第5話
一月中旬の、金曜日。
大福を我が家に迎えてから、今日でちょうど一週間が経とうとしていた。
結論から言おう。俺の睡眠不足は、すでに限界のその先へ達していた。
金曜日の昼休み。オフィスの片隅にある自動販売機の前で、俺は百四十円の缶コーヒーを握りしめたまま、半分意識を飛ばして虚空を凝視していた。あの火曜日の大爆音から数日間、大福の「深夜の原付アイドリング」は衰えるどころか、日ごとに排気量を増している気がする。まぶたの裏に張り付くような疲労感で、頭の中にはずっと薄いモヤがかかっていた。
その時、背中をバシッと小気味いい音を立てて叩かれた。
「おいおい、どうしたエース。正月ボケにしては、顔の土気色がシャレになってないぞ」
軽い調子で声をかけてきたのは、同期の佐藤だった。配属部署は違うが、新入社員研修からの腐れ縁だ。ちなみに「エース」というのは、名字のイニシャルがAだからという理由だけで大学時代からつけられている、中身の伴わない俺のあだ名である。
佐藤は社内でも有名な「極度の犬派」であり、実家でミニチュアダックスフンドを文字通り目に入れても痛くないほど溺愛している男だった。俺は熱いブラックコーヒーを一口すすり、消え入るような声で応じた。
「……いや、実はさ。犬、飼い始めたんだよ」
「えっ、マジで!? お前が犬!? あのペット禁止一歩手前のボロアパートでか?」
「一応、大家と交渉して敷金積んで、特例で許可もらったんだよ。犬種は、パグ」
佐藤はカップ焼きそばの湯気を止めるほど目を丸くした後、すぐに破顔した。そして「ようこそ、こちらの世界へ!」と俺の肩を前後に激しく揺さぶった。犬仲間が増えたのが、よほど嬉しいらしい。
「それで? なんでそんなに疲れ果ててんだよ。初めの一週間だし、やっぱり子犬特有の夜泣きが酷くて眠れないのか?」
「夜泣きなら、まだ可愛げがあるし防音対策も立てようがある。……いびきだよ。真夜中に、ワンルームの中で原付バイクがずっと空ぶかしされてるんだ」
俺がこの一週間、毎晩のように見舞われている「重低音地鳴り大爆音」の苦沙汰を熱弁すると、佐藤は持っていたお茶を吹き出しそうになりながら大爆笑した。
「ギャハハ! 初手からパグの濃厚な洗礼浴びてんじゃん! そっか、短頭種――いわゆる鼻ペチャの犬は、気道の構造上、どうしてもいびきをかきやすいんだよな。いや、それにしても子犬のサイズでバイクのアイドリングは傑作だわ」
「笑い事じゃないって。工業用の耳栓すら貫通してくるんだぞ。俺の脳細胞が毎晩削られてる」
「いや、だってさ、うちのダックスなんて『スースー……クプー』って、完全に天使の寝息しか立てないからさ。そんなオヤジみたいな悩み、新鮮すぎて羨ましいわ」
天使の寝息。
佐藤の口から飛び出したそのあまりにも優雅なワードが、寝不足でドロドロになった俺の脳みそに、猛烈な嫉妬心となって突き刺さった。なぜ同じ犬という生物なのに、あちらは天使で、我が家の中身は五国十派を渡り歩いてきたようなクソオヤジなのか。神の設計ミスを疑わざるを得ない。
「でもさ」
佐藤はポケットからスマートフォンを取り出すと、自慢の愛犬の写真を画面に表示させて俺に見せてくれた。
艶やかなブラックタンの毛並み、胴長短足の美しいシルエット。いかにもスマートで、人間の言葉をすべて理解していそうな賢そうな顔立ちのダックスだった。
「犬がいる生活って、ぶっちゃけ最高だろ? 仕事でどんなに理不尽な目に遭っても、上司に理不尽に詰められても、家に帰ってあのつぶらな瞳で見つめられたら、マジで全部どうでもよくなる。あいつらはさ、俺たちがどんなにダメ人間でも、世界のすべてを肯定してくれるからな」
「……それは、確かにそうかもな」
佐藤の言葉を聞きながら、俺は昨日の夜のことを思い出していた。
あれだけ大爆音のいびきをかき、切れ味の鋭い放屁をブチかましておきながら、夜中にふと目が覚めたとき、大福はわざわざ俺の太ももに、あのクシャッとした重い頭をぴったりと乗せてきていたのだ。
ズボンの上からズブズブと伝わってくる、生き物特有の、湯たんぽのようなずっしりとした温もり。時折、夢でも見ているのか「ふにゃ……」と小さな声を漏らしながら、俺の足にしがみついていた小さな前足。あの瞬間、俺の睡眠不足のイライラは、その熱量によって確かに溶かされていた。
「パグは頑固だしマイペースだけど、その分、人間に対する愛情表現がストレートでめちゃくちゃ面白いって聞くぞ。今度、絶対写真見せろよな」
佐藤はそう言って、午後の業務へと戻っていった。
静かになった休憩室で、俺のズボンのポケットが、小さく振動した。
画面を開く。それは、一昨日の夜にセットしたばかりの、自宅のネットワークカメラからの動体検知通知だった。ニヤけてしまう顔を隠すように、スマートフォンの画面を覗き込む。
映し出されたリアルタイムの画面の中――。
大福は、新しく頑丈にしたサークルのど真ん中で、やっぱり仰向けになり、四肢を天に突き上げる「ヘソ天」の姿勢で豪快に寝ていた。画質は粗いが、小さな鼻の穴が規則正しく動いているのが分かる。
と、画面の中の大福が「プッ」と一発、小さな放屁をした。その自分の音に驚いたのか、大福は「フガッ!?」とパッカーンの体勢のまま一瞬だけ頭を跳ね上げ、誰もいない部屋をキョロキョロと見回した。そして、何事もなかったかのように再びパタンと泥のように眠りに落ちていく。
思わず、鼻からフッと笑いが漏れた。
佐藤の言う「天使」とは、どこをどう切り取っても程遠い、相変わらずの不細工なおっさんスタイル。
だけど、スマートフォンの小さな画面に映るそのどうしようもなく愛おしい間抜け面を見ただけで、俺の胸の奥に、じんわりと温かい灯がともるのが分かった。
「よし。あと半日、あいつの高級カリカリ代のために頭下げるか」
俺はぬるくなった缶コーヒーを一気に飲み干し、ゴミ箱へ放り込んだ。
一週間ぶりに、ほんの少しだけ軽くなった足取りで、俺は自分のデスクが待つ戦場へと向かった。




