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パグ日記〜俺とパグの同居日記〜  作者: 水前寺鯉太郎
第1部

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第9話

 大福を我が家に迎えてからというもの、俺の生活のルーティンは文字通り天地がひっくり返るほどに変わってしまった。

 かつての仕事終わりや休日なら、ネットの海を回遊するにしても、最新ガジェットのレビュー動画を眺めたり、匿名掲示板のまとめサイトを目的もなくスクロールしたりするのが常だった。しかし今や、スマートフォンの検索履歴は「パグ しつけ」「子犬 ドッグフード 無添加」「犬 夜間病院」といった、犬の健康と飼育に関するワードだけで埋め尽くされている。

 ちなみに、俺自身もネットの片隅で、ひっそりと小さなSNSのアカウントを開設していた。

 ハンドルネームは「サラリーマンA」。

 由来は深く考えないでほしい。会社の公的な書類の見本によくある「申請者:サラリーマンA(甲)」という、あの適当な記号のノリでつけただけの、匿名性の塊のような名義だ。

 かつてはガジェットのスペック論争を眺めていた俺のタイムラインは、今や大福のシワ掃除での壮絶な戦いの愚痴や、真夜中に響き渡る原付バイク顔負けのいびきの音声動画ばかりになっていた。だが、驚くべきことに、同じような短頭種の飼い主たちから「パグあるあるですね!」「うちのアイドリング音も負けてません」と、ささやかな共感のいいねを貰えるようになっていた。世界一平和で、ちょっと香ばしいコミュニティだ。

 その日の昼休み。

 オフィスの自席で、コンビニで買った安物のサンドイッチを片手に齧りながら、俺はいつものようにスマートフォンで犬関係のタイムラインを眺めていた。午後からの仕事に備えて脳を休ませる、ささやかな癒やしの時間のはずだった。

 だが、スクロールする指が、とあるポストの前でピタリと止まった。

 それは、パグ関連のハッシュタグを辿る中で偶然流れてきた、動物保護施設の譲渡情報を伝えるアカウントの投稿だった。

 地方にある大規模な民間シェルターのアカウント。普段なら「みんな、優しい新しい飼い主が見つかるといいな」と、切ない気持ちを抱えながらも通り過ぎるところだった。しかし、そのポストに添付されていた一枚の写真が、俺の網膜に焼き付いて離れなくなったのだ。

 画面の向こうに映し出されていたのは、一匹の、真っ黒な犬だった。

 光沢のある、吸い込まれそうなほど綺麗な漆黒の毛並み。臨場感のあるその黒い塊の中心には、クシャッとこれ以上ないほど潰れた鼻と、こぼれ落ちそうなほど大きくて、どこか底知れない不安を湛えた丸い瞳があった。

 パグだった。しかも、我が家にいるフォーン色の大福とは完全に対照的な、艶やかな黒パグ。

『仮名・アズサ。推定二歳の女の子。繁殖業者からのレスキュー(救出)です。狭いケージの中しか知らずに育ったため、少し怖がりなところがありますが、本当は人間のことが大好きな、とても甘えん坊で優しい子です。現在、温かい家庭の里親さんを募集しています』

「パグの、黒……」

 自席で、思わず声が漏れていた。ハッと気がつくと、斜め前の席の女子社員が「え?」という顔でこちらを微かに振り返っている。俺は慌てて残りのサンドイッチを口に押し込み、お茶で強引に流し込んだ。

 画面の中のアズサは、殺風景な施設のケージの隅で小さく体を丸め、上目遣いで怯えるようにカメラを見つめていた。その佇まいは、あの日、お正月のペットショップの一番奥で、虚無を決め込んで丸くなっていた大福の姿と、どこか強烈に重なるものがあった。

 いや、大福の時よりも、その瞳の奥にある陰影が、俺の胸の最も深いところをチクリと、容赦なく刺した。二歳になるまで、狭いケージの中でただ子供を産むためだけの機械のように扱われていたのだろうか。彼女の短い犬生に思いを馳せると、胸が詰まるようだった。

「おい、エース。昼飯食ったら、午後イチの進捗会議の資料、最終チェック頼むぞ」

 背後からの先輩の鋭い声に、俺は心臓を跳ね上げさせて、現実に引き戻された。

「あ、はい! すぐやります。今すぐ確認します!」

 慌ててスマートフォンの画面を消し、胸のポケットに放り込む。

 パンのクズを払い、頭を強引に仕事モードに切り替えようとしたけれど、午後からの重苦しい会議の最中も、俺の脳は半分機能していなかった。プロジェクターに映し出されるエクセルの売上表の円グラフ、その真っ黒に塗りつぶされたマイナス要素の「陰影」を見るたびに、あの寂しげな黒パグの瞳が脳裏にオーバーラップしてくるのだ。

 うちにはもう、やんちゃ盛りで手のかかる大福がいる。一週間前にお風呂に入れただけで、部屋中をびしょ濡れにするような、フォーン色の暴れん坊怪獣だ。

 一人暮らしの、平慢だけが取り柄のサラリーマンが、二匹目――それも心に傷を負った里親募集の保護犬を飼うなんて、客観的に見れば無茶だし、キャパシティオーバーだ。そんなことは、頭では百も承知だった。

 だけど、あのスマートフォンのバックライトに照らされていた黒い影は、俺の心にしっかりと鋭い爪を立てたまま、どうしても離れてくれなくなっていた。

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