第3話
大福と一緒に初めての週末を過ごし、あの奇妙な「抱っこ散歩」を終えた翌週の月曜日。ついに、本格的なお留守番の日がやってきた。
世間の正月ムードも完全に終わり、サラリーマンが一斉に現実へと引き戻される本格的な仕事始めの週だ。
いつもより一時間早く起きて大福のケージを掃除し、トイレシートを隙間なく敷き詰め、一日の規定量のカリカリと、なみなみと注いだ水を用意する。
鏡の前でスラックスに脚を通し、ネクタイをきゅっと締め上げる。堅苦しいスーツ姿の俺を、大福はサークルの柵に短い前足をかけ、不思議そうに見上げていた。
「フゴ?」
首を傾げて短く鳴くそのクシャッとした顔には、これから始まる長いお留守番の寂しさなんて、まだ微塵も感じられない。
「いいか大福、おとなしくしてるんだぞ。お前のこれからの高級カリカリ代を稼いでくるからな」
サークルの二重ロックをしっかり掛けた――つもりで、後ろ髪を引かれる思いで俺はアパートのドアを閉めた。
会社に出てしまえば、溜まりに溜まったメールの処理や新年の挨拶回りで、時間は怒涛のように過ぎていった。
それでも、ふとしたデスクワークの合間や、コピーを取っている一瞬の静寂に、気がつけばスマートフォンに手が伸びそうになる。画面の向こうで、大福が寂しくて遠吠えをしていないだろうか。寂しさのあまりストレスで体調を崩していないだろうか。
「おい浅野、正月ボケか?」
「あ、すいません!」
先輩に小突かれて慌てて我に返る。定時を告げるチャイムが鳴ると同時に、俺は周囲の残業の空気を完全に無視して、文字通り脱兎のごとく会社を後にした。
「ただいま、大福! 寂しかったか!」
期待と一抹の不安を胸に、アパートの鍵を開けたのは午後七時すぎのことだった。
玄関を上がり、リビングのドアを開けた瞬間――俺は歓声の手前で、完全に言葉を失った。
そこにあったのは、見慣れた茶色いフローリングの床ではなかった。
色とりどりの布地が、まるで荒れ狂う津波のように部屋の一面に広がっている。
「……嘘だろ」
服だ。俺が昨日の夜、コインランドリーから回収して、とりあえずローテーブルの上に「あとでたたもう」と山積みに放置しておいた冬物のセーター、チノパン、ヒートテックが、見事なまでにバラバラに引き裂かれ、四散していた。
驚いて視線をサークルへやると、スライドロックの片方が半端に浮いていた。今朝の俺の締め方が甘かったのだ。そこへ内側から猛烈な頭突きと爪の引っ掻きを浴びせ、執念でこじ開けたらしい。大福は自力で脱出し、このワンルームという名の未開のジャングルを、一日中大冒険したに違いなかった。
お気に入りのチャコールのウールセーターを拾い上げた瞬間、俺の脳裏に「怒り」ではなく、強烈な「恐怖」がよぎった。
あちこちに開いた小さな歯型。引きちぎられたウールの繊維。
(待て……まさか、大福のやつ、これを飲み込んでるんじゃ……!?)
犬の誤飲は命に関わる。最悪の場合、腸閉塞で緊急手術だ。心臓がドクンと嫌な高鳴りをあげる。新米飼い主の脳内に、最悪のシナリオがパニックとなって駆け巡った。散らばった布の破片をかき集め、パズルのように合わせながら、大福の吐瀉物や血痕がないかを血眼で探す。
「大福! 大福、どこだ!? 出てこい!」
悲鳴に近い声をあげた、その時だった。
服の海の中心――俺が最も頻繁に着古している、色褪せたグレーのジップパーカーが丸く盛り上がっている部分が、モゾモゾと不自然に動いた。
ずり、ずり、とパーカーが動く。
中から現れたのは、鼻の頭にセーターの毛羽をたくさんつけた、フォーン色の丸い頭だった。
「フガッ!」
大福は、俺の焦燥も怒りも一ミリも察していない様子で、無邪気に歓喜の声をあげた。そして、短い尻尾をちぎれんばかりにブンブンと振りながら、俺のパーカーを蓑虫のように背中に引きずったまま、トコトコと嬉しそうに駆け寄ってきた。
慌てて大福を抱き上げ、口を開けさせて中を確認する。舌の奥に大きな布切れは残っていない。お腹を触っても張っている様子はなく、本犬はいたって元気の塊だ。
(だが、油断はできない。明日、便と一緒に繊維が出てくるか観察して、万が一吐くようなら即夜間救急だ……)
スマホで近所の動物病院の夜間窓口を調べ、メモアプリに番号を叩き込む。そこまでやって、ようやく床にガックリと膝をついた。恐怖から解放された瞬間、張り詰めていた糸が切れ、急に涙が出そうになった。
そして同時に、気づいてしまった。
大福がボロボロにしたのは、俺が「一番よく着ている服」ばかりだった。彼は、初めて一人で過ごす果てしなく長い時間の中で、心細くて、寂しくて、俺の匂いが一番強く残っている服を山から引きずり下ろし、その温もりに包まれながら、ずっと帰りを待っていたのだ。
足元に飛びつき、俺のスーツのスラックスに、よだれと鼻水まみれの顔を全力で擦りつけてくる大福を前にして、俺はもう、溜め息を吐くことすらできなかった。
「……ずるいだろ、これじゃ怒れるわけないじゃんか」
明日着ていく予定の予備のスーツまでヨダレの犠牲になっているのを見つめながら、俺は苦笑して大福を抱き上げた。大福は「ブフフッ、フゴッ」と満足げに鼻を鳴らし、俺の顎を盛大に、べったりと舐めあげた。
腕の中のずっしりとした重みと、ストーブのような体温。
部屋の凄惨な片付けと、スーツのケア、そしてクリーニング代。明日からの出費を計算して激しく頭が痛くなったけれど、この小さな命が我が家で俺を待っているという事実が、会社で擦り減ったすべての疲れを、一瞬で帳消しにしてくれた。




