幕間④
ももの件があったからか、英恵はふと思い立って、家を出た。忠人には行き先を告げず、ふらりと。
村の中央にある公園を目指す、いや、目的地はそこではない。
公園を通る川の向こう、人食らいの鬼の一族が住む、そこだった。
誰にも見られないように、橋を渡る。英恵は走って、川の向こう側に向かった。
川の向こうでは、乳飲み子を抱いた女がいた。泣きじゃくる赤ん坊をあやしている。
その隣には、男の子――いや、偽りの少年がいた。
ズボンを履いてはいるが、その子は――
「誰!? 向こう側の人間がなんの用!?」
母親は、威嚇するように英恵を見て、傍にいた少年に赤子を渡して、ふたりを背中に隠した。
この女が、もしかすると英恵の母親なのではないか。
ポケットに忍ばせてきた写真を取り出す。
度重なる出産で姿かたちは変わり果てていたが、目の下にあるほくろが、この人が英恵の母親であることを物語っている。
写真の時も老けていたが、更に姿が変わっていた。苦労したのだろう。
くしゃ、と写真を握りしめる。今すぐ駆け出したい衝動を抑えて、英恵は蚊の鳴くような声で、
「私……あなたの――」
しかし、母親は英恵の正体に気づかない。正気を失っているのだ。だから、少年と赤子を守るのに精いっぱいで、英恵に毒づく。
「ああ、ああ。また私を、私の子供を盗りに来たのね!?」
女は家に入って箒を持ち出すと、それで英恵をばしんばしんと叩きだす。
傍にいた少年が、慌てて家の中に赤子を置いてきて、母親を止めに入る。家の中では、赤子がぎゃあぎゃあと泣いていた。泣きたいのは英恵の方だ。
母親が見つかったかと思えば、こんな姿になり果てて。
「お母さん、やめて、この方は違います」
「八重、なにが違うの? この方は向こう側の偉い人間。私たちはあの方たちのせいで川のこちら側から出られない。八重」
「八重じゃないです、弥彦です、お母さん」
「この際そんなのどちらでもいいのよ!」
弥彦が箒を奪い取るも、母親は今もきいきいとわめいている。しかし、弥彦は気づいている。英恵と母親は、そっくりだ。特に目元。切れ長の瞳は、母親と生き写しだった。
それは、弥彦に似ているともいえる。
つまり、英恵と弥彦は、異父兄弟なのだ。
英恵が母親に手を伸ばす。その手は、震えていた。
母親は、伸ばされた英恵の手を払いのける――ことができない。
なにかがおかしい、なにかが。そう感じ取ったのか、英恵の顔を凝視している。そして、気づく。
「おかあさん……」
英恵の弱々しい声。その一声で、母親はハタと正気に戻った。真っ黒だった目に光が宿る。
その、英恵と同じきれいな瞳には、英恵の姿がしっかりと映し出されていた。
「私の、赤ちゃん……?」
手を伸ばし、英恵の頬に母親の手が触れる。人間の、手だった。決して鬼のような手ではない。
人肉を食らうなんて、嘘だ。この人は、英恵のことを覚えていてくれた。
英恵の目から涙がこぼれる。
「英恵です、お母さん」
「英恵……最後の女の子ね」
何人産んでも、何回産んでも、母親はそのたびに子供のことを忘れなかった。自分の大切な赤ちゃん。もう全員、生贄になって死んだと思っていたのに。
弥彦は、子産みから開放されたあとに産んだ子供だった。
母親が、英恵を抱きしめた。英恵は本格的に泣きだした。ひっく、としゃくりあげて、あたたかな母の中で、子供のように。
「お母さん、私、ごめんなさい。わたし、なにもできなくて」
英恵は罪悪感にさいなまれる。こんな川の向こう側で肩身を狭い思いをさせて、ごめんなさい。
ごめん、ごめんと何度も謝る我が子に、しかし母親は、最後の力を振り絞った。
英恵は自らここにきた。それを村人に知られてはいけない。里心をつけてもいけない。
だから母親は、心を鬼にして、言ったのだ。
「なんであなただけが生き残ったの」
「お母さん?」
「弥彦は……男の子だけど、七つは過ぎた。もう、盗られない。でも、あなたは気づいているんでしょう? 弥彦が偽りだって」
「お母さん、私、弥彦のこと、売ろうだなんて、考えてないよ」
「どうだか。生みの親より育ての親。って言葉は知っている? 向こうの村で育てられたら――あなたは、きっと私たちを売るのでしょう? さあ、帰って。ここはあなたがいるべき場所じゃない」
「でも」
「でも? じゃあ、そうね。あなた、人肉を食べられる?」
母親の言葉に、熱はなかった。ただ冷たく、英恵を突き刺す。
「人肉……あれは、ただの作り話って」
「いいや。あれは本当の話だ。それでも、私の娘だっていうんなら。弥彦! 家にある肉なべを持って来て!」
こく、と頷いて、弥彦は家に入り、帰ってきたときには鍋を手に持っていた。
鍋の中には野菜と、茶色い肉が、浮かんでいる。これが人肉なのだろうか。
英恵がうっと口を押えた。
「ほら、召し上がれ」
「でも、人肉なんて」
「人肉じゃないと思うなら、食べられるでしょう?」
母親は弥彦の手から鍋を奪うようにとって、英恵の胸にぐっと押し付けた。
英恵はその鍋の肉を見る。見たことのない、色だ。
これがもし、本当に人肉だったら。英恵は川の向こう側の人間と、同じになってしまう。『けがれてしまう』。
英恵はその鍋を、跳ねのけた。
ばしゃん、鍋がひっくり返って、野菜と肉が地面に転がる。
「信じられない! 人肉なんて……川の向こうに住むのは許せる。けど、人肉なんて! 弥彦のことだって、村の大人が黙っていない!」
「ああ、そうだよ、私たちは醜い。だから帰りなさい、あなたさまはこちら側の人間にはなれない!」
精一杯の、母親の愛情だった。けれどその真意は、英恵には伝わっていない。それでいい。英恵の母親は、英恵を守りたかった。
けれど実際は、英恵はもうすぐ『案内役』となるのだから、母親の行動なんて無駄に等しい。それでも、なにも知らないことは幸福だ。英恵と母親はすれ違う。もしも母親が、英恵がもうすぐ『案内役』になるのだと知っていたら、是が非でも引き留めて、その家に英恵をかばっていたのだろうに。
来年の準備は、夏が終わったころから始まる。
大人たちは定期的に会合を開いているが、そこに英恵が呼ばれたことは一度もなかった。けれどようやく、英恵もその場に赴くことができて、自分が大人になれた気がした。
英恵は子供のまま死ななければならなかったけれど、大人というのも経験してみたかった。
だからこうして、大人たちに交じって会合をするのは、最初で最後のご褒美だと英恵は思った。
大人たちは、大きく育った英恵をみて、「よくここまで頑張ったな」と褒めちぎった。
それがうれしくて、英恵はニコニコと会話に混じる。
「来年の案内役は、英恵、おまだ」
本題を切り出される。ようやくこの時が来た。
英恵は大人たちに交じって、コクリと頷く。大人たちは、目だけは笑っているが、その心情は英恵にはわからなかった。わからないから、不安になる。
もしも、今、急に生案内役を降りろだなんて言われたら、英恵は自分を保てる自信がない。
鬼の血を継ぐ英恵が、この場にいられるのは、ひとえに生贄としての価値があるからだ。
そして、生贄として価値があるということは、この村ではなによりも尊いことだ。
でも、鬼の一族のことは、やはり英恵に暗い影をおとす。
「立派に務めてみせます」
心を隠すように、英恵の声は力強かった。大人たちから歓声が上がる。
「英恵は特別な案内役だから、きっと神さまも許してくださるだろう」
「はい、私、頑張ります」
英恵の決意は固い。
きゅっと口を結んで、見えないようにこぶしを握った。手には汗をかいている。
本当に、死ぬのだ。あと半年後には、来客の案内役を立派に果たして。英恵は来客の案内役という、生贄だ。
この村では、来客はよそ者、けがれたものだ。その相手をできるのは、特別に選ばれた人間でなければならない。
なぜなら、案内役は外の人間に侵されてけがれてしまう。けがれてしまえば、案内役は村で生きることもかなわずに、その汚れによってむしばまれて、やがて命を落とすのだ。
英恵はそう、忠人から聞かされている。
高校を出て、忠人の手伝いも経験した。仕事を一通り経験したし、幸いにも高校も卒業できた。
あとは、男の子に恋をしてみたかったけれど、この村ではかないそうにない。
英恵はもう、心残りはなかった。
案内役は、つまるところ最後の生贄だ。すべてが明かされたとき、英恵の命は終わる。
それでいいと、思っていた。
英恵はもう、十分に生きた。もものように、これから先、生きたまま死ぬよりは、ここで人生の幕を下ろしたほうが、きっと楽だ。
「それで、私はなにをすればいいですか」
「ああ。おまえはただ、そのままでいい。きっと山の神さまが、守ってくださる」
英恵には、具体的になにをすればいいとか、誰を頼ればいいとか、そういうことは知らされない。
ただ、外から来たよそ者を、真摯にひたむきにもてなせという。
この村には、言い伝えがある。お正月に、村の外から来客が来るのだ。
その客は、お正月のみこの村に出入りすることができて、その客を案内するのが、英恵の役目、生贄の役目だった。
英恵は最初から、自分が死ぬことを知らされていた。でも、それだけだ。
具体的にどうやって殺されるのかとか、どうやって生贄になるのかは、誰もなにも教えてくれない。
だから、お正月になって忠人に殴られたときには、心底恐怖した。




