第6話
翌日の、土曜日。
大福を我が家に迎えてから、初めての本格的な週末がやってきた。
金曜日まで仕事でクタクタになり、大福のいびきで深刻な寝不足だったはずなのに、朝にカーテンを開けると、悔しいほどの快晴。絶好の冬晴れだった。
「よし、大福。今日はちょっとドライブ遠出といこうぜ」
まだすべてのワクチンプログラムが終わっていない大福は、当然ながら地面を歩く散歩は禁止されている。だけど、ペットショップの店員さんは「車に乗せたり、抱っこのまま色んな景色を見せたりするのは、子犬の社会性を育てるためにすごく良いことですよ」と言っていた。
俺は、ネットで吟味して購入したばかりの「抱っこ散歩用スリングバッグ」を肩にかけ、その中に大福をすっぽりと収めた。車を走らせること約三十分。やってきたのは、南区にある「広島みなと公園」だ。
ここは広大な芝生広場があり、すぐ目の前には遮るもののない瀬戸内海が広がっている。潮の匂いが混ざった風を感じながら車から降りた瞬間、俺は思わず身震いして首をすくめた。
「……うわ、寒っ! 想像以上だなこれ」
一月の冷徹な海風が、容赦なく吹き付けてくる。波止場に係留された船が波に揺れ、ゴトゴトと重い音を立てていた。
スリングの中から、「フゴッ!?」と聞いたこともないような驚いた声がした。
大福がバッグの端からクシャッとした顔をニュッと突き出し、初めて見るどこまでも広い海と、激しく波立つ水面、自由奔放に吹き荒れる風の音に、こぼれ落ちそうな黒い瞳を限界まで丸くしている。
せっかくおニューのブランドものの犬用冬服を着せてきたのだ。ベンチに座って、海をバックに「映える」写真の一枚でも撮って佐藤に送りつけてやりたい。そんな親バカな下心が頭をもたげ、俺は芝生に面した木製のベンチに腰掛け、大福をスリングから抱き上げた。
もこもこの冬服を着た大福を、俺の膝の上にちょこんと座らせてみる。
だが、家の中で見せるあの大暴れや、ローテーブルの上の服を引っ張り出すような「猛々しい野生」は、微塵も発揮されなかった。
ヒュウゥゥゥッ、と一際冷たい風が俺たちの間を通り抜けた瞬間だった。
俺の太ももの上で、大福の短い四肢が目に見えてガタガタと小刻みに震えだしたのだ。額のシワをこれでもかと中央に寄せ、完全に世界に対して怯えきっている。
「大福? ほら、あれが海だぞ。かっこいい船がいるぞ」
スマホを構えて声をかけてみるが、大福は景色なんて一秒も視野に入れない。それどころか、待ってましたとばかりに俺の胸元へとトコトコと這い上がってきて、俺のダウンジャケットの裾に、クシャクシャの顔を激しくこすりつけ始めた。
それだけでは寒さと恐怖をしのげないと言わんばかりに、短い前足で俺の胸元をガシガシと必死に登り、俺の首元に短いマフラーのように全力でしがみついてくる。
「お前、家の中じゃあんなに傍著無人な怪獣のくせに、外に出たら完全に内弁慶だな」
呆れながらも、俺はフリースジャケットのフロントジッパーを少し下げ、その中に大福をすっぽりと回収した。ジッパーを大福の首元まで閉めると、俺の胸の前に、フォーン色の丸い頭だけがポコッと突き出た奇妙なスタイル――「パグ入りミノムシ」が完成した。
フリースの内側で、大福は俺のヒートテックのシャツにぴったりと鼻を埋め、小さな身体を極限まで丸くしている。その姿はまるで、過酷な冬の自然界で必死に生き延びようとしている、一本のフォーン色の毛玉のようだった。
けれど、その毛玉のおかげで、俺の胸元は嘘みたいに熱かった。
大福のストーブのような高い体温が、フリースの密閉空間の中でじわりじわりと俺の肌に伝わってくる。トクトクと刻まれる心臓の音も、恐怖のせいかいつもより少しだけ早い。それと同時に、フリースの隙間から、大福の「フガフガ」という熱い鼻息が、若干のドッグフードの匂いを伴ってダイレクトに俺の鎖骨あたりに吹き付けられた。
海風は耳がちぎれそうなほど冷たくて、指先の感覚もなくなりそうなのに、大福と密着している胸のあたりだけが、まるで温泉に浸かっているかのように温かい。いや、温かくて、ちょっと香ばしい。
公園のベンチで、遠くを往来するフェリーをぼんやりと眺める。
目的だった「広い公園の空気をアクティブに楽しむ」ことは、一ミリも達成できなかった。けれど、俺の心臓のすぐ近くで、俺を唯一の命綱のように頼ってしがみついている大福の重みを感じているだけで、なんだかこれ以上ないほど特別な休日を過ごしているような、そんな満ち足りた気分になれた。
「よし、大福。退散だ。帰ってコタツでぬくぬく温まろうぜ」
声をかけると、フリースの内側から「フゥーッ」と、大賛成を意味するような、暖気混じりの力強い鼻息が返ってきた。
――と、同時に。
密閉されたフリースのボトムあたりから、「プシュウ……」と、これまた緊張が解けたことを意味する、極めて濃密なガスの気配が立ち上ってきた。
「ぶっ……! お前、この密室空間でそれはテロだろ!」
胸元は温かいが、首元から抜ける空気は最悪に臭い。俺は鼻を歪め、フリースの中にいる「おっさん」をしっかりとホールドしたまま、大慌てで駐車場の車へと走り出すのだった。




