第8話
仕事終わりにベッドの上でスマートフォンを弄り、パグの正しい飼育方法やケアについて調べていた俺は、ある専門記事の不穏な一節に目を留めた。
『パグやブルドッグなどの短頭種は、顔の深いシワの間に、涙や皮脂、外から持ち込んだゴミが非常に溜まりやすい構造をしています。これを放置しておくと、最悪の場合、菌が繁殖して酷い臭いや皮膚炎の原因になります。こまめなお手入れが不可欠です』
なるほど、あの生後数ヶ月とは思えない、深い人生の苦労をすべて背負い込んだようなシワの数々は、ただのチャームポイントとして放置していいものではなかったらしい。
そう言われてみれば最近、大福の顔のあたりから、なんだか香ばしいというか、お日様に干した布団と生乾きの雑巾を足して二で割ったような、なんとも言えない絶妙な匂いが漂ってくる気がしていた。臭い。確かに臭いのだが、なぜかクセになり、一日に数回は自ら鼻を近づけて深呼吸してしまう魅惑の悪臭。すべてはあのシワの奥に原因があったのだ。
「大福、ちょっとお顔のメンテナンスするぞ。こっちおいで」
リビングのローテーブルの前に大福を座らせる。俺は最初、手近なティッシュペーパーを引き抜こうとしたが、ふとネット記事の『乾いた紙は皮膚を傷つける恐れがある』という警告を思い出し、慌てて赤ちゃん用のノンアルコール・ウェットティッシュを引っ張り出してきた。
対する大福は、俺が何かを取り出したのを見て「おやつか!? ついにボーナスタイムか!?」とばかりに期待に満ちた目で短い尻尾をちぎれんばかりに振っていた。だが、俺が細く折り畳んだ冷たいウェットシートを指先に巻きつけ、真剣な目付きで顔に近づけると、本能的に不穏な気配を察したらしい。「フゴッ」と短い鼻を鳴らして、ずるずると頭を後ろに引いた。
「動くな動くな、痛くはしないから。すぐ終わるって」
俺は左手で大福の丸い頭を後ろからしっかりと固定した。万が一にも暴れて指が目に入らないよう慎重に保定し、右手の手つきを最高に精密にしながら、まずは額の一番太いシワを上下に優しく指で広げてみた。
めくってみて、俺は思わず息を呑んだ。
外側から見ている分にはただの皮膚の重なりなのに、指で広げたシワの奥の奥には、ペットショップ時代からの蓄積か、あるいは先日の広島みなと公園――通称、宇品の海沿いで浴びた砂埃か、赤茶色い皮脂汚れがしっかりと隠されていたのだ。
外敵から完全に遮断された、暗く湿ったスリット。まさに「汚れの秘密基地」だった。
俺は人差し指に巻いたシートの角を使って、そのシワの溝を、遺跡を発掘する考古学者のような手つきで優しくなぞるように拭き取っていく。
大福は「無念……」と言いたげな顔でジッとこちらを凝視していたが、いよいよ本丸である、鼻の真上にある最も太くて深いシワにシートが触れた、その瞬間だった。
「フゴ……フゴ、フゴフゴ……ッ」
大福のクシャおじさん顔が、さらに中心に向かってギュッと凝縮され、小さな二つの鼻穴が小刻みに震えだした。
あ、これ、人間がコショウを鼻先で嗅いだときのやつだ――そう直感した俺が、身を引こうとした直後だった。
「ブブブッ、クショォォン!!」
ゼロ距離の至近戦において、大福の放った豪快極まりないくしゃみが、俺の顔面に完璧なフルヒットで直撃した。
信じられないほどの局地的な風圧。そして、子犬のものとは思えない濃厚な水分と、例の香ばしいパグ臭が俺の顔全体を包み込む。
「うおっ……汚ねぇっ……!」
俺がのけぞって悲鳴をあげながら、袖口で顔を拭っている間、主犯のパグは「ハァハァ」と満足げにピンク色の短い舌を口の端から出し、何事もなかったかのようにスンッと美しく座り直していた。鼻の奥がムズムズして、最高にすっきりしたぜ、とでも言いたげなドヤ顔である。
「舐めるなよ、これでもう終わりだと思うな」
ここで諦めるわけにはいかない。俺がめげずにもう一度シートを近づけると、今度は「ブフフッ!」と強烈な鼻息を噴射して、俺の指先のシートを吹き飛ばそうとしてくる。拭いてはくしゃみを浴びせられ、鼻息を避けてはまた隙を突いて指を滑り込ませる。ワンルームの床の上で、地味で壮絶な泥仕合が繰り広げられた。
激闘の末、俺の指先のウェットティッシュには、うっすらと茶色い勲章(汚れ)がしっかりと付着していた。
すべてのシワの奥が清掃され、すっきりとした大福の顔を正面から改めて見つめてみる。すると、なんだか心なしか、いつもよりお目目がパッチリとして、パグの基準における「かなりの男前」になった気がした。顔のまわりを占拠していたあの香ばしい悪臭も、跡形もなく消え去っている。
「よし、これで男っぷりが上がったな。お前、なかなかのイケメンパグだぞ」
ご褒美のカリカリを一粒差し出しながら、その丸い頭をガシガシと撫で回してやると、大福は嬉しそうに鼻を鳴らした。そして、自分の放った飛沫でベタベタになっている俺の手を、申し訳なさそうに、あるいは味付け海苔でも舐めるかのような手つきでペロペロと優しく舐め返してきた。
犬を飼うということは、ただ可愛い姿を見て癒やされたり、一緒に遊んだりするだけじゃない。
このクシャクシャに潰れた顔の、小さなシワの奥の奥まで、俺が責任を持って綺麗に保ち、守ってやることなんだな――。
真っ茶色に汚れたウェットティッシュを丸めてゴミ箱へ放り投げながら、俺は少しだけ、大福の「本当の家族」に近づけたような気がして、寝不足の頭のまま、誇らしい気持ちで胸を満たしていた。




