨の問いかけに、荻窪は小さく笑う。


「外したんだ。」


 ゆっくりと歩み寄ってきた荻窪が、高梨の傍に膝を付いた。そっと寄り添った荻窪の体温が、じんわりと伝わってくる。


「雄二郎には、眠ってもらうことにしたんだよ。」


 一緒に衣桁を見上げた荻窪の手が、高梨の肩を抱き寄せた。とん、と軽い力で引き寄せられたにも関わらず、高梨はあっという間に荻窪の手の中に抱き留められている。

 眠ってもらう、その言葉に高梨の胸がぎゅう、と熱を持ってどくりと大きく鼓動した。その言葉だけで、高梨は荻窪が高梨を「個」として見ていてくれるということに、確信を持てたからだ。

 だけど、本当にいいのだろうか。一抹の不安はまだ、拭いきれない。そんな不安を払拭するように、荻窪がふと顔を近づけてきた。高梨の髪に鼻を寄せてくる。


「いい匂いがするな、高梨くん。」


 すん、と匂いを嗅いだ荻窪が少し驚いたように高梨を覗き込み、自身の腕と匂いを比較した。


「せ、先生と同じ石鹸しか使ってません!」


 いい匂いがするだなんて、いつもいい匂いがしている荻窪に言われたくない、と高梨は近づいた荻窪の顔を、ぐい、と押し退ける。手のひらに感じる荻窪のざらりとした無精ひげの質感と、滑らかな皮膚の感触が、思わずその手の動きを止めさせた。

 そんな高梨がおかしかったのか、荻窪はくつくつと喉の奥で低く笑う。高梨は荻窪の、この笑い声が好きだった。荻窪の大きな手が高梨の後頭部に回されたと思った瞬間に、柔らかく重ねられた口づけは自分の鼓動を跳ね上げるにはあまりにも十分すぎる。

 柔く食まれた下唇に余韻を残したまま、荻窪がゆっくりと離れていった。高梨がそれを追いかけるように荻窪の背中に手を回す。もっとしてほしい、とは言葉にできないまま、高梨はそっと荻窪を引き寄せた。

 自分はいま、どんな表情をしているのだろう、そも思ってしまうほど頬が熱い。荻窪の視線が食い入るように高梨に注がれていて、身を捩るだけでもすぐに噛みつかれそうな印象を受けた。


 理性で衝動を抑え込んでいる野獣のような雰囲気を醸している荻窪の、普段の穏やかさは鳴りを潜めている。欲望をむき出しにされることが、こんなにも違うのか。

 高梨の肩に回されている荻窪の指先がいつもより、強く感じる。湯上がりだけでは説明の付かない体温の熱さも。


 以前若竹の欲望を剥き出しにされた時は、嫌悪と恐怖しかなかったのに、目の前の荻窪は違って見えた。

 暴走してしまわないように自身を抑制しながらも、押さえきれない感情が強い視線からあふれている。それが、高梨には愛しいと感じさせた。


 この人になら、なにをされてもいい。


 高梨はそう想いを込めて、彼の頬に手を当てる。そして、高梨がいまできる精一杯の愛情表現で、そっと唇を荻窪のそれに寄せた。いつだったか、荻窪にされた濃厚な口づけには及ばないが、高梨にとっては、それが精一杯だ。淡い、触れるだけの口づけでも、心が震えてしまうから。


「先生、もう、言ってしまってもいいですか?」


 ふ、と息を吐いた高梨がそう、荻窪に問いかけた。高梨は言いたかった、確かに荻窪に魅せられている、あの時も、いまも。でも、いまはそれ以上に伝えたい気持ちがあふれてしまいそうだ。


「ああ、きみが言ってくれる言葉なら、なんだって聞くよ。」


 なにを言われるのか、分かっているように荻窪が小さく笑みを浮かべて、高梨に頷いてみせる。もう大丈夫だから、とでも言われたようで、高梨はいまから自分が口にする言葉の重みに、ごくりと喉を鳴らした。


「……先生、ーー好きです。もう、我慢できません。好きなんです、先生。」


 声が震えた。思っていたよりもか細い声が、細い糸のように張り詰めていく。雄二郎の「お前を好いている」という言葉をなぞってしまうことが、怖かった。

 だが荻窪は、高梨のことを抱きすくめると高梨の肩に言葉を乗せる。


「私もね、きみのことが好きだよ。このまま閉じ込めてしまいたいくらい、好きなんだ。」


 普段の荻窪からは想像できないほど、強い言葉が返ってきた。

 「閉じ込めてしまいたいくらい」という言葉は、高梨にとって恐ろしく甘美な響きを持って耳の奥に届いていく。甘くじわりと頭の芯まで痺れていくような感じがして、荻窪にしがみついた。

 高梨は荻窪の背中に回した指に力がこもり、いままで感じていた金属のような冷たさを持った心に熱が伝わっていくのを感じる。芯から震わせるその言葉が、高梨の奥に届くころ、荻窪はもう一度高梨の淡い唇に深い口づけを落としていた。




 ーー熱を帯び眠りに就きし、亡霊ひとつ。 

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