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壱の肆 小夜編 ―― あなたの席

 小夜が初めて、自分から休むと言ったのは、俺が寝坊した朝だった。

 前夜、帰宅してから作業着を洗い、干し終えたところまでは覚えている。目覚ましを止めて二度寝した。休日でよかった。

 起きると、台所に茶の匂いがした。

 小夜は一人で飲んでいた。

「おはよう」

「おはようございんす。お茶は?」

「飲む」

「では、ご自分で。あちきは、今日は少々、のんびりいたしんす」

 急須は彼女のすぐ横にあった。

 俺はそこまで歩いて、自分で注いだ。

 小夜は俺の顔を見ていた。怒るかどうか、確かめているようだった。

「何だよ」

「いえ。卵は、あちらでありんす」

「知ってるよ。俺が買ったんだから」

 笑い声がした。

 何も片づいていないわけではない。だが、何かが解決しきった朝でもなかった。

 昨日までと違うことが、一つできた朝だった。


     *


 その日は、鏡の修理を相談しに行く約束をしていた。

 買い取りを断られた店に、使うための修理なら誰に聞けばいいか尋ね、木工の仕事をする人を紹介してもらった。

 小夜には、持ち主探しを続けるかどうか、改めて聞いた。

「まだ、分かりんせん」

 今度の答えは、どこでもいい、ではなかった。

「じゃあ、分かるまで置いとくか」

「期限は」

「とりあえず、一週間後にもう一回話す。それならどうだ」

 小夜は少し考えた。

「それまでに決める、ではなく?」

「話すだけだ。決まらなかったら、その時に考える」

「では、そのように」

 俺は玄関の紙に、小夜と話す、と書いた。

 横から覗き込んだ彼女が、わざわざ書くことかと笑った。

「書かないと、俺は仕事を入れるぞ」

「では、大きゅう書いておくんなんし」

 言われたとおり、大きく書いた。


 修理をする人は、俺より十歳ほど年上の女性だった。

 小さな作業場に、椅子と棚板と、削りかけの木片が並んでいた。

 鏡を見せると、女性は触る前に、どこまで直したいかと聞いた。

「倒れずに使えるように。見た目は、古いままでいいです」

「欠けたところも?」

 俺は小夜を見た。

 女性には見えないので、考えているふりをした。

「……この花の傷は、残していただきとうございんす」

 小夜は木枠の端に指を添えた。

「ここは残してください」

 俺が伝えると、女性は頷いた。

 支えの金具は交換する。木の割れは広がらないようにする。鏡面の曇りは、むやみに磨かない。

 できることと、できないことの説明が続いた。

 俺にはその言い方が、ありがたかった。


「修理代、買い取りの値段より高くなりますけど」

「聞きました」

「それでも使いたい、ということでいいですか」

 俺はすぐに答えなかった。

 家計の計算もした。今週の稼ぎ、来週の家賃。次に買い足す仕事用の靴。

 小夜は黙っていた。

 ここで大丈夫だと言って、あとから苦しくなって彼女を責めるのは嫌だった。

「一度、見積もりを持ち帰っていいですか」

「もちろん。急ぎの作業も入っているので、預かるとしても来週からです」

 小夜が少し目を伏せた。

 外へ出てから、俺は聞いた。

「がっかりしたか」

「いえ。……少し、ほっといたしんした」

「何で」

「すぐに払うと言われたら、今度は何をお返ししようかと、考えておりんした」

 言ってから、彼女は自分の袖をつまんだ。

「なかなか、直りんせんね」

「俺も、一度でちゃんとできると思ってた」

「ずいぶん、ご自分にお厳しい」

「そっちもな」

 小夜が笑った。

 俺たちは、見積もりの紙を持って帰った。


     *


 帰り道、古道具屋の前を通った。

 シャッターは開いていた。店内の物はずいぶん減っている。

 店主の息子が、戸口で小さな棚と格闘していた。

 声をかけると、ちょうどよかった、と言われた。

「この前の鏡、具合はどうですか」

「直す相談をしています。まだ見積もりだけですけど」

「ああ、そうですか」

 男は少し嬉しそうだった。

 小夜は、棚の隣に立っていた。男へ向かって何かを言いかけ、俺へ向き直る。

「ひとつ、お願いしても」

「うん」

「ここで長いこと、世話になったと」

 俺は、言葉を選んだ。

「譲ってもらった人も、大事にされていたのを喜んでました」

 自分で話して、自分の説明の下手さに呆れた。

 男は特に不思議がらず、父へ伝えておきますと言った。

「捨てるつもりは、なかったんですよ。全部、残すことはできないけど」

「はい」

「父には、薄情だって言われました」

 男は足元の棚を見た。

「昔の客の顔まで、俺には残せませんからね」

 小夜は、男の手袋を見ていた。指の先が擦り切れていた。

 店を閉める側にも、失うものがある。

 俺はそう思ったが、言葉にはしなかった。

 代わりに、棚の反対側を持った。

「どこへ運ぶんですか」

「すみません。そこの車まで」

「それだけなら」

 二人で運んだ。十分もかからなかった。

 終わると男が、ほかにも、と言いかけた。

「今日は、このあと予定があるので」

 俺が答えると、男はそうですよね、と頭を下げた。

 小夜が、店先で深くお辞儀をした。

 男には見えない。だが俺には見えた。

 俺はそのまま待った。

 彼女が顔を上げてから、歩き出した。


「ご予定とは?」

 角を曲がったところで、小夜が聞いた。

「飯を買う」

「それは、大事なお約束で」

「そうだよ。今日は魚にする」

「では、あちきは、骨を取る係に」

 言ってから、小夜は口を押さえた。

 俺は笑った。

「自分の分だけ、頼む」

「承知いたしんした」


     *


 夕飯のあと、修理の見積もりをもう一度見た。

 支えの交換だけなら、今週の残りで払える。木枠の補修は、急がなくてもよかった。

 小夜は卓の反対側で、俺が話すのを待っていた。

「これ、二回に分けて頼もうと思う」

 俺は説明した。なぜ一度にできないか。何を先にするか。

 小夜は、家の金の話まで聞いていいのかと戸惑った。

「俺が勝手に払って、あとから顔色うかがわせる方が嫌だ」

「では、あちきにも、何か」

「それも考えよう。でも、飯を食う代わりに家事を全部やるとか、そういう交換にはしたくない」

 彼女は黙って頷いた。

 俺は、自分が彼女へ何を頼みたいのか考えた。

 相談に乗ってほしい。帰ってきた時、誰かがいると嬉しい。

 だが、それを仕事にしたら、今日までと同じになる。

「いまは、鏡を使わせてもらう。俺、ひげ剃る時、洗面所の鏡が曇って困ることあるから」

 小夜の眉が上がった。

「……あちきの前で、おひげを?」

「鏡だろ」

「そうでありんすけれど。もう少し、晴れがましいお役目かと」

「身だしなみは、大事だぞ」

 彼女はついに笑い出した。

 役目を渡してしまっただろうかと、俺は一瞬迷った。小夜は笑いながら、毎朝は勘弁してほしいと言った。

 分かった、と答えた。

 その断りを聞けたことの方が、鏡を使う話よりずっと嬉しかった。


 皿を洗う時、小夜が一緒に立った。

 俺は止めようとして、やめた。

「やりたいのか」

「二人分を、一人だけに洗わせるのも、落ち着きんせん」

「じゃあ、拭く方を頼む」

「承知」

 彼女は布巾を取った。

 何もしないことを、証明させる必要はない。何かしたい時まで止めたら、彼女のしたいことはまたなくなる。

 俺が洗い、小夜が拭いた。

 途中で俺が皿を滑らせた。小夜が受け止めようとし、間に合わなかった。

 流しの中で、縁が一か所欠けた。

 音がやんでから、彼女が謝りかけた。

「俺が落とした」

「でも」

「手を出してくれて、ありがとう。破片、踏むなよ」

 小夜は足元を見た。

 割れた皿は、元には戻らない。

 それでも、誰のせいかを探し続けなくても、片づけはできた。


     *


 その間に一度、小夜が夕飯の前に出かけた日があった。玄関の紙には、今日は遅くなりんす、とだけ書いてあった。

 俺は一人分の魚を焼いた。向かいの席に食器を出しかけて、棚へ戻した。テレビをつけたが、番組の声が少し大きすぎた。

 帰ってきた小夜へ、何をしていたかは聞いた。昔の知り合いのところだと言うので、そうか、と答えた。会いたかったと口にするには、まだ照れくさかった。

「明日は、飯どうする」

「あちきの分も、お願いできんすか」

「分かった」

 それで十分な夜もあった。


 一週間後、俺たちは、約束どおり卓についた。

 鏡の支えは新しくなった。曇りと花の傷は残っている。

 小夜は、最初の晩より少し崩した姿勢で座っていた。背筋が伸びる時もあるし、茶を淹れ過ぎる時もある。俺がつい頼み過ぎて、あとで言い直したこともあった。

 うまくいく日だけが、続いたわけではない。

「ここ、どうだ」

 俺が聞くと、小夜は障子を見た。

「朝が、静かでありんすね」

「夜もうるさくはないだろ」

「直人さんが、お風呂で歌われるほかは」

「聞こえてたのか」

「二番は、ご存じないので?」

「知らない」

 小夜が笑った。

 それから、湯飲みを置いた。

「もうしばらく、ここへ置いていただけんすか」

「うん」

「まだ、何をしたいか、よく分かりんせん」

「分かったら聞く。分からなくても、飯は食うだろ」

 小夜は俺を見た。

 俺も見返した。

 うまい言葉は出てこなかったので、明日は何を食べたいか聞いた。

 彼女はしばらく考えた。

「最初の日の、お鍋を」

「白菜、まだ高いぞ」

「では、少なめで」

「肉は?」

「少し多めが、よろしゅうございんす」

 俺は買い物のメモへ書き込んだ。

 小夜は、その文字が増えるのをじっと見ていた。


 玄関の戸が、二度鳴った。

 小夜が反射的に立ちかけて、俺を見た。

「俺が出る」

 戸を開けると、濡れた帽子を両手に持った、小柄な男が立っていた。

 人間ではなかった。頭の上に、丸い皿があった。

 泥のついた作業着から、水と草の匂いがした。

「あの。こちらで、困ったことを聞いてくれるって」

「誰から聞いた」

「赤い手拭いの」

「またあいつか」

 奥から、小夜の笑い声がした。

 俺は男の手を見た。爪の間に泥が詰まり、指が細かく震えていた。

「いま、何が困ってる」

 男は帽子を握り直した。

「皿を、乾かなくする方法を、知りませんか」

 そんなものは知らない。

 知らないので、そう言った。

 男の肩が落ちた。その向こうで、商店街の放送が、今日も同じ音楽を流していた。

「ただ、茶くらいは出せる」

 俺が戸を開けると、小夜が奥で、自分の湯飲みを少し横へ寄せた。

 客のために、席を一つ作ったのだ。

 彼女自身の席は、そのまま残っていた。

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