壱の参 小夜編 ―― 休み方を知らない
つまらぬ女だと、分かってしまう。
小夜はそう言ってから、冗談の続きを探すように唇を動かした。
俺は、そんなことはない、と言いかけた。
何を根拠に。
出会って二日。昔の話を少し聞いて、同じ鍋を食べただけだ。
面白い話をする。気が利く。人の話をよく聞く。それを挙げたら、彼女は明日も同じことを頑張るだろう。
「つまらないって、誰に言われた」
「誰だったかしら」
小夜は首を傾げた。
「顔より、言葉ばかり残ることもありんすね」
俺は紙を卓の上に置いた。彼女の方へ押しつけないよう、真ん中に。
「読んだのは悪かった。隠してたのも」
「そんな大事な物では」
「大事じゃなくても、勝手に読まれるのは嫌だろ」
小夜は返事をしなかった。
湯飲みの茶が、少しずつ冷めていった。
昔の店では、鏡の前で笑う練習をする女がいたという。
嬉しいことがあったから笑う。その逆の順番で、顔を作る。
泣いたあと、目元を冷やして、粉を重ねる。
借りた金の話。遠い家族の話。身体がつらい日の話。小夜はそれらを映していた。
「聞くだけしか、できんせんでした」
「鏡だもんな」
「ええ。でも、そのうち声が届くようになりんした。一人だけ、あちきの話を聞ける方がおいでで」
その女は、小夜の名前を呼んだ。
人を笑わせるのが上手だった。小夜も、真似をした。
翌朝、声をかけても返事がない日があった。具合が悪かったのか、誰かと揉めたのか、小夜には分からなかった。
「気の利くことを申したかったのでありんす。いつものように、笑っていただきたくて」
「何て言ったんだ」
「覚えておりんせん」
覚えている顔だった。
だが俺は聞かなかった。
「今日は、笑わせなくていい、と」
小夜は自分から言った。
「その時に、黙ることもできたはずでありんすね。でも、黙ったら、もうお声をかけてもらえぬ気がして」
鏡はその後、いくつもの持ち主を渡った。
明るくしていれば、置いてもらえた時もあった。大事にされても、別れる時は来た。引っ越し、死別、閉店。理由はそれぞれだった。
全部が自分のせいではないと、小夜は知っていた。
知っていることと、怖くなくなることは、別なのだろう。
「遊郭にいたから、人の心が分かるってわけじゃないんだな」
「ええ。分かるふりは、ずいぶん上手くなりんした」
小夜は笑った。
俺も、苦笑した。
笑っていいのか迷うと、彼女が少し肩をすくめた。
「今のは、笑っていただいて結構」
「注文が細かいな」
「鏡は、細かいところまで映りんす」
そこでやっと、彼女は自分の茶を飲んだ。
*
翌日は、俺の仕事が午後からだった。
朝飯を作ろうと台所へ立つと、小夜が出てきた。鏡の内から現れる時は、曇ったガラスを布で拭いたように輪郭が濃くなる。
じっと見ていると、本人が居心地悪そうにしたので、見るのはやめた。
「何かお手伝いを」
「今日は、俺がやる」
「では、せめてお湯を」
「座ってろって」
少し強くなった。
小夜の手が止まる。
俺は卵を割った。殻が入った。箸で取ろうとして、余計に黄身が崩れた。
背後が静かだった。
「……そんなに構えなくてもいいんだぞ」
「構えては、おりんせん」
振り返ると、彼女は膝に手を置いていた。客を待つ人の姿勢だった。
休んでいろ、と命じて、その様子を俺が採点している。
おかしなことになっていた。
とりあえず飯を出した。小夜は褒める前に一口食べた。
それで俺は安心した。
安心した自分に気づいて、また面倒になった。
「今日は何をするんだ」
「直人さんは、お仕事でありんしょう」
「俺の予定じゃなくて」
「鏡におります」
「出かけてもいいんだぞ」
小夜の顔が曇った。
「承知しておりんす」
聞いた側に悪気がなければ、何度聞いてもいいわけではない。
俺は味噌汁を飲んだ。
何かをさせるのも、何もさせないのも、俺が決めている。
昨夜は少し分かった気がしたのに、一晩でこの有様だった。
昼前、玄関に置いた工具袋が見当たらなくなった。
小夜が掃除のため、廊下の棚へ移していた。
すぐ見つかったのに、口が先に動いた。
「置いた物は動かさないでくれ」
「申し訳ございんせん」
「いや、謝らなくていい。ただ、仕事に持っていくから」
「もう触りんせん」
「そういう話じゃなくて」
俺は靴紐を結んだ。指がもたついた。
小夜が背後で、申し訳ございんせん、ともう一度言った。
時計を見た。
間に合わなくなる。
「帰ってから話そう」
戸を閉めると、家の中の音が聞こえなくなった。
俺はしばらく、鍵を差したまま立っていた。
*
仕事中、余計なことを考えないのは得意だった。
今日の現場は、店舗の什器の移動。傷をつけずに運び、番号どおりに並べる。
人と一緒に持つ時は、合図を決める。
せーので上げるのか、せーのの後に上げるのか。それだけでも、ずれると誰かが痛い思いをする。
「一回、置きましょう」
重い棚の下で、俺は言った。
相手も頷いた。
二人で床へ下ろす。持つ位置を変える。次はうまくいった。
こんなことは仕事ならできる。
家に帰ると、言い方が分からなくなる。
終業後、商店街で小さな菓子を買った。
仲直りの品、という言葉が浮かんで、嫌になった。
何を悪かったと思っているのか言わず、物で済ませたくはない。
それでも買った。食べながらなら話せることもある、と自分に言い訳した。
玄関を開ける。
「ただいま」
返事はなかった。
台所も、居間も、朝のままだった。
洗い物は残っている。座布団は一枚、少し曲がっていた。望んだとおりのはずだった。
棚の鏡に、俺の姿が映る。
「小夜」
近づいて呼んだ。
鏡面には、何も起きなかった。
床に、小さな紙が置かれていた。
〈少し、出かけてまいりんす〉
出ていけと言ったつもりはなかった。
その言い訳を、誰にするのか分からなかった。
俺は鞄を下ろし、上着を着たまま座った。
十分ほどして、空腹に気づいた。
小夜が戻るかもしれないので、鍋を温めた。昨日と同じものをもう一度温めるのはやめて、小さな鍋にうどんを作った。
食べ終わっても、まだ帰らなかった。
スマホを取って、彼女の連絡先を知らないことを思い出す。
妖怪なのに電話を持っているとは限らない。
そんなことすら、聞いていなかった。
鏡を抱えて外へ出るか迷った。近隣を歩けるなら、こちらが動いて行き違いになるかもしれない。
結局、玄関先へ椅子を出した。
通りを自転車が走った。犬を連れた人が曲がっていった。
誰かを待つ時間は、仕事を終える時間より、ずっと遅かった。
*
九時を少し回って、小夜が帰ってきた。
最初に見えたのは、路地の電柱の横だった。俺を見つけると、足を止める。
「お帰り」
「外においでだったので」
「うん」
待っていたと言ったら、今度は帰る時間を気にするようになる気がした。
だが、言わないのも違う。
「帰ってこないから、気になった」
「失礼いたしんした」
「謝ってほしくて言ったんじゃない。連絡のつけ方を、決めてなかったなと思って」
小夜は椅子を見た。
「ご飯は」
「食った。お前の分もある。食うなら温める」
「いただきとうございんす」
俺は椅子を畳み、彼女と家へ入った。
逃げたのかとは聞かなかった。どこへ行ったかは、座ってから聞いた。
小夜は、元の古道具屋へ行っていた。
「店主さんを待つつもりで?」
「いえ。残った品を、見に」
閉まった店の窓から、中を見ていたのだという。
あれもこれも、店主が大切にしていた。それでも全部を運ぶことはできない。
店主の息子は、割れた茶碗まで紙で包んでいた。
小夜はそれを見ていた。
「あちきは、自分が捨てられることばかり、考えておりんした」
「自分が困ってる時に、全部の事情を考えるのは無理だろ」
「直人さんも、そうでありんすか」
「俺も、自分のことで結構いっぱいだよ」
小夜は、意外そうな顔をした。
俺がいつでも落ち着いて、何でも考えられる人間に見えたのだろうか。
朝の工具袋の件だけでも、その評価は取り消していいはずだった。
「朝は、言い方がきつかった」
「お仕事の物を、勝手に」
「動かさないでほしいのは本当だ。置き場を決めよう。その話と、俺が苛立ったのは分けて考えたい」
小夜が頷いた。
俺は菓子の袋を卓へ置いた。
「あと、何もしないでいろって言って、何もしてないかずっと見てた。あれじゃ休めないよな」
彼女は、菓子の袋の口を指で押さえた。
「正直に、申しても」
「言ってくれ」
「少々、居づろうございんした」
胃の辺りがきゅっとした。
それでも、頷いた。
聞かせてくれと言った以上、聞くしかない。
「そっか」
「よくしていただいているのに、こんな」
「よくしたつもりで、失敗したんだと思う」
小夜は黙った。
俺は紙袋を開けた。薄い煎餅が六枚入っていた。
三枚ずつ分けようとして、手を止める。
「何枚いる?」
「二枚、いただけんすか」
「いいよ」
小夜は二枚取った。
こんな簡単なやり取りまで、ずいぶん遠回りした気がした。
小夜が煎餅を割る音を聞きながら、俺は一つだけ頼んだ。
「ここで何かする時、嫌なら嫌だと言ってくれ。俺もできないことは言う」
「上手には、言えんせんよ」
「俺だってそうだ」
「では、言い直しても?」
「何回でも。俺も言い直すから」
小夜は割った煎餅を見つめていた。
「明日、お茶を淹れるのは」
「うん」
「あちきが飲みたい時に、淹れてもよろしゅうございんすか」
「もちろん」
「直人さんの分は、その時、伺いんす」
「頼む」
彼女は顔を上げた。
店で見せる笑顔とは少し違っていた。遠慮も、警戒も残っていた。それでも、さっきより肩が下がっていた。
寝る前、玄関の内側にメモ用紙を置いた。
外出する時は、帰る目安だけ書く。遅くなっても責めない。帰らない日は、そのことを書く。
小夜が、俺も書くのかと聞いた。
俺も書く、と答えた。
翌日の仕事を、午前から午後へ訂正した。小夜はその隣に、小さな菊の絵を描いた。
連絡帳みたいだなと言うと、彼女は首を振った。
「帳面よりは、少し気楽なものがよろしゅうございんす」
名前は、決めなかった。
決めなくても、使えるものはある。
俺は明日の予定の下に、夕飯は七時ごろ、と書き足した。




