第7話
昨日の広島みなと公園への遠出は、大福にとって大冒険だった。
地面には一歩も下ろさず、ずっと俺のフリースの中に格納されていた大福だったが、帰宅してみると意外なほど汚れていた。海沿いの激しい寒風が巻き上げた砂埃や、舞い上がった波しぶきの塩分。おまけに、外の世界の恐怖に興奮した大福自身のよだれが、もこもこのドッグウェアの首元にべっとりと付着していた。
抱き上げると、どことなく潮の匂いと、獣らしい野性味あふれる香ばしい匂いが漂ってくる。
「よし……大福。ここらで一発、綺麗になろうな」
俺は意を決して、大福の「初めてのお風呂」を執り行うことにした。
事前にスマートフォンで「パグ 子犬 初めてのお風呂」と検索をかける。画面には『人間よりもかなりぬるま湯のシャワーで、足元から優しく流すこと』『顔のシワの間は特に念入りに洗って乾かさないと生乾き臭の原因になる』といった注意書きが並んでいた。
「フゴ?」
何も知らずに短い尻尾をちぎれんばかりに振ってついてくる大福をひょいと抱き上げ、俺は浴室のドアを閉め、退路を断った。
大福が異変を察知したのは、俺がシャワーの蛇口をひねった、まさにその瞬間だった。
ザーーッという、狭い浴室に反響する激しい水音と、立ち上る白い湯気。大福は「フゴッ!?」と、こぼれ落ちそうな黒い瞳を限界まで見開き、俺の腕の中で文字通り狂ったように暴れ始めた。
慌てて床の上に着地させると、四本の短い足をピンと突っ張らせ、浴室の隅っこへ必死の形相で高速バックしていく。額のシワを限界まで引き寄せ、まるで未知の天変地異に遭遇したかのような大パニック状態だ。
「大丈夫だから、怖くないって。ほら、お湯、温かいぞ」
スウェットの裾を太ももまで捲り上げ、俺は真冬の冷たいタイルの上に膝をついた。じわリとジーンズに染みる冷気におののきながら、大福の丸い体を優しく押さえ、まずは後ろ足の先から、そっとぬるま湯をかけた。
ジュワッ。
視覚的にはそんな音がしそうな勢いで、大福のボリュームのあった体が、みるみるうちに縮んでいった。
これには驚いた。パグという犬種は、毛が濡れると驚くほど細く、貧相になるのだ。普段の「白くて丸い大福もち」のような肉厚なフォルムはどこへやら、そこにいたのは、骨格の浮き出た細身の体に、巨大な目玉だけがギョロリと光る、未知の宇宙人だった。
「お前……脱いだらそんなに細かったのか」
大福はパニックになりながらも、俺が床にしゃがんでいる両膝の隙間に、クシャクシャの顔をギュッと力任せに埋めてきた。怖いシャワーの水を視界から遮りたいらしい。俺の太ももに必死にしがみつき、小刻みに震える小さな体を左手でホールドしながら、俺は右手だけで器用に犬用シャンプーを泡立てる。
「すぐ終わるからな、じっとしてろよ」
背中をマッサージするように泡立てていく。パグ特有の、首のまわりのたっぷりと余った皮をタプタプと揉み洗いしていると、なんだか犬を洗っているというより、泥汚れの酷い高級外車を洗車でもしているような奇妙な気分になってくる。
一番の難所である額のシワの間を、指先で優しく泡で拭うように洗っていく。指でシワをぐっと押し広げると、大福は「フガフガ」と不満げに鼻を鳴らしながら、完全にすべてを諦めた『チベットの老僧』のような深い虚無の表情を浮かべた。そのあまりの間抜け面に、俺の緊張も自然とほぐれていく。
シャンプーの泡をしっかりと洗い流し、一世一代の大仕事であるお風呂はなんとか終了した。
特大のバスタオルで大福を蓑虫のように包み込み、リビングへ連れて行く。と、タオルを開放した瞬間だった。大福は水を得た魚、ならぬ「風呂から上がった怪獣」と化し、リビングの絨毯に体を激しく擦りつけながら、猛烈なスピードで部屋中をジグザグにダッシュし始めた。
「おい! やめろ大福! 遠心力で水分を飛ばすな! 壁に擦りつけるな!」
俺の制止など聞こえない。我が家を襲うフォーン色の弾丸は、ひとしきり暴れ回ってようやく動きを止めた。
水分が飛んで再び元の「丸くて美味しそうな大福」のフォルムに戻った大福からは、シャンプーの爽やかな甘い香りがふんわりと漂っていた。
ふと自分の服に目を落とすと、大福が激しく身震い(ブルブル)をした際の水しぶきと、浴室での格闘のせいで、俺のシャツとスウェットは、絞れるほどびしょ濡れになっていた。
「……これじゃ、入浴させられたのは俺の方だな」
苦笑いしながら、絨毯の上で力尽きてゴロゴロしている大福を再び捕まえ、今度はドライヤーの微風を当ててやる。
温かい風が顔に当たると、大福はうっとりと気持ちよさそうに目を細めた。そして「ふぃ〜」と満足げな声を漏らしながら、小さなお口をいっぱいに開けて、大きなあくびを一つ、俺の目の前で弾けさせた。
そのまま、大福は重い頭を俺の濡れた膝の上にピトッと乗せ、完全に寝入ってしまった。
甘い香りのする、ずっしりとした温もり。
「まったく、人使いの荒いおっさんだ。……まぁ、綺麗になったから許すけどな」
俺は愛犬の規則正しい寝息を特等席で聴きながら、自分の着替えを取りにいくのを、もう少しだけ後回しにすることにした。




