第4話
今、俺は猛烈な頭痛と、世界がセピア色に見えるほどの睡魔と戦いながら、この日記のキーボードを叩いている。
原因は明確だ。我が家にやってきた、あのフォーン色のちいさな同居人である。
時計の針を、昨晩の深夜へと戻させてほしい。
前日の「リビング大惨事衣類乱舞事件」を経て、俺はサークルの鍵を、子犬の力では絶対に外せない頑丈なスライドロック式に買い替えた。これで日中の脱走対策は万全。飛び散ったよだれまみれの服の洗濯と片付けをすべて終えた時には、夜の十一時を回っていた。
明日は火曜日。午前九時から、絶対に遅刻できない重要な社内プレゼンが控えている。心身ともに激しく消耗していた俺は、泥のように眠るべく、急いでベッドに入ることにした。
サークルの中のふかふかしたクッションの上で、大福もまた、丸くなって気持ちよさそうに目を閉じている。
「よし、大福。おやすみ」
部屋の電気を消し、静まり返った暗闇の中でベッドに潜り込む。
実家を離れて以来、何年もずっと一人きりだった夜。だが、今は同じ空間に、小さな命がもう一つ確かに存在している。サークルの方から微かに聞こえる寝息を感じながら、俺は「あぁ、犬のいる生活ってのは、なんて情緒があって素晴らしいんだ」と、至上の幸福感に包まれながら心地よい眠りに落ちていった。
――はずだった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……。
暗闇の中、突如として五臓六腑に響くような謎の地鳴りが轟き、俺は心臓を跳ね上げさせて飛び起きた。
枕元のスマートフォンを掴んで画面を見る。時刻は午前零時半。
なんだ? 地震か? それともアパートの上の階の住人が、こんな真夜中に部屋の中で親の仇のように重機でも動かし始めたのだろうか。
いや、それにしては、音が鼓膜に近すぎる。
ズピーーー、ブフッ! ゴゴゴゴゴゴ……。
耳を澄ますと、音の発生源は間違いなく、俺のベッドのすぐ横――大福のサークルの中からだった。
慌ててスマートフォンのライトを点け、サークルの中を恐る恐る照らしてみる。
そこにいたのは、信じられない体勢の愛犬だった。
大福は仰向けになり、短い四本の足を天に向けて完全にパッカーンと開き、無防備の極みのような姿で爆睡していた。そして、クシャッと潰れた顔の小さな鼻穴をせわしなく膨らませては、体長わずか三十センチ足らずの体からは想像もつかない大音量のいびきを撒き散らしていたのだ。
「――嘘だろ、これ病気じゃないのか!?」
初めて犬を飼った素人の浅はかな思い込みとして、子犬の寝息なんてものは「スースー」とか「クプクプ」といった、妖精のような可愛いものだと思っていた。こんな地響きのような音が鳴るはずがない。
急激な恐怖に襲われた俺は、布団の中で震える手で「子犬 いびき 爆音 病気」「パグ 呼吸がおかしい」と血眼で検索を始めた。画面には『短頭種気道症候群』『チアノーゼに注意』など、不穏な文字が躍る。酸素が脳に行き届かず、このまま死んでしまうのではないか。最悪の想像が頭をよぎり、背中に冷や汗が流れた。
生きた心地がしないまま、俺はベッドから這い出し、サークルのスライドロックを乱暴に解除した。クッションに頭を突っ込み、大福の体を両手で抱き上げる。
「大福! 大福、しっかりしろ! 息をしてるか!?」
必死でその丸い体を揺すった。
大福は「フガッ!?」と一度大きく鼻を鳴らし、薄目をあけた。そして、パニックになって半泣き終止符の俺の顔を、トロンとした目で見つめると、
「プゥ〜」
と、これまたおっさん顔負けの、実に見事な切れ味のいい放屁を一つくり出し、何事もなかったかのように再びフイと目を閉じた。
「……ただの熟睡かよ」
緊張の糸が切れ、俺はガックリと床にへたり込んだ。パグが奏でていたのは、病気の悲鳴などでは断じてない。完全に「居酒屋の座敷で泥酔して寝転がっている年季の入ったオヤジのいびき」であり、あるいは「完全に年式遅れでオイルの切れた原付バイクのアイドリング音」そのものだったのだ。
そこから再びベッドに戻り、枕に頭を沈めた、まさに三分後のことだった。
ズゴゴゴゴゴゴゴゴガガガッ!!!
先ほどよりもさらにギヤを一段上げ、ボリュームを倍増させた「第二波」が、深夜のアパートに爆音で鳴り響いた。今度は鼻から謎のリップ音まで混じっている。それだけではない。時折「……ッ……」と不自然に音が途切れたかと思うと、数秒後に「ガハッ!」とリスタートする、質の悪い無呼吸症候群のオヤジのそれだ。
結局、そこから朝を迎えるまで、俺はほとんど一睡もすることができなかった。枕を耳に押し当てても、重低音がワンルームの薄い壁を振動させ、骨伝導のように脳髄へと響いてくる。パグという犬種は、可愛い見た目をした「おっさん製造工場」だったのか。
そして、一月中旬の火曜日の朝。
無慈悲なアラームの音に引きずり出された俺は、洗面所の鏡の前で、かつてないほど色濃く刻まれた目の下のクマを見つめていた。大事なプレゼンを前に、脳細胞の半分は完全に死滅している。
フラフラとした足取りでリビングへ向かうと、サークルの中には、すでに活動を開始している主犯の姿があった。
「フゴッ?」
夜間の大爆睡によってエネルギーを百パーセントフル充填し、毛並みツヤツヤ、これ以上ないほどすっきりとした顔の生後三ヶ月が、そこにはいた。俺の絶望など露知らず、大福は千切れんばかりに尻尾を振り、おまけとばかりに健康そのものの快便をリビングのシートにぶちちまけた。
「……負けた。俺の負けだ、大福」
俺はゾンビのような手つきでティッシュを掴み、プレゼン前の貴重な時間を、愛犬のうんこ拾いに捧げるのだった。




