壱の弐 小夜編 ―― 役に立つ女
鏡を売りに行く前に、俺はそれが誰のものなのか確かめなければならなかった。
当たり前のことだった。ところが昨夜は、小夜が自分を抱えて訪ねてきたせいで、その当たり前を丸ごと忘れていた。
朝、靴を履いていると、玄関の外で小さな咳払いがした。
戸を開ける。小夜が立っていた。今日は雨も降っていないのに、昨日とまったく同じ場所にいる。
「おはようございんす」
「ずっとそこにいたのか」
「まさか。近くの祠に、軒を借りんした」
「寒くなかったか」
「お地蔵さんが、少々、お話好きで」
答えになっていない。俺もそれ以上聞かず、鏡を包んだ鞄を持ち上げた。
「先に、元の店へ行くぞ」
小夜の指が、袖の中で動いた。
「ご迷惑になるかと」
「持ち物を勝手に売るわけにいかないだろ」
「……それは、そうでありんすね」
彼女は俺の一歩後ろについてきた。
商店街へ向かう道では、通勤の人間が小夜をよけずに歩いた。身体に重なる直前、紫の袖が薄くなる。すり抜けたあと、また元に戻る。
俺は何度か振り返った。
「歩くの、しんどくないか」
「昔より、道が忙しゅうなりんしたね」
笑いながら、彼女はまた一歩下がった。
*
古道具屋は、まだシャッターが半分閉まっていた。
脇の通用口から声をかけると、五十代くらいの男が出てきた。作業用の手袋をして、額に汗を浮かべている。
俺が鏡を見せると、男はすぐに目を見開いた。
「これ、探してたんですよ」
「すみません。知人から、こちらの品だと聞いて。先に確かめるべきでした」
小夜の説明を、人間に通じるように言い換えるのは難しかった。
盗んでいないと言い張るより、預かった経緯を説明できないと正直に言った。必要なら警察への説明にも付き合うつもりで、名前と電話番号を伝えた。
男は鏡の裏を見た。
「ああ、値札が落ちたんだ。父がよく、持っていきなって配っちゃってたんです。最近は売り物と私物の区別も曖昧で」
それだけで話を終えず、男は奥の帳面を確かめた。俺は戸口で待った。小夜は、店の敷居を越えなかった。
戻ってきた男の手には、売約と書かれた品の一覧があった。鏡は載っていなかった。
「予約が入ってる品だと困るので。一応、確認しました」
「店主さんは」
「いまは病院です。退院したら、店じゃなく、暮らす方を先に考えないと」
言ってから、男は店内を振り向いた。
柱時計、箱、椅子、皿。物の間を抜けるための細い道だけが残っている。
「三週間、休みのたびに来て、まだこれですよ」
足元の段ボールには、病院の領収書と工具が一緒に入っていた。
小夜が何か言おうとした。男には聞こえない。それを思い出したのか、口を閉じる。
「この鏡、大事にされていたんですか」
「父は、たいていの物にそう言います。どれも捨てるなって。でも家に全部は入りませんから」
男は時計を見た。
「すみません。九時に業者が来るので」
俺も、勤務の集合時間が近かった。
事情を聞けば聞くほど、片方を悪者にはできなくなった。
男は少し考えて、鏡を俺へ返した。
「売り物から外して、父が最後まで置いてた品です。引き取って使ってもらえるなら、助かります」
「ほかの店に見せても構いませんか。うちにずっと置けるかは、まだ決められないので」
「構いません。ただ、父がこだわって磨いた鏡だから、割らないでもらえれば」
俺は改めて譲渡の意向を確かめた。男は古い封筒へ、鏡を譲ったことと日付、自分の名前を書いてくれた。
ありがとうと言ったのは、俺より男の方が多かった。
店を離れてから、小夜が振り返った。
シャッターが持ち上がる。明るくなった店の中で、男はまた一人、段ボールを運び始めた。
「あちきは、勝手に捨てられると思っておりんした」
「向こうも、勝手に物がなくなって困ってた」
「ええ」
「今度から一人で決める前に、誰かに話せ」
言ってから、自分も決めかけていたことを思い出した。
小夜も気づいたのか、横目で俺を見た。
「直人さんも、でありんすね」
「俺もだ」
初めて、彼女が俺と同じ速さで歩いた。
*
その日の仕事は、倉庫の返品整理だった。
箱を開け、傷を確かめ、戻せる物と戻せない物を分ける。
午前中、小夜のことは忘れていた。忘れられる程度には、ちゃんと働いた。
休憩になると、スマホに同じ倉庫から継続勤務の案内が届いていた。時給と曜日を確認して、画面を閉じた。
隣の席で、若い男が菓子パンを食べていた。
「三崎さん、ここ、何回目ですか」
「四回目」
「俺、初めてで。午後、出荷の方へ回ってって言われたんですけど、説明がまだなくて」
「分からないまま持つと腰やるから、担当に聞いた方がいい」
「聞きにくいんですよね。忙しそうで」
分かる、と頷きそうになった。
だが頷くだけでは、午後も彼は聞けないだろう。
休憩が終わってから、班長に引き継ぎの場所を尋ねた。班長は「あ、忘れてた」と言って、出荷側の担当を呼んだ。
それだけのことだった。
誰も怒らなかった。それだけのことを、俺も昔は、ずいぶん長く言えなかった。
仕事帰りに、約束していた古道具屋へ向かった。
小夜は鞄の鏡から現れた。朝からどうしていたと聞くと、寝ていたと言う。
「どこで」
「鏡の内で」
「最初に言ってくれ。玄関で待たせたと思っただろ」
「待つのも、嫌いではございんせん」
「好きで待つのと、出てこいと言われるまで待つのは違うぞ」
小夜は俺を見た。
「それは、ご自分にも?」
「……今日はやけに返してくるな」
「話のお相手が、あちきの取り柄でありんすから」
店の自動ドアが開いた。その言葉に何を返すか考える前に、俺たちは中へ入った。
店員は鏡を布の上に置き、明かりを斜めから当てた。
木枠の花を見て、裏板を見て、首を少し傾げる。
「品物としては面白いんですが、このままだと買い取りは難しいですね」
俺は理由を聞いた。
支えが不安定なこと。鏡面に傷みがあること。年代や由来を確かめる材料が少ないこと。
花街で使われたという話をしても、店員は頷くだけだった。
「伝わっているお話としては。ただ、それで値段をつけることはできないんです」
「直せば、使えますか」
「使うだけなら。専門の修理に出すと、買い取り額より費用がかかると思います」
小夜は椅子の隣に立って、鏡を見ていた。
客の顔を見せる場所に置ける。古い物を好む人の話し相手になれる。店の空気を落ち着かせるくらいなら。
俺には、その言葉が聞こえた。
店員には聞こえない。
「引き取りだけならできますが、処分料が必要な場合もあります」
「今日は持ち帰ります」
俺は鏡を包んだ。
店員は無理に勧めず、出口まで見送ってくれた。悪い店ではなかった。
だから余計に、出てから何を言えばいいのか分からなかった。
「役に立たないってことじゃないぞ」
結局、口から出たのはそれだった。
小夜はすぐ頷いた。
「承知しておりんす。売り買いには、売り買いの都合がありんすから」
俺よりも、ずっと物分かりのいい答えだった。
「ほかも探せる」
「ええ」
「修理も、まだ方法があるかもしれない」
「直人さんなら、きっと」
信頼されているはずなのに、胸の奥が重くなった。
頼られることに腹を立てたくはなかった。けれど、できると言われると、できないとは言いにくくなる。
小夜は俺の黙った顔を見て、慌てて笑った。
「急ぎはいたしんせん。お仕事のお邪魔にならぬ時で」
それで俺は、ますます何も言えなくなった。
*
帰宅したら、洗濯物が取り込まれていた。
朝、干す時間がなくて室内の竿へかけた作業着が、椅子の背へ畳まれている。
鏡を置くために居間へ入った小夜が、俺より先に気づいた。
「あちきが、朝のうちに」
「寝てたんじゃないのか」
「少しだけでありんす」
台所の流しもきれいになっていた。
ありがたいと思った。口にも出した。
小夜は、分かりやすくほっとした。
だから、俺はやめろと言えなかった。
冷蔵庫を開ける。昨日の鍋の残りがある。
小夜は卓を拭き、箸を並べ、俺がコンロの火をつけると食器棚へ向かった。
「場所、もう覚えたのか」
「覚えはよい方で」
「そりゃ助かる」
何気なく言った。
小夜の動きが、少し速くなった。
俺は湯気の立たない鍋をかき混ぜた。まだ、温まっていなかった。
昨夜の紙を思い出す。
邪魔にはなりません。
俺はその紙を鏡の横へ伏せて置いたまま、本人には見つけたことを言っていなかった。
食後、電話がかかってきた。
以前入った工事会社の担当だった。明後日、人が足りない。運転できる人間が必要。短い仕事だから頼む。
条件を聞いた。聞いている途中で、小夜が茶を持ってきた。
俺は受け取り、電話を肩と耳で挟んで予定表を開いた。
別の仕事を入れていると言うと、担当は困った声を出した。
「三崎さんなら融通利くと思ったんだけど」
小夜が、急須を置いた。
俺は、今度は電車の中まで待たなかった。
「先に約束した仕事があります。そちらを断ることはできません」
相手は一度黙って、じゃあまた、と電話を切った。
何も壊れなかった。誰も家へ怒鳴り込んでは来なかった。
それでも、指先に妙な汗をかいていた。
「お断りになれて、よかった」
小夜が静かに言った。
「断っただけだろ」
「それが難しい日も、ありんす」
俺は顔を上げた。
小夜は自分の湯飲みを持っていなかった。
「お前の茶は」
「あとで」
「いま飲めばいいだろ」
彼女は頷いて、湯飲みを取りに立った。
俺はようやく気づいた。
俺が何か言うたびに、小夜は立っていた。
話を聞いてもらって、食器を出してもらって、部屋を整えてもらって。俺は何度も、助かると言った。
売り先を探しているあいだだけ。次の居場所が見つかるまで。
そう思っていた俺の家が、すでに彼女の、次の仕事場になりかけていた。
湯飲みを持って戻ってきた小夜に、鏡のそばの紙を見せた。
「これ、見つけた。勝手に読んで悪かった」
彼女の顔から、表情が消えた。
ほんの一瞬だった。
「古い覚え書きでありんすよ」
「最後の行は、新しい字だった」
小夜は紙を受け取らなかった。
俺は、何を聞けばいいのか考えた。役に立たなくてもいい。気を遣わなくていい。どれも、俺が口にすればすぐにできることみたいだった。
「小夜は、何もしないで座ってるのが怖いのか」
彼女は笑おうとした。
唇が、うまく動かなかった。
「……つまらぬ女だと、分かってしまいんすから」
居間の時計だけが、いつもの速さで動いていた。




