【第23話 忍び寄る影と、歪んだ執着】
昨日の午後の柔らかな時間を、幸也はまだ覚えていた。
ソファーで成美が膝に頭を預け、
流れる髪に触れながら過ごした、
あの穏やかなひとときを。
成美の「にゃー」という照れくさそうな声と、
自分を心から頼り、癒やされていると笑った温かい体温。
あの幸せのすぐ裏側に、これほど昏く、
泥のような悪意が蠢いていたとは、幸也は思いもしなかった。
きっかけは、数週間前から幸也に近づいてきた一人の女性。
派手さはなく、控えめで小柄な印象。
どこか自分に自信がなさそうで、
守ってあげたくなるような健気な雰囲気を纏っていた。
残業終わり、会社のロビーを出たところで、
彼女は両手でカバンを抱えながら、
申し訳なさそうに俯いて立ち止まった。
「幸也さん……。私、成美さんと同じ会社の後輩なんです。
お忙しいのにすみません」
「あの…私…幸也さんの事が……」
「幸也さんの彼女が成美さんだという事も、知ってます」
ぽつりと漏れた小さな声。
幸也は歩みを止めず、コートのポケットに
手を突っ込んだまま冷ややかに返した。
「……そうか」
「だから、その……彼女にしてほしいなんて、
そんなおこがましいこと、望みません。」
幸也は足を緩め、
眉をひそめて怪訝そうに振り返った。
「……じゃあ何だ」
「今日だけでいいんです。
ほんの少しだけ、お話しできたらって……」
「断る」
一蹴されても、女は怒る風でもなく、
ただ哀しそうに、けれど不器用そうにフッと口元を緩めた。
「……ですよね。急にすみませんでした。
ただ……どうしても自分の気持ちを幸也さんに伝えたかっただけなんです。
困らせたいわけじゃないんです。
成美さんという大切な方がいるのも、知っていますから。
だから、私……幸也さんに何かを求めているわけじゃないんです」
控えめで、決して踏み越えてはこない態度。
引き際も弁えているように見えた。
幸也は最初、「彼女持ちの男を好きになってしまった、要領の悪い奴だな」
程度にしか思っていなかった。
面倒なことになったとは思いつつも、
自他ともに認める「成美しか見えていない自分」を貫けば、
そのうち諦めて去っていくだろうと高をくくっていたのだ。
◇
だが、違和感は小さな波紋のように、
少しずつ静かに広がり始めていた。
ある日。帰り際に待ち伏せていた彼女は、幸也の後をついてきた。
温かい缶コーヒーを手に、何気ない様子でつぶやいた。
「成美さんって、本当に幸せですよね」
「……何がだ」
「幸也さんに、あんなに大切にされていて。
……あ、ごめんなさい! 羨ましくなっちゃっただけです」
悪びれる風もなく、
コロコロと可憐に笑う女。
「成美さんって、社内でもすごく評判がいいじゃないですか。
仕事も正確だし、誰にでも優しくて……みんなに頼られてて、
すごいなぁって。私、成美さんみたいになりたくてもなれなくて」
一見すれば、先輩女性への素直な憧れと謙遜。
だが幸也は、その言葉の端々に、微かな不協和音を感じていた。
彼女が浮かべる笑みが、どこか上すべりしているような、
瞳の奥だけがまったく笑っていないような……冷たい違和感。
それでも幸也は、彼女が観察していたものの正体に、
まだ気づいていなかった。
彼女が見つめていたのは、幸也という男そのものではなく、
「幸也に愛され、大切に守られている成美の幸せそのもの」だったということに。
◇
そして、雨の降り出しそうな重い空が街を覆っていた今夜。
いくら健気な振りをしても、いくら下手に迫っても、
幸也の瞳には微塵も自分が映らず、ただ成美への圧倒的な愛だけが存在しているという現実を突きつけられた瞬間——女の「仮面」は、音を立てて崩れ去った。
「……あー なんだか面倒くさくなってきた」
街灯の明かりが届かない会社の裏手。
彼女の口から漏れたのは、今までの可憐な声とは打って変わった、
地の底から響くような低い声だった。
「何がだ」
「私、こんなに好きだって言ってるのに。
一度も、私に靡かないどころか見ようともしないよね?」
「悪いが、俺は成美以外を見るつもりはない。
何度来ても同じだ。二度と俺に近づくな」
幸也が容赦なく背を向けようとした、その時だった。
「……成美さんがいなかったら?」
ピタリと、幸也の足が止まる。
振り返った幸也の目の前にいたのは、
もう「不器用で可愛い女の子」ではなかった。
表情という表情が削ぎ落とされ、
光の失われた暗い瞳が、まっすぐに幸也を射抜いていた。
「関係ない」
「ふふ……じゃあ、成美さんが、いなくなったら?」
周囲の空気が一瞬で凍りついた。
幸也の全身の毛穴が開き、背筋に刺さるような悪寒が走る。
(こいつ……何を言っている……?)
幸也の瞳に宿る剥き出しの警戒と敵意を見て、
女は満足そうに口角を歪めた。歪にねじ曲がった、嘲笑うような笑み。
「別に幸也さんが私を選ばなくてもいいんです。」
「……何?なら いったい何が目的だ」
「成美さんが、幸せじゃなくなればいいんです」
「……どういう意味だ」
「さあ?」
女は笑った。
「幸也さんが思っているより、私は成美さんのことを知ってますよ」
ゾッとするほどの狂気。
これまで「好きです」「諦めます」と口にしていた健気な言葉のすべてが、
自分への恋愛感情などではなく、
「成美を最も深く傷つけ、引きずり下ろすための手段」に過ぎなかった
という恐ろしい真相。
「お前……成美に何をするつもりだ?」
低く唸り、一歩踏み出した幸也に、
女は恐怖を感じる素振りすら見せず、
クスクスと愉しそうに喉を鳴らした。
「どうでしょうね。成美さん、明日も何も知らずに、
楽しそうに会社に来るんでしょうね……ふふ」
「何かしてみろ。タダじゃおかないぞ」
「なら、どうすればいいのか……考えてみてくださいね」
と不敵な笑みだけを残して去っていった。
◇
それから数日後、成美の周りでは妙なことが続いていた。
会社のエレベーターで、閉じ込められそうになった。
最初はただの故障だと思った。
後日、自宅に差出人のない荷物が届いた。
中身は害のあるものではなかったから、
成美は「間違いじゃないかな」と笑っていた。
けれど幸也だけは、笑えなかった。
◇
夜の冷気が残る自宅のマンション前。
幸也はドアノブに手をかけたまま、しばらく動くことができなかった。
鍵穴に差し込もうとする自分の指先が、
怒りと恐怖で微かに震えていることに気づく。
ガチャリと鍵を回してドアを開けると、
玄関の奥からパッと華やぐ気配がした。
「あ、幸也さん! おかえりなさい!」
パタパタと軽い足音を響かせて駆け寄ってくる成美。
愛おしくて、柔らかくて、世界で一番守りたい存在。
「お夕飯、温め直しますね。
今日もお仕事、遅くまでお疲れ様でした」
この腕の中にある自己肯定感まで、
あの女に壊させるわけにはいかない。
(俺が側にいること自体が……成美を危険に晒し、
傷つける原因になっているんじゃないのか……?)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。
成美に悟らせてはいけない。
この綺麗な世界を、あの汚い悪意で汚させてはいけない。
一人で背負うと決めた幸也。
その目の前には、何の疑いもなく自分に全幅の信頼を寄せ、
屈託のない笑顔を向けてくる成美がいる。
「……ああ。ただいま」
絞り出すように答えた幸也は、
成美の華奢な肩を引き寄せ、壊れものを扱うように強く抱きしめた。
成美の髪から香るシャンプーの匂い。
その温もりに触れるたび、先ほどの女の狂気じみた声が脳裏をよぎる。
(あいつが成美を憎んでいる理由も、分かっている。)
(仕事ができる。周囲から頼られる。誰にでも優しい。)
(……そんなもの、成美が必死に生きてきた証じゃないか。)
(なのに、それが妬ましいというだけで、あいつは成美を壊そうとしている。)
(そんな話を、成美にできるわけがない。)
(「お前が会社で好かれているから妬まれた」なんて言ったら……こいつはきっと、全部自分のせいにする。)
(「私が目立っていたから」)
(「私が真面目にやっていたから」)
(「私が周りを不快にさせていたから」……)
(違う。全部、違う。)
(成美は何も悪くない。)
(だからこそ、言えない。)
成美を守るように強く抱きしめる幸也の腕の中で、
成美が不思議そうに顔を上げた。
「……幸也さん?」
「……なんでもない」
「疲れてます?」
「ああ。少しな」
そう言って、幸也は成美をもう一度抱きしめた。
瞳の奥で、静かに、深く、悲痛な暗雲が渦巻いていた。




