第三章 内の宵闇、空の青
路面電車が、枯れ葉を巻き込んで走り去る。煉瓦の建物が増える中、街中はいまでも木造家屋が連なりを見せていた。
すっかり秋も終盤に入り、外套が手放せなくなってきたこの頃、高梨はいつものようにデスクで仕事を片付けていた。
そういえば、いまだに荻窪からの今月の原稿をもらっていないことに気がついて、立ち上がる。
「荻窪先生のところに行ってきます。」
これの宣言はつまり、原稿をもらうまでここには現れないぞ、作家のもとにいるぞ、の宣言とも言えた。
「はいはい、よろしくな。」
編集長ののんびりとした声だけが高梨の背中にぶつかって、消えていく。
路面電車に乗り込む足がいつもよりも軽い。これから荻窪の元に向かうのだと思うと、帰路と同じ路面電車なのにも関わらず、気持ちが軽く感じられた。
枝を落とした木々が冬支度をしている風景を眺めながら高梨は、今度はなにを手土産にしようかと考えていた。
この前のどら焼きは、結局食べてくれたのだろうか。
それとも甘い物は苦手だっただろうか。
それなら今度は甘くない物がいいのだろうか。甘くないものとしたら、酒のつまみになるような塩辛いもののほうがいいのだろうか。そういえば、荻窪は酒もやらない、と言われていたと思い出す。それでも茶漬けくらいは食べることがあるだろうと思い直し、高梨はなにがいいかと考えていた。
途中の電停で降りた高梨は、デパートの中に吸い込まれるように、入っていく。
ここのデパートは、なんでも揃うからかなり便利だ。高梨はよくここの手土産の品を利用していた。
そこで高梨は、烏賊の塩辛を購入し包んでもらう。少しでも先生が喜んでくれるといいのだけど、とあの薄く笑う荻窪を思い出して、烏賊の塩辛とを見比べた。日常の食卓に並びそうな塩辛と、家庭的な雰囲気からは遠いところにいる荻窪を想像する。
――似合わないな。
くすりと笑いがこぼれた。
お茶漬けや湯で食べる姿を想像して、さらに笑みが深くなる。少し渋い顔をして、烏賊の塩辛を口に運ぶ荻窪を想像した高梨は、思わずくすくすと笑って肩が揺れていた。
頬に当たる風が冷たかろうが、今日は気にならない。下から吹き上げる風が髪を弄ぼうが――それはさすがに気になったのか、高梨は片手でそっと髪を抑えた。
もう一度路面電車に乗り込んで、今度はいつもの電停で下車した高梨は、自宅とは反対側の方へと進み行く。
今度はどんな顔をするのだろう、あの静かな空気に触れることが何よりの楽しみだ。高梨は自然と早足になっていた。
いつものように少しだけ坂を登り、そこの角を曲がると見えてくる黒塗りの木板の塀に囲まれた荻窪家、そこの前には狸(とは思えないほどいびつな)の置物がある。
そろそろ日暮れも近い夕方に、高梨は荻窪の進捗を窺いに来た。まだ締め切りまでは間があるものの、普段から音沙汰のない荻窪が心配だから。ほかの作家の先生はよく電報を打ってくるのに、荻窪はこちらから出向かない限り、無音のままだ。高梨が担当になってからは必ず最低でも月に一度は顔を出すようにしているから、それでも生存確認ができている。
高梨は荻窪の言いつけどおり、狸(のように見えるいびつな)置物の口元に手を当てた。
触れたときに気がついた、これが動くことに。
下あごがまるで引き出しのように引き出せるようになっていて、そこを引き出すと鍵が入っている仕組みだったことにまず、驚いた。こんな仕掛けになっていることを、誰が想像できるだろうか。そもそもそんな発想で作ることがあるのか。
これはどういう……いや、どこで売っている……売っているのか、それとも誰かが作ったんだのかという疑問が、一番正しいような気がする。
あまりにも独特すぎて、所有している荻窪ですら「狸……だったかな?」とあやふやだったことを思い出す。彼もまた、この狸(のようにも見えるような気がする)置物がなんなのかを分かっていないようだった。
重々しい鍵を手のひらに握り込んでから、鍵穴にゆっくり差し込んで、回してみる。
がちゃりと、回す速度に合わせて開く鍵の音がして、高梨は恐る恐る鍵を引き抜いた。
引き戸に手をかけて、そぅ、と開けばからからと軽く開いていく。
玄関から見える廊下は薄暗く、居間の時計の音がここまで聞こえてくるほどの静けさだ。
高梨は音を立てないように静かに上がると、壁伝いにそろりと進む。少し進めば台所があり、居間に向かえば夕陽が差し込んでいた。
縁側に出れば外から聞こえるかすかな風の音が耳に響き、この家がどれほど静かなのかを知らしめる。
高梨はすぅ、と息を吸い込んだとき、高梨はこの家にへ来るたびに感じていた、白檀の香りを肺いっぱいに吸い込んだ。荻窪の落ち着いた雰囲気と実に似合う。
もしかすると、荻窪が愛用している石鹸が白檀なのかもしれないと、思い至った。
自分の家は、父が吸う煙草の臭いに、母が好んで使う花のような石鹸の香りが混ざった匂いだ。父の仕事柄、潮の匂いも混ざっている。
息が詰まるような、そんな気がするのはその匂いのせいなのかもしれない。
ゆっくりと足を進めるたびに、古板が軋んだ。荻窪のように、ひたひたと歩くことができないことに、自分の動作ひとつひとつがひどく粗野に感じてしまう。
静まり返った廊下でひとり、居たたまれなさに身を縮めた。
数日前に擦りむいた、鼻緒の擦り傷がまだ少し痛む。足元が覚束なくて、ほんの少し身体が揺れた。
――先生は執筆中だろうか。
「荻窪先生、僕です、高梨です。もちろん、ご在宅ですよね?」
そう声を掛けながら雪見障子を静かに開けると、文机に向かって頬杖をついている荻窪の横顔が見えた。
「先生!」
つい、とこちらを見やる荻窪は、薄い笑みを浮かべると高梨向かって低い声で歓迎する。
「やぁ、よく来たね。」
高梨はてっきり寝ていると思っていたから、その姿に思わず肩がひくりと震えてしまう。
「起きていらしたんなら、雨戸くらい開けてくださいよ!」
驚きのあまり大きな声が出てしまった。
それを見た荻窪は、切れ長の目を丸く見開いてきょとんとした後、くつくつと低く笑い出す。
石油ランプの灯りでうっすらと明るく照らされた荻窪の肩が、揺れているのが見えた。
荻窪にはいつも、驚かされている気がする。
それに、小さくはあるけれど、表情は豊かな方だと感じた。
「ああ、起きたのはついさっきでね。――おはよう、高梨くん。」
落ち着いた声がゆっくりと、荻窪の黒い瞳がゆたりと、高梨に向かう。
「こんにちは、ですよ、先生。それに、雨戸も開けないといけないでしょう?」
そう言いながらも高梨は荻窪の元に歩み寄る。石油ランプがあるから、足元が見やすくて助かった。それから、ふと思う。
もしかして荻窪は、自分のために石油ランプを灯してくれたのではないか、と。
嬉しさと恥ずかしさが入り混じり、高梨は乱暴に手を差し出すと、ひらひらと振った。書き上がっているのなら、原稿をください、という合図だ。それに気が付いた荻窪は、まるで阿吽の呼吸のように、高梨の手に原稿を無造作に置く。
それからいつものように音もなく立ち上がると、ついと雨戸のほうへと視線を向けた。
「しばらくそれを読んでいてくれ。私は雨戸を開けてくるとしよう。」
そう言っていつもの儀式のように、静かに、だけど、古い軋みをたてながら雨戸を開けに行く。まるで高梨のことは、いまこの瞬間に忘れてしまったかのような、そんな背中になぜか、心が痛い。薄暗い室内を迷うこととなく歩いていくその後ろ姿に、高梨は一抹の寂寥感を感じてしまう。
高梨はその背中を見送ると、静かにその原稿の上を流れる文字へと目を落とした。
伏目がちの頬に睫毛の影が落ちる。文字追う瞳だけが上下する。
ぱさり、と次の原稿へ送る指先はどこか浮ついていて、立ったまま、終わりまで読み切っていた。そうして、一番最初に思ったことは、カナリヤのことだ。木乃伊になった妻の指に留まり、愛を奏でる声で鳴いていた。
――カナリヤはなぜ、あんなふうになったんだろう。
そう思いながら、荻窪の姿を捜しに縁側へ出る。
荻窪家の廊下と縁側は長い。
丁寧に一枚一枚戸袋へと仕舞っている姿を見つけて、高梨はそっと傍に歩み寄った。
「先生、こちらにいましたか。手伝います。」
荻窪がいつもの色合いの着物を着て、黙々と雨戸を開ける作業を繰り返している。一枚一枚を丁寧に仕舞うその所作は、なにを意味しているのだろうか。
その横顔をつい、見てしまう。通った鼻筋に薄めの唇、切れ長の黒い瞳と凛々しく流れる眉――。
雨戸に触れるその手は節ばってごつごつしているのに、けして雑な触れ方をしない。
撫でるように、滑るように雨戸を仕舞っていくその姿に、高梨は一瞬目を奪われていた。
高梨は荻窪家の雨戸を何度か開けたり閉めたりを手伝ったことがあるから、迷うことはなかった。
しばらくの間、二人は無言のまま雨戸を開けることに集中する。
最後の一枚を開け終えたとき、高梨はぽつりと言葉を漏らしていた。
「……先生。カナリヤはなぜ物の怪になったんでしょうか。」
硝子戸の木枠に手をかけて、庭を見つめる高梨の横顔を荻窪が何も言わずに眺めた。
庭には色とりどりの鳥たちが、いろいろな鳴き声で囀りながら飛んだり、留まったりしている。
そんな中、荻窪が書いたカナリヤだけが、物の怪になる――。
「高梨くんは、どう思うんだい?」
先ほどまで薄暗かった荻窪の家に、いまは明るく日差しが差し込んできていた。
小さく風がふいたと思えば、落ち葉を巻き上げては落としていく。
問いかけられた声色はいつものように低かったが、そこにはあまり感情が乗っていないように思えた。
ちらりと荻窪の横顔を盗み見る。
「カナリヤは……本当に番が欲しかったんでしょうか? 殺されたカナリヤは本当に物の怪だったんでしょうか? 奥さんは……。」
奥さんは本当に、死んでしまったのでしょうか――これは、問いかけでもなんでもない、と分かっていた。矢継ぎ早に言葉を並べ立ててみただけの、感情の吐露に過ぎない。
堰を切ったようにあふれ出してしまっただけの、無意味な吐露だ。
荻窪は少しだけ目を見開いてから、なにかを考えるかのようにうつむいた。
「ひとつだけ、きみの質問に答えるよ。ひとつだけだ。」
低く、ひたりと言い切るときは、一線を引かれた証拠だ。つまり、荻窪は確信を突く解答は絶対にしないし、そもそも正解もない。
縁側に腰を下ろした二人は、庭を飛び交う小鳥たちを見ながら、暫し沈黙した。
「では、先生。」
高梨が座り直してから、荻窪に向き直る。
そんな姿に意表を突かれたのか、荻窪の切れ長の瞳がまた小さく見開かれた。
「カナリヤは、この『妻』を最初から取り入れようと思っていたんでしょうか?」
一番聞きたかったことは、これだ。
取り入れるつもりで、店先からすでに目をつけていたのか、それとも、飼い主として定めていたのか。
なぜ彼女である必要があったのか。
知りたかった。
知らず知らずのうちに、ごくりと喉がなる。
「――かなりやとて恋をするだろうね。それがたまたま人間だったとしたら、きみはどう思うんだい?」
荻窪はやや考えるように庭へと目を向けると、す、と高梨に戻した。そして、答えを待つように、ひたりと視線を据える。
「カナリヤは、人間になりたかったでしょうね。それが『妻』の生気を吸うとは知らなかっただけだと、思いたいですよ、僕は。」
そうなれたら良かったのに、ただそう思った。だが現実はそう思い通りには、させてくれなかった。
最後に囀っていたカナリヤは、「ころせ」なのか「ころしてくれ」なのかどちらだったのだろう。
もしも、カナリヤが『妻』に恋をしていたら、人間になりたいと願うだろう。もしくは、『妻』がカナリヤになればいいと願うだろう。
そのどちらもが叶わなかった――。
もしも、『妻』もカナリヤになりたいと思ったとしたら――。
高梨はふと、そう思い立つ。
そういうことか。あれは『夫』だけが見た、悲しい話なのかもしれないということだ。
もし、内側にいる『妻』やカナリヤなら違っていたかもしれない。
もしかしたら、『妻』とカナリヤはあの形が幸せだったとしたら。
高梨はそこまで考えてから、そういうこともあるかもしれない、と思い至った。
外側(夫)側から見たら悲劇の話かもしれないが、内側である妻やカナリヤから見たら、悲劇ではなかったかもしれない。
「そうか。」
荻窪の静かな返事に、小さく頷いてみせる。
自分の考えや思いを、整理できたことを小さく伝えた。
荻窪の視線が、原稿はあれで完成だ、と伝えてくる。
高梨はこれから眠るのだろう荻窪の邪魔をしないように、素直に職場へ戻るつもりだ。
「ああ、では、原稿をいただいていきますね。」
二人はゆらりと立ち上がると、書斎へと向かう。
荻窪はもう少し寝るために、高梨は原稿を手に職場へ戻るために。
書斎でふと、手土産の事を思い出して、慌てて荻窪の手の中にそれを押し付けた。
「あの、今度は甘くないものにしました!」
ぐい、と押し付けられて、荻窪は手の中の小瓶に目をやった。
『烏賊の塩辛』と書かれた小瓶を手の中に握らされ、荻窪は高梨の顔をまじまじと見つめてきた。
「あ、お嫌いでしたか?」
先生に対して失礼だっただろうか、と思ってから、烏賊はお好きではなかっただろうかと不安になる。
「いや、そういうことではなく……、」
珍しく歯切れが悪い荻窪の、肩が小さく震えていた。大きくて無骨な手の中に握らされた「烏賊の塩辛」は、小さく見える。
「手土産は気にしなくていい、今度から手ぶらで来てくれて構わないから。」
くつくつと低く笑って、「突拍子もないな、きみは」と付け足した。
「それでは失礼では……、」
高梨は困惑する。突拍子もないな、と言われたのは手土産を持ってくるからなのか、それとも烏賊の塩辛がだめだったのか分からない。
「その代わり、たまに夕餉に付き合ってくれないかい?」
荻窪はそう言うと、高梨の頭に軽く手を乗せた。
それだけでいい、というように。
「僕で良かったら、いつでもお願いします。」
急に心が軽くなる。
その時、高梨の中でなにかが切り替わるような、とても小さな小さな、だけど、心地の良い音がした。
「おや……猫の毛のようだね。」
荻窪は愛玩動物を撫でるような仕草で、高梨の頭をくしゃりと撫でる。
高梨はその手の感触に、思わず一瞬だけ首を竦めた。だが、手のひらの温かさに、猫のようにもっと撫でて、と無意識に寄り添いたくなってしまう。
撫でる手が気持ち良くて、ぴくりと身体が揺れそうになった。
首筋が熱くなったような気がして、少しだけ落ち着かない。
温かい手のひらが頭に、髪に触れることはいままで一度もなかったから。
「いつでもおいで。」
荻窪はそう言うと、少しだけ顔を背け無骨な手で口元を隠した。
まだ寝足りないのだろう、大きなあくびをする。
あくびをするときに口元を隠す、その所作もまた、高梨からすれば見慣れないもののひとつだ。
きっと父なら「男児たるもの……」と言い出すに違いない。
優しい声の調子に、高梨はなんだか泣きたくなってくる。いったい、この気持ちは何なのだろう。
「それじゃ、先生。原稿をいただきます。来月もまたよろしくお願いしますね。」
高梨はそんな荻窪のために、原稿を茶封筒に保管すると、頭を下げた。
「ああ、頼むね。――高梨くん、私はいつきみが来ても構わないのだから、気にしないでおいで。」
書斎の柱に凭れるように立ったまま見送る荻窪は、とても眠たそうだ。ぼそりと告げられた言葉に、高梨はわずかに引っ掛かりを感じてしまう。もしかして、この前この家の前まで来たことを知られていたのだろうか。さすがに荻窪でもそこまでは気が付かないはずだ。たまたま、そう言ったはずだ。胸の辺りで手を握りしめると、高梨はもう一度頭を下げる。
「すまないが、今日はここで勘弁しておくれ。眠たくてね。」
荻窪は柱に凭れたまま腕を組み、高梨を見つめていた。眠たそうな目つきがまた、変に色気を帯びていて、高梨は見てはいけないものを見た気がする。眠たい、という言葉通り、いつもはきっちりと着こなしている着物の胸元も、心なしか開いていた。僅かな隙間から、いつもは見えない胸元が見え、高梨は何故か「カナリヤ」のことを思い出した。
「はい、先生。そのまま眠ってください。僕は編集部へ戻りますね。」
荻窪が眠そうにその手をゆらゆらと振り、高梨を見送ってくれる。長居をせずに高梨はそのまま玄関に向かった。名残惜しいが仕方がない、とばかりに玄関から出てくると、高梨は改めて荻窪の家の格子戸を見つめる。きっと今頃、荻窪は布団の中に戻っていっているだろう。
狸の置物の口から鍵を取り出して、今度は鍵を掛ける。がちゃり、と重厚な音がして、鍵がかかった事を確認してからまた、狸の置物の中に鍵を戻した。
この奇妙な仕掛けそのものが、まるで荻窪みたいだ、と思う。
狸(と言えなくはない)置物、奇妙なものをなぜ置いているのだろうと不思議に思いながらも、高梨は軽い足取りで職場に戻っていった。
――内の宵闇、空の青。




