壱の壱 小夜編 ―― 邪魔にはなりません
冷蔵庫に入れるものは、だいたい一人分で間に合う。
卵は六個入り。豆腐は三個に分かれた小さいやつ。納豆も三個。ところが肉だけは、どうしても少し余る。
その余りを冷凍するところから、俺の休日は始まった。
スマートフォンが震える。
〈本日の就業、ありがとうございました。またのご応募をお待ちしております〉
昨日の倉庫から届いた評価通知だった。星は五つ。俺の顔を覚えている人間が何人いるかは知らないが、仕事はちゃんと終えた。それで十分だった。
三崎直人、三十六歳。現在の所属先は、強いて言えばスマホの中だ。
会社員もやった。派遣もやった。配送、工事、測量の補助、介護。働くのに必要と言われれば資格を取った。財布には収まらなくなった資格証を、台所の引き出しにまとめてある。
大きな機械を動かせる。人の身体を傷めずに起こす方法も知っている。図面も多少は読める。
それで自分の人生の行き先が分かるかというと、さっぱりだった。
明日の仕事は決まっている。明後日はまだ決めていない。
家賃と光熱費と飯代。それに少し余るくらい働けば、この古い借家で一人暮らしを続けることはできる。
社員にならないかと声をかけられた現場もあった。
ありがたい話ですね、と言って断った。
ありがたいと思ったのは本当だ。ただ、その先を想像すると、胸の辺りが妙に狭くなる。
できるならこれも。経験があるならあれも。
頼まれるたびに増えた仕事は、誰かが辞めたあとも俺のところに残った。最後の会社で退職届を出したとき、困ると言われた。
俺も困っていたんですよ、と言えたのは、帰りの電車の中だった。
肉をラップで包んでいると、玄関が三度鳴った。
配達を頼んだ覚えはない。
町内会なら、今月の金は払った。
手を洗って戸を開けると、女が立っていた。
細い雨が降っていた。傘はない。くすんだ紫の着物にも、結った髪にも、水滴はついていなかった。
白い指で、風呂敷包みを抱えている。
「こちら、三崎直人さんのお宅でありんしょうか」
「そうですが」
「よかった。お留守でしたら、どうしようかと思っておりんした」
女はほっとした顔で笑った。
その笑顔を見てから、俺は彼女の足元を確かめた。
玄関灯の下に、影がなかった。
「……どこで俺のことを聞いた」
「千住の橋の下にいる、赤い手拭いのお方から」
「あいつか」
先週、資材の搬入帰りに声をかけた相手だった。
転がった空き缶を拾えず、何度も手をすり抜けさせていたので、俺が拾ってゴミ箱に入れた。それだけだ。
余計なことをした。
子供の頃から、ときどきこういう連中が見える。
見えるからといって、何ができるわけでもない。追い払う札も、お経も、先祖伝来の刀もない。俺の家にある長い刃物は、百円ショップのパン切り包丁だけだった。
「相談に乗ってくださると、伺いんした」
「乗ってない。缶を拾っただけだ」
「では、紹介に少々、尾ひれが」
「だいぶな」
帰ってもらおうと思った。
明日は朝が早い。妖怪に関わると面倒になる。そのくらいは経験で知っている。
ところが女は、風呂敷を持ち直した。布の隙間から木の角が見えた。指が食い込むほど強く抱えている。
「何の相談だ」
「次の持ち主を、探していただきとうございんす」
女は、雨の中で頭を下げた。
濡れないのに、寒そうに見えた。
*
「茶しかないぞ」
「十分でありんす」
向かいに座った女は、両手で湯飲みを包んだ。
妖怪は茶を飲むのか。口をつけるのを見てから考えたが、いまさらだった。
卓上に広げられた風呂敷の中には、鏡が入っていた。
四角い木枠の、卓上に置ける程度の大きさ。縁には菊らしい花が彫ってある。端が欠け、裏の支えを留める金具には錆が浮いていた。
鏡面に薄い曇りがあった。
「これがお前の?」
「あちきが、これでありんす」
「そういう方か」
鏡を見る。女を見る。
女は少し身を乗り出し、にこりとした。
「並べてご覧になると、似ておりんすか」
「比較の仕方が分からん」
くすくすと笑う。声は明るい。人の家に上がったばかりなのに、居間の空気になじむのが妙に早かった。
名前を聞くと、小夜菊と名乗った。
「長うございんすから、小夜で結構」
「俺は直人でいい」
「では、直人さん」
小夜は滑らかに呼んだ。俺の名前なのに、少し聞き慣れない響きになった。
昔、花街の店に置かれていた鏡なのだという。
どのくらい昔かは、本人も正確には数えていない。店がなくなってから、いくつもの家や店を渡った。
直近では、古道具屋の奥にいた。
「その店が、閉まるのでありんす」
「店主は?」
「ご存命でありんすよ。ただ、もう店には立てぬそうで」
閉店の整理をするため、息子が通っているらしい。
小夜の姿は見えない。声も聞こえない。
買い手のつかなかった品は、来週、まとめて引き取られる。
「捨てられるのか」
「さて。そこまでは伺えんした」
「引き取り先に行けばいいんじゃないのか」
「その前に、自分でも探してみようかと」
小夜は俺の湯飲みを見た。
空になっていた。立とうとするので、自分で入れると止めた。
「お茶を淹れるくらいは」
「客にやらせるほど疲れてない」
「左様で」
彼女は手を膝に戻した。
俺は急須に湯を足した。湯飲みは二つとも、祖母の家から持ってきたものだった。同じ柄の片方は、久しぶりに棚から出した。
「お店に置いてもらうとか、そういう希望はあるのか」
「置いていただけるなら、どこでも」
「どこでもは困る。鏡として使われたいとか、静かな所がいいとか」
「あちきは、お話のお相手もできんす。帳面を読むのも、少々。古い品の由来を聞かれることもございんした」
「できることじゃなくて、行きたい所を聞いてる」
小夜の口が止まった。
俺は急須を置いた。
聞き方が悪かったのかもしれない。
「嫌な所でもいい。日が当たるのは駄目とか」
「直射日光は、木が傷みんすね」
「それは鏡の話だろ」
「あちきは鏡でありんすから」
困ったように笑われて、それ以上は聞けなかった。
スマホで近所の古道具屋を調べた。店に電話して、持ち込みの鏡を見てもらえるか聞く。寸法を尋ねられ、引き出しから巻尺を出した。
小夜がそれを見つめる。
「手慣れておいでで」
「測るだけだ」
「いえ、断られても、次に何を聞くか迷われぬ」
一軒目には断られた。
二軒目には写真をと言われたが、鏡に室内が映るので撮り方に手間取った。小夜が枠を支えようとして、一度手を引っ込めた。
鏡は物体だから、彼女にも持てるらしい。ただ、写るのは俺一人だった。
三軒目が、現物を見てくれると言った。
明日の仕事の帰りなら寄れる。
「査定するだけだぞ。引き取ってくれるとは限らない」
「かまいんせん」
「それと、俺ができるのは店を探すくらいだ。妖怪の知り合いもほとんどいない」
「それだけしてくだされば、十分でありんす」
小夜は深く頭を下げた。
頭を上げると、もう笑っていた。
*
夕飯は、白菜と豚肉の鍋にした。
肉を冷凍するのはやめた。白菜も、半分使った。
小夜は帰ると言ったが、ちょうど切ったところだったので座らせた。
「食えるのか」
「いただけんす」
「腹は減る?」
「減りんすよ。空腹で消えるというほどではございんせんが」
「じゃあ食えばいい」
小夜は小鉢の中身を見たまま、少し黙った。
それから箸を取り、いただきんす、と言った。
白菜が熱かったらしい。口元を押さえたあと、目を細めた。
「うまいか」
「ええ。よく、お味が染みて」
「まだ入れたばっかりだぞ」
小夜は俺を見た。
俺も小夜を見た。
やがて彼女が吹き出した。
「これは、いけんせんね」
「別に、気を遣わなくていい」
「そうではなく。白菜に聞かれたら、へそを曲げんす」
「白菜にへそはない」
今度は俺も少し笑った。
鍋の蓋を開けると、湯気が二人の間を通った。
小夜は話題を切らさなかった。家の古さを褒め、商店街の話を聞き、俺が明日入る現場の場所を聞いた。
説明すると、そこの近くに昔、団子屋があったと言う。
いまは駐車場だと言ったら、そう、と一度だけ目を伏せた。
すぐに、俺の仕事の話に戻った。
「いろいろおできになるのでありんすね」
「半端に、いろいろな」
「頼りにされましょう」
「頼む側には便利だろうな」
口に出してから、まずいと思った。
小夜は箸を止めたが、理由を聞かなかった。
「では、今夜くらいは、鍋の面倒だけ見ておくんなんし」
差し出された小鉢に肉をよそった。
聞かれないことが、ありがたかった。
そのせいで俺は、彼女の話をもっと聞くべきだったのに、楽な方へ座り直してしまった。
食後、小夜は皿を洗おうとした。
俺が断ると、今度は畳に落ちた糸くずを拾った。座布団を揃え、急須の蓋の向きを直す。
「そんなに働かなくていいぞ」
「落ち着かぬ性分で」
「座ってていいって」
小夜は座った。
背筋を伸ばし、両手を重ねて、俺の次の言葉を待っていた。
テレビでもつけようかと思ったが、リモコンが新聞の下に埋まっていた。
それを探している間に、彼女はまた話し始めた。
*
夜九時、小夜を玄関まで送った。
鏡は、俺の家に預けることになった。明日の査定に持っていくためだ。
風呂敷を巻き直す前に、裏板の浮きを見つけた。錆びた金具を無理に動かすと割れそうで、今日は触らないことにした。
「自分と離れても平気なのか」
「遠くへは行けんせん。この辺りにおりんす」
「なら、ここにいればいいだろ。雨だし」
小夜の表情が、ほんの少し変わった。
俺が何を言ったのか確かめるような顔だった。
「……今夜のお代を、まだお返しできておりんせん」
「代金なんか取らないよ」
「ええ。ですから、何か」
言いかけたところで、彼女は笑った。
「明日の商いが決まってからにいたしんしょう」
俺は頷いた。疲れていた。明日の目覚ましを、まだ設定していなかった。
戸を閉める前に、小夜が振り向いた。
「直人さんは、お話の途中で、帰れとはおっしゃらぬのでありんすね」
「帰るタイミングくらい、自分で決めろよ」
「そうでありんすね」
今度の笑顔は、小さかった。
小夜が路地を曲がるまで、濡れた地面に足音はしなかった。
居間に戻り、鏡を棚の上へ置いた。
下に敷く布を探していると、枠の隙間から細い紙が出てきた。
小さく折り畳まれた紙だった。文字が見えたので、領収書かと思って開いた。
〈できること〉
最初に、そう書いてあった。
話し相手。
留守番。
店番。
縁起物。
その下には、消した跡が何度も重なっていた。
最後の一行だけ、少し新しい筆跡だった。
〈邪魔にはなりません〉
俺は紙を持ったまま、しばらく立っていた。
台所の引き出しが、半分開いていた。巻尺を戻したとき、閉め損ねたのだろう。
その中で、使わなくなった資格証のケースが見えていた。
鏡に映る部屋には、俺しかいない。
向かいの座布団だけが、やけにきちんと整っていた。




