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第一章:其の二:生を落として、闇を待つ

 片手を上げて見送る編集長は、なにか含んだ笑みを浮かべていたようにも思うが、高梨はとりあえず挨拶だけでも、と路面電車の電停へ向かう。


 その道中なにか手土産があればいいか、と店を覗いて歩いた。高梨はきょろきょろと辺りを見渡しながら、ふと、荻窪がどら焼きを頬張る姿を想像してしまう。

 ああ、ここのどら焼きにするか、そう思って手にしたのは有名な和菓子店のどら焼きだ。


 それを手に、同じ路面電車の電停で降りるのに、いつもとは別方向へ向かった。自宅に帰る感覚とはまるで違う変な感覚だ。


 古い木造家屋が目印、門から入ってすぐ玄関の横には変な生き物の置物がある、それが目印だった。


 正直、変な生き物の置物、というのがまるで想像も付かない。どんなのだよ、それ。とぼやきたくもなる、が。


 角を曲がってすぐのところに、なるほど、狸なのか猫なのか犬にも見えるし、鼠にも見える。変な生き物の置物としか言いようのない置物が、でんと置いてあった。これは確かに、「変な置物」と言わざるを得ない。


 表札を見上げれば「荻窪」と書かれており、間違いなく荻窪先生の家のようだ。

 格子扉を軽くとんとんと叩いて、「ごめんください」と何度か声をかけてみるが応答はない。


 格子戸に手をかけてみればからからと軽く開いた。

 高梨は少しだけ引き戸を開けると、お腹の底から声を張り上げた。


「ごめんくださぁい!」


 しばらくして、奥から「ああ」と低く聞こえたような気がして少し待ってみる。

 ひたひた、ひたひた、廊下を歩く音だけが響いてきたかと思うと、存外大きな体躯の男がのそりと顔を出した。


 ほんの一瞬、動きが止まる。切れ長の瞳が僅かに見開かれたが、すぐにもとに戻った。


「なにかうちに用事かい?」


 暗茶の着物に身を包み、濃茶の羽織を引っ掛けて乱れた黒髪に無精髭、家にこもっていると言われるように色は白いが体格はいい――、そんな男が顔を出した。


「初めまして、僕、高梨駆流たかなし かけると申します。前任から引き継いで、今日はご挨拶に伺いました。」


 そう言って頭を下げて、荻窪を改めて見る。玄関という上下の高さはあるものの、それにしても目線が上に行く。背が高い、大きな体躯、ともすれば威圧を感じさせる印象の男だ。それでもどこかそこまで怖さを感じさせないのは、この茫洋とした雰囲気のせいなのだろうか。


「つまらないものですが。」


 と、道中で買ったどら焼きを手渡すことも忘れない。


「ああ、高梨くんね。私は荻窪だ、よろしく頼む。それから――これ、ありがとうね。よかったら、上がっていきなさい。」


 最低限のことしか話さない人、それが荻窪への第一印象だ。大きくて骨ばった手でどら焼きが入った袋を受け取ると、小さく笑った。薄い口元に笑みが浮かぶと、また印象が変わる。


「え、でもご迷惑じゃ……、」


「誰もいないから、この家。心配する必要ないよ、上がっていきなさい。」


 廊下で振り返った荻窪が、念を押すようにそう、高梨に告げた。


 男が独り暮らししているわりには、埃がない。廊下を歩いていて気がついた。

 確かに古びている、だが、手入れは行き届いている。それならやはり、さっき言った「誰もいない」は、いま、誰もいないという意味か。高梨はそう考えながら、家の中を観察した。


「ここに座っていておくれ。」


 そう言って通されたのは、居間。重厚な卓袱台ちゃぶだいの前に案内されて、ぽすんとひとつの座布団を手渡された。緑色の無地の、おそらく使われていないもの。


 高梨は座布団を敷いて卓袱台の前に座ったが、そんなことをしていていいのかとそわそわしてしまう。

 普通なら逆なのでは……、と諸先輩方に聞いた話とは真逆のおもてなしを受けて、戸惑いが隠せなかった。


 台所から戻ってきた荻窪は、お盆に急須と湯呑みをふたつ乗せて戻ってくる。


「ぼ、僕がお淹れしましょうか!」


 頼むから自分に頼んでくれ、そう願うも荻窪は切れ長の目をちらりと高梨に向けるのみで、そのままお茶を入れ始めた。


 その所作は整っている。


 しかし、高梨は初めてのことだらけで、いっぱいいっぱいになってなにも見えていなかった。


「はい、どうぞ。熱いかもしれないから気をつけておくれ。――あ、それからきみが買ってきてくれたどら焼きだが、きみも食べて行きなさい。」


 荻窪が更にどら焼きまで受け皿に入れて、高梨の前に差し出してくる。


『あの人、変わり者だよ。』


 渡辺が言っていた言葉を、思い出した。

 わりと大きな家に、行き届いた手入れ、静まり返って時計の針の音しかしない世界。

 存在感があるのに、どこか掴みどころがなくて、そのくせ、黒髪の奥に隠れた瞳はなにかを見ている。


 ――この人、変わり者なんかじゃない。


 高梨の勘が、そう告げていた。


 ――この人はこういうふうに生きていた人だ。


 自分とて、人と打ち解けるのは得意な方だ。

 高梨は荻窪が手にしているその仮面に気がついた。根っこがどこかで同じような、そんな気がして仕方がない。こういうふうにしか生きてこられなかった人、そんな印象を受けた。


「先生はお食べにならないんですか?」


 ぱくりとひと口食べてから、荻窪の手元に湯呑みしかないことに気がつく。


「もしかして甘いの、苦手でしたか?」


 は、として荻窪を見た。


「ああ、いや。こうしたら、きみがどんな反応をするのかと思ってね。」


 喉の奥でくつくつと、低く笑う。

 やっぱり変わり者かも、高梨はそんな荻窪を見ながら、もうひと口頬張った。


「今日は、原稿を取りに来たのかい?」


 荻窪はそんな高梨を見ながら、低い声で問う。


「できているならいただきたいですが……、まだなら出直します。」


 卓袱台に頬杖を付いて、高梨を見ていた荻窪がまた、小さく笑った。


「残念だな、できていないんだ。それに徹夜続きでね、もしかしたら今日は寝てしまうかもしれないから、きみが見張ってると書けるかもしれないよ。」


 薄い唇に笑みを引いた荻窪が、本気なのか冗談なのか、判断つかないような表情をして、高梨を見る。


「は?!」


 思わず出た声に、荻窪が切れ長の目を見開いて驚く。唐突に出てしまった高梨の声に、驚いた荻窪がきょとんとした表情で自分を見てから、くつくつと低い声で笑いだした。着物の袖に両手をしまい込み、仕方がないな、とでもいうような笑みを浮かべ、肩を揺らす。そんな彼を見ていた高梨はふと、同僚の渡辺の言葉を思い出した。


『あの人、変わり者だよ。』


 渡辺の声が再度、耳元で響く。


「この家の鍵、玄関の入り口に置物があっただろう? 確か……狸だったかな……あれの口の中に入ってるから、用があるときは開けて入ってくるといい。」


 あの変な生き物の置物は狸なのか、と変なところで合点がいきつつも、高梨は慌てて家の中を見回した。

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