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第一章:其の三:生を落として、闇を待つ

「でも、ご家族の方は? ご迷惑じゃありませんか?」


 ――人がいる気配はまったく感じられないけれど。


「私一人しか住んでいないから、遠慮はいらない。それに、編集者なら身元も確かだからね。」


 こんな大きな家に一人。

 どおりで音が響くわけだ、時計の針の音。近所の声、耳を澄まさなければ聞こえなかった風の音。


「そうなん……ですね。」


 ぱくり、どら焼きを食べてから、荻窪が淹れてくれたお茶を飲む。お茶の苦みが甘さをすっきりと流してくれた。


「美味しい……。」


 ぼそりと声に出てから、は、と荻窪を見上げれば、やはりどこか楽しそうにくつくつと笑っている。


「それは何よりだ。落ち着いたら、書斎に案内しよう。普段は書斎にいるからね。」


 そう言うと、荻窪はゆっくりとお茶をひと口飲んだ。

 ごくりと、上下する喉仏に目を奪われる。

 この人、よく見ると美丈夫だ、と気がついたのはこの時かもしれない。綺麗に整った首の筋、あごの線、そこから耳に上がって――切れ長で黒い瞳が高梨を見た。高梨は思わずその瞳が持つ強さに見惚れ、荻窪の視線とかち合った。その瞬間、荻窪の目が緩やかな弧を描き、おかしそうに息が漏れる。


「気が済んだかい?」


 穏やかな声だった。そして高梨は自分がいましていたことが恥ずかしくなり、頬が紅潮していくのが分かる。どうしよう、失礼な担当だから替えてくれと連絡がいってしまったら……。


「渡辺くんが言っていたんだろう? 『変わり者』だと。」


 だからじっくりと観察していたと思われたのか、と合点がいった。そういうわけではなかったけれど、そう思ったのならそのまま行こう。高梨はそう決め込んで、小さく頷いてみせた。


「はい、あの……、すみません。」


 不躾に見てしまったことは素直に謝罪する。

 だが、荻窪が持つ身体の線は、正直少し羨ましい。


「きみも、私が変わり者だと思っただろう? ――さて、書斎に案内しよう。」


 返事を待たずに荻窪が、音も立てずに立ち上がった。こっちだ、というように、縁側に向かう障子を開けると、ひたひたと進んでいく。す、と一本筋を入れたようなまっすぐな姿勢に、高梨は慌ててついて行った。荻窪の古板の廊下を歩く、素足すらどこかごつごつした印象だ。


 庭が見え始めた。色彩豊かなこの庭は、誰が世話をしているのだろう。

 四季折々の庭木が植えられており、言うなれば……なにかを弔うかのように、整列しているように見えた。


「あの、先生、こちらのお庭は……、」


「私が管理しているよ。」


 荻窪はなにを言いたいか、すぐに気がつく男のようだ。高梨はそれを知って、やはりこの人は亡霊のような人ではないと確認する。

 亡霊のように装っているけど、そうすることできっと相手を観察しているんだ、高梨はそう結論付けた。


「ここが書斎だ。」


 雪見障子が開かれると、そこには出窓に文机ふづくえが設置され、そばには小さな台があり、その上に石油ランプがあった。文机が向かう出窓には、写真立てがひとつ。誰か――大切な人でも入っているのだろうかと見ようとしたが、荻窪に声をかけられた。


「あっちの源氏襖の向こうは私の私室だ。」


 あとはほとんど使ってない部屋なんだ、と低い声が告げる。


「そうなんですね。」


 高梨は書斎を一望してから、肩を震わせた。

 衣桁いこうに掛けられた古い着物が、物を言わずに佇んでいるように見えた。

 濃紺の着物が人のように見えて、息をのんでしまう。


「ああ、これは――大丈夫だよ。手入れをしてあるから。」


 荻窪は薄く笑った。まるでこれ以上踏み込むな、と言わんばかりに。その笑顔は少し淋しそうで、高梨は言葉を飲み込むしかなかった。


「分かり、ました。」


 高梨もそれ以上は踏み込めない。作家がそういうなら、そうなのだろうと納得するしかないからだ。


「さて、高梨くん。」


 荻窪が高梨の前に立ちはだかる。至近距離だと本当に威圧的に感じるくらいだ。


「は、はい。」


「私はそろそろ執筆するから、見張っていておくれよ?」


 荻窪がそう低い声で言うと、文机に向かって万年筆を手に取った。

 そこからは、外から聞こえる風の音、風が木々を揺らす音、荻窪の呼吸音、万年筆を走らせる音、時計が時を刻む音しか聞こえない。


 高梨はそんな荻窪の背中を見つめた。

 この、得体のしれない先生は、何を考えているのだろうか。

 変わり者と言われても穏やかなまま。

 じろじろと観察されても何も言わず。

 渡辺から聞いたとおりなら、酒も煙草も賭博も女もやらないという。


 ――この人の楽しみはなんなのだろう。


 高梨はふと、庭に目を移した。


 そこには、高梨が見た写真の背景がある。

 あの写真はここで撮られたものだったのか。

 先生はあのとき、ここから何を見て、なにを考えていたのだろう。


 ゆったりと、目蓋まぶたが重くなっていく。

 時間を忘れたように、家に帰りたくなくて遅くまで仕事していたことがここで、裏目に出るとは思わなかった。


  ――寝てはだめだ。


 そう思うものの、高梨はそのままぱたりと、倒れるように横になり、すぅすぅと寝息をたて始めた。


 荻窪はその音を聞いて、万年筆を止める。

 振り返って、静かに息を吐き出した。ようやく寝たか、とでも言うように。


 私室に向かって掛け布団を持ってくると、高梨にそっと掛けておく。


「疲れた顔をしていたからな、少しは眠りなさい。――ゆっくりおやすみ。」


 くまができて、ひどい顔色をしていた。

 あれではいずれ倒れると思われたのだろう。

 荻窪はまた静かに文机に戻ると、万年筆を手に執筆を始めた。




 ――生を落として、闇を待つ。

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