第2話
大福が我が家にやってきてから、二週間が経った。
三が日の間は「環境の変化で体調を崩しやすいから、とにかくケージから出さずに休ませて」というペットショップ店員の言葉を愚直に守り、腫れ物に触れるような日々を過ごした。ようやく生活リズムが安定し、健康状態にも問題がないと確認できた一月中旬の週末。俺は、ついに大福の「散歩デビュー」を執り行うことにした。
とはいえ、まだ生後数ヶ月の子犬だ。すべてのワクチンプログラムが終わるまでは地面に下ろすことはできない。他のワンちゃんの病気がうつるリスクを考慮し、抱っこして外の空気に慣れさせる、いわゆる「抱っこ散歩」が今回のミッションだ。
ペットショップで購入した犬用スリングに大福を入れ、近所をぐるりと一周するだけ。楽勝なはずだった。歩かせるわけじゃないのだから、ただの有酸素運動である。
……だが、準備段階から俺の見通しは甘かった。
防寒対策にと、新年のセールで浮かれて買ったもこもこの冬用ドッグウェアを着せようとした時のことだ。大福は服という概念を知らない。前足を通そうと袖を広げた瞬間、それを「新しいおもちゃ」と判断し、俺の手や袖口をハグハグと猛烈に甘噛みし始めた。
暴れる軟体動物を捕まえ、なんとか頭を通したものの、今度は「ウゴォーッ!」と怪獣のような鼻鳴らし声をあげて抗議してくる。汗だくで格闘すること十五分。なんとか着せ終え、急に電池が切れたようにフリーズしたその姿は、どこからどう見ても「歩く丸太」、あるいは「詰め込みすぎた茶色いおはぎ」だった。
「よし……大福、ちょっと外の空気を吸いに行こうぜ」
スリングに「おはぎ」をがっしりと放り込み、玄関を開ける。一月の冷たい風がヒュッと吹き込んだ。
胸元の大福は、初めて触れる冬の冷気に一瞬で文字通りの「凍結」を果たした。くりくりとした黒い瞳を限界まで見開き、小さな鼻をせわしなく「フゴ? フゴフゴ?」と動かしている。その怯え方はあまりにもマヌケで、俺の口元は自然と緩んだ。
アパートの階段を降り、公園沿いの歩道を歩く。
地面に下ろせないため、俺はスリングの上から大福の体を両手でしっかりとホールドしていた。ショップではあんなに小さく見えたのに、パグの塊は歩くたびにずっしりとした重みを俺の体幹に伝えてくる。興奮しているのか、あるいは不安なのか、体温がめちゃくちゃ高い。まるで、毛布に包んだ炊きたての炊飯器を抱えて歩いているようだ。
「ほら、大福。あそこに見えるのが公園だぞ」
声をかけても、大福は景色なんて見ていない。彼の全神経は、歩道の脇に植えられた植え込みや、通り過ぎる風の「匂い」に集中していた。短い首を限界まで伸ばし、地面の匂いを嗅ごうとする。これが巷で噂の「クン活」か。最初は微笑ましく眺めていたが、ここからが長き戦いの始まりだった。
ズズズ、ズズズズッ。
胸元で、大福の鼻がダイソンの小型掃除機のように音を立てる。
「おいおい、危ないって」
身を乗り出す大福を引き戻すが、そいつの首は接着剤で固定されたかのように、植え込みの方向から微動だにしない。クシャッとした顔を風上に向けてフガフガと鳴らし、一つの草むらから漂う「先輩犬のメッセージ」を執り調査している。
匂いを追いかけるあまり、大福の体がスリングからずり落ちそうになる。
「頼むからじっとしてくれ!」
暴れる(しかし顔は真剣そのものの)パグを抱き直す。その場に立ち止まり、姿勢を直すことだけに全力を注ぐ。
五分経過。移動距離、わずか三メートル。
十分経過。大福はまだ同じ植え込みの、今度は電柱に近い側の匂いを、空中から必死にハフハフと吸い込んでいる。
じっと立ち尽くす俺の身体を、冷たい冬風が容赦なく冷やしていく。通りがかりの老夫婦が「あら、元気なパグちゃんね」と微笑んでくれたが、指先の感覚はすでに消えかけていた。
「なあ大福。散歩ってのは『歩く』って書くんだぞ。知ってるか? 俺が歩いてお前が抱かれてるだけじゃ、ただの筋トレなんだよ」
文句を言うと、大福は泥のついたような鼻を上げ、額のシワをこれでもかと寄せて俺をじっと見上げた。その目は「今、国家機密を解読中だから話しかけないで」と語っている。
結局、散歩デビューは「外の世界を楽しんだ」というより、「一人の男が、胸元から鼻息を荒くする茶色い塊を生やしたまま、電柱の前で固まっていた」という結果に終わった。
帰路につく。腕の中の丸い体は、相変わらずストーブのように温かい。
浅野の歩みは、おそろしく遅い。だけど、大福にとっては、この世界の冷たい風も、草の匂いも、すべてが新しくて、愛おしい情報に満ちているのだ。アパートの部屋に引きこもっていた俺には、気づけなかった世界の密度。
胸元の温もりを感じながら、俺は少しだけ可笑しくなって、寒さで強張った頬を緩ませた。
――が、部屋に帰り着いた瞬間、大福は感動の余韻をぶち壊すように「フンッ!」と鼻を鳴らし、もこもこのドッグウェアを脱ぎ捨てようと猛烈な勢いで畳に顔を擦り付け始めた。
どこまでもマイペースな「我が家の住人」との、長い冬の始まりだった。




