第二章:其の一:生を落とす手、空を掴む手
高梨が初めて荻窪と出会ったのは、夏も終わりの頃だった。あれから幾度かやり取りをしていたが、荻窪からは同僚が言っていたような、「変わり者」という感じは見られない。
むしろ「変わり者」と揶揄されるような空気感が逆に居心地の良さを感じさせ、高梨はいつの間にかすっかり荻窪に馴染んでいた。
気が付けばすっかり暑さの気配を消し、涼しい風が吹いていた。夜にはひんやりとした空気が辺りを包み、秋がゆっくりと近づいている。
随分久しぶりとなる早い時間に帰宅した高梨が居間に顔を出せば、案の定、両親とともに幼馴染の幸代が食卓を囲んでいた。玄関先で聞こえた賑やかな声はもしかして、と思ったがやっぱりか。高梨はややうんざりしてしまう。母が推し進めてくる幸代は、近代の象徴であるモダンガールとは真逆の、古き良き女性という感じだった。つぶらな瞳とやや肉厚の唇は小さめで、いつも笑顔の優しい女の子だ。高梨から見れば、十まではいかなくともそれくらいは年下の女の「子」でしかない。母曰く、幸代はとてもかわいらしく清純で、自分と結婚して子供が生まれればきっと、とてもかわいい子が生まれるはずだ、と豪語していた。
高梨はそもそもが結婚に対して、希望を抱いていないことはもちろん、したいとも思っていない。誰かを特別に愛情を掛けられるとも思っておらず、自分を大切にできない自分が、相手を大切にできるとは思っていなかった。
「駆流さん、今日はさっちゃんが作ったんですよ、ほら、早くお食べなさいな。」
明らかに嬉しそうな母の声が耳に届く。さっちゃんのお料理の腕前、すごいんですよ、と高梨の背中に手を当てて引き止めた。母が高梨の顔を覗くように、回り込む。にこりと微笑むその顔は、自分とよく似ていた。だがその瞳はいつものようにどこか虚ろで、相変わらず自分を映していない。高梨はそんな母の目には慣れてしまっていたが、それでも不気味に思うことには変わりなかった。
背中に添えられた母の手から無言の圧力を感じたような気がして、そっと振り返る。
母が言う「さっちゃんが作ったんですよ」というそれを無下にするわけにもいかず、高梨は仕事の先輩方と食事をしてきた、と返そうとして言いかけた。
「ああ、でも、今日は……、」
「駆流、せっかく幸代さんが作ってくれたのに、ひと口も食べないのか?」
母の言葉を辞退しかけた高梨に、父が重く口を挟んだ。いつもは無口な父が口をはさむとき、それは高梨が母の好意を断ろうとする時だ。まるで母に操られているかのような錯覚さえ覚える。
言い訳も必要ない、言うことだけをきけ、と言わんばかりの重い声が耳に届く。寡黙に口を動かす父は、一切自分を見ていなかった。
――いつもこうだ。
高梨が旧高等学校を卒業して、そのまま逃げるように編集者としての仕事を始めたとき、この父は「大学に行けたものを、わざわざ投げ出すとは情けない」と断じた。
いつも黙って受け入れなければ機嫌が悪い父のこの石頭には、こちらの心を削り取るためだけの無機質な言葉が、幾重にも塗り固められていた。
ため息を吐き出したい気持ちを堪えて、高梨は仕方なく食卓に付く。椅子を引き出す手がとても嫌がっているようで、ずるずるとゆっくりとした動作になってしまう。仕方なし、というように腰を掛けた高梨に、幸代と母からの視線が刺さった。
「先輩方に付き合わせていただいたから、少しだけ。――いただきます。」
家で食べるご飯など、味気ない。
期待に膨らんだ幸代の視線が、高梨に突き刺さる。母の虚ろな瞳が高梨を見る。きちんと食事を摂っているか、容姿の確認をしているようだ。
正直に言えば、高梨はこの家で摂る食事には、あまり味を感じていなかった。
必要だから食べている、ただ、それだけだから。しかし、胃が受け付けない。この家の食事はどこか不気味で、高梨は外で食事を摂ることも多かった。特に高梨が食事を摂るところを見つめる母の視線がまとわりついて、まともな味すら感じない。
二、三口運び、箸を置いた。
「さっちゃん、本当に食べてきたばかりだから、ごめんね。でも、美味しかったよ。――ごちそう様でした。」
これで義理は立てただろう、と食卓から立ち上がる。本当は味なんて分かっていない。美味しかった、そういえば母が声を荒げないから、という理由で使っていることには、やや申し訳なさが残るけれど。
「あら、駆流さん。もういいの? ろくに手もつけてないじゃないですか。さっちゃんがせっかく作ってくれたのに。きちんと食べないとだめですよ。」
追い打ちのように、母の声が背中に当たる。悪気がないのか、それともあえて言っているのか分からない母の声色は、高梨に寒気すら覚えさせる。昔からこうだった。自分のことを押し付けてくる、その癖は変わらない。
だから先輩方と食べてきたと伝えたのに、と思うものの、高梨の言うことはあまり耳に入っていないようだ。高梨の言葉が本当に聞こえているのかさえ、分からない。
「おばさま、駆流お兄ちゃん、お仕事の先輩方とお食事してきたって言っていたから……。」
慌てたような幸代の声とともに父の「情けない奴だ」という吐き捨てるような言葉が聞こえてきた。
もう、どうでもいいから早く風呂に入ってすっきりしたい、そう思いながら、足早に自室へ向かった。
***
背広を脱いで、寛げる和服に着替えると、そのまま手拭いやらを手に、風呂場へ向かう。
自室は薄暗く四畳半という空間しかないが、物が少ない分不便はない。そもそも、眠るための布団が敷ければそれでいい。しかも二階の一番奥まった場所に位置しており、兄弟とは真逆だった。
家を出て職場の近くに下宿しようとしたときも、父と母がみっともないと一喝してきたし、更に母からは家事ができないのだからと止められた。
母は高梨が自宅の風呂場で自分の手ぬぐいなどを手洗いしていることを、知らないのだろう。自室に入ったこともないのだろう両親に、そう強固な姿勢で止められて、高梨は一度諦めたふりをした。
家を出ることも許されず、いつもこの家は息が詰まる。
子供の頃から安堵できたことがあっただろうか。
高梨は冷たく薄暗い廊下を、素足でひたひた歩いていく。電灯が点いているはずの廊下だが、どこか薄暗かった。隅まで明かりが届いていないからだろうか。
風呂場へ向かうには、居間の脇の廊下を通る必要があるが、そこに、偶然なのか幸代と鉢合わせた。
高梨の姿を見て、目を輝かせる。
「駆流お兄ちゃん、どれが一番美味しかった?」
どれが……。そうは言われても言葉に詰まる。記憶に残っている味は、なにひとつなかった。
高梨にとっては全部同じ味にしか感じない。
「ああ、そうだね……いももちかな。」
最後に口の中に入れたものを思い浮かべた。確か、それだったはず、と思いながらもあまり覚えてはいない。なにか、少し喉に引っかかったような感覚だけは、覚えていた。
「そっか、分かった!」
幸代の笑顔は純粋だ。
だからこそ、高梨は苦手だ、と思う。無垢な悪意を突き立てられているようで。
幸代の後ろ姿を黙って見送った高梨は、静かに目を伏せると、今度こそ風呂場へ向かって歩き出した。
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